「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・9

M・フーコーは、「権力とは、監視することである」と言った。
何のために監視するかではない。監視せずにいられない者が、権力者になるのだ。
それは、彼らの身体意識から発している。
「見える」という反応と、志向的に「見る」ということとは、ちょっと違う。
新しいヒット商品の購買衝動は、それが「欲しかった」という志向性によってではなく、それを前にして「欲しくなった」という「反応」から生まれてくる。民衆の心というのは、そういうものだ。
しかし、支配者の、もしくは誰の中にもある支配しようとする強迫観念は、「欲しかった」商品を探している。つまり「欲しかった」商品が出ていないかと「監視」し、志向的に「見る」ということをしている。
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現象学者は、「意識」の本質は「志向性」にあるというのだが、われわれにとって世界は、「見る」に値するものだろうか。
そんなことは、わからない。
わからないのが「意識」の本質で、それでも世界が見えてしまうのが、生き物の身体機能なのではないか。
彼らがいうように、見るに値するものと決めてかかって「志向的」に見ようとするのが、この生の先験的な衝動であるのか。
そんなことがあるものか。
値するものだと決めてかかっているのは、社会であって、自然の原理ではない。
「意識」は、身体の苦痛として、「受動的」に発生する。「見える」とは、一種の目の苦痛なのだ。だから、疲れてまばたきするし、夜になれば目を開けていられなくなる。
見ることが目の苦痛だからこそ、それを鎮める体験として、世界が美しく見えることもある。「志向性」それじたいが、ひとつの「反応」として身体の苦痛を体験したところから生まれてきている。
生まれたばかりの赤ん坊は、この世界が見るに値するものだとは、思っていない。
見えるものを見ているだけだ。
そしてそれでも、笑うこと祝福することを、ひとつの「反応」として身に付けてゆく。
そのとき彼は、「欲しかった」ものを見つけたのではなく、苦痛から発した「意識」であればこそ、それを鎮めてくれるよろこばしいものとで出会っただけだ。赤ん坊でなくても、人は、そのようにして出会いのときめきを体験する。
世界は見るに値するものだという予見で眺めるかぎり、出会いのときめきはない。魅力的な商品は、「欲しかった」のではなく、予期せぬ出会いのときめきとともに「欲しくなる」のだ。
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見るに値するから「見る」という「志向性」が生まれてくるのではない。見ずにいられないからだ。見ずにいられないのは、その前にまず、何かに「反応」しているからだ。
人間の社会には、人がたくさんいる。目障りでしょうがないくらい、たくさんいる。目障りだから、なんとかしたい。まあそんなことは仕方ないことなのだけれど、なんとかせずにいられない者もいる。そういう者が、リーダー(支配者)になる。現代社会でいえば、出世する。
彼らは、身体を支配して生きている。身体の居心地の悪さ(苦痛)に耐えられない。そうして、人が多すぎて身動き取れない状況の中で、何とか自分のスペースを確保しようと他人を監視する。近づかないようにみずからの身体を支配しコントロールしているし、近づいてきたら、どけようとする。そのように世界と和解することに失敗した「反応」から、「見る」という「志向性」が生まれてくる。「見る」という「志向性」もまた、ひとつの「反応」にすぎない。
直立二足歩行する人間は、くっつきあって群れで歩いていると、将棋倒しになる危険がある。だから、個体間の距離のことがとても気になる。現代社会では、肩と肩がぶつかったといって殺し合いになったりする。おそらく自然を逸脱するほどにたくさんの個体がくっつき合って暮らしているから、そのストレスも小さくないのだろう。
しかしその一方で、人間ほどくっつき合いたがる生き物もいない。正常位でたくさんの体の面を接触し合いながらセックスするのは、人間くらいのものだろう。現代人は、スタジアムに十万人が集まって、わいわいやっている。直立二足歩行は、それぞれの個体がくっついてゆくことによって生まれてきたのであり、そうやって狭いスペースにたくさんの個体が集まることのできる姿勢でもある。
支配者の能動性(志向性)と民衆の受動性(反応性)は、人間性の、この二つの傾向の両極であるといえるのかもしれない。
自分が歩いてゆく前に人がいて、ぶつかる。
人が近づいてきたときに、うまくよけることができない。
人間は、少々人が多くても、そういうことを何とかやりくりして生きている。やりくりする道具として、「言葉」も持っている。運動神経の鈍い人は、そのぶんちゃんと言葉に対する鋭敏な感受性を持っている。
しかし中には、そういうやりくりがうまくできない人や、やりくりをしたがらない人もいる。そのために彼は、「反応」するよりも早く「先を読んで」準備しようとする。それでもぶつかりそうになれば、邪魔だ、とどかす。
これが、「支配すること=権力」であり、「先を読む」とは、「監視する」ということだ。
人のことが気になって仕方がないから、監視し、人との関係の秩序を先取りして準備しようとする。
彼は、秩序のために人を監視する。秩序の奴隷となり、秩序の奴隷として「支配者」になる。
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御霊信仰」であれなんであれ、民俗社会の習俗を「秩序を維持するため」という論理で語ろうとする研究者は多い。たいていの研究者がそう思い込んでいる。
しかし民衆は、秩序にしたがう者ではあるが、秩序をつくっているのでもつくりたがる者でもない。それは、支配者がすでに用意してくれてある。すでにある秩序を祝福するが、嘆いてもいる。
民衆は、志向的にものを「見る」ということがうまくできないから、秩序もうまくつくれない。民衆は、たしかに「烏合の衆」なのだ。支配者が会いたい人や事柄と会って生きているとすれば、民衆は、予期せぬ人や事柄との出会いにおどろきときめきながら暮らしている。まあ、多かれ少なかれそこから逸脱して大人になるとともに人は制度的になってゆくものだが、歴史の浅い時代の民俗社会の人びとは、現代市民ほどには、「先を読む=明日のスケジュール」にしたがって生きていたわけでもないはずです。
古代や中世においては、「先を読む」ことは、支配者や呪術師の仕事だった。
「烏合の衆」ならばこそのカタルシスというのはあるわけで、それが、支配者に他愛なく支配されていたにちがいない前近代の民衆の生を支えていたのだ。
民俗社会の人びとにとっての遊行の宗教者は、なにはともあれ予期せぬ出会いのときめきを運んできてくれる相手だった。彼らは、「異人に対する恐怖心と排除の思想」などという「怨霊」は持っていなかった。
サッカー場や野球場やコンサートに行けば、民衆が、いかに人がたくさんいることに困っていない人種かということがよくわかる。そこで秩序が乱れるにちがいないということを、たいして心配していない。むしろ、たくさん人がいるぶんだけ出会いのときめきめきがあると思っているくらいだ。そこに集まっている人びとは、ふだん会ったこともない「異人」ばかりである。しかし「異人」だからこそ、出会いのときめきがある。
それは、民衆の身体意識だ。「世界内存在」などというが、そのとき人びとは、身体そのままの「身体の輪郭」を拠点にして、世界=他者=異人との出会いのときめきを体験している。
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烏合の衆として群れ集まりたがる民衆は、長屋という集合住宅で暮らしても平気だが、支配者は、自分だけのテリトリーを確保できる大きな邸宅を構えようとする。
民衆は、身体そのままの「身体の輪郭」を持っているから、そんな狭苦しい場所でも、世界との出会いを体験できる。しかし支配者の「身体の輪郭」は錯綜しているから、それを統合する「身体の輪郭」として、邸宅や共同体という目に見えるテリトリーが必要になる。そしてこの「身体の輪郭」は、外部との出会いのためではなく、外部を排除するための拠点として機能している。
狭い道を車で通るときに肩がぴくぴく震えるのは、車という「身体の輪郭」が、外部を排除している現象にほかならない。
民衆は、身体の苦痛を契機として現れてくる「身体の輪郭」という「秩序」を受け入れ、支配者は、身体の苦痛を逸脱したところに「身体の輪郭」をつくっている。
いやまあ、民衆だって、支配者をまねてというか共同体の制度に浸されたレベルにおいてそうした逸脱=錯綜した「身体の輪郭」をつくろうともするのだが、基本的には支配者とのそうした属性の違いというのはある。
民衆にとって支配者は、異なる他者=異人であるがゆえに、祝福し、模倣しようともする対象になる。
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「異人論」の著者である小松和彦氏は、民俗社会の人々の心性の本質は「異人に対する恐怖心と排除の思想」にあるというのだが、異なる他者=異人に対しては祝福し模倣しようとするのが、民俗社会の本性であろうとわれわれは考えます。
あたりまえに考えて、男と女がくっつきあうのは、たがいに相手が異なる他者=異人だからでしょう。もっとも本質的な「異人」という関係性がそこにあるとすれば、「異人」とは、祝福しようとする対象であるはずです。
みずからの身体そのままの「身体の輪郭」をたしかに持てば、その外部の他者は、すべて異人です。他者=世界とは、「この身体の輪郭ではない存在」のことです。「この身体の輪郭ではない存在」としてそれを認識するとき、「この身体の輪郭」に対する意識は消えている。「この身体の輪郭」が「身体の苦痛の綜合」であるのなら、「この身体の輪郭」が消えてゆく体験は、ひとつの快楽(カタルシス)です。そして「この身体の輪郭」が消えてゆく体験は、「この身体の輪郭ではない存在」を認識することによってしか得られない。他者=異人とは、「この身体の輪郭ではない存在」のことです。「この身体の輪郭ではない身体の輪郭」の持ち主のことです。
異なる、とは、「ではない」ということだ。
1は0ではないし、0は1ではない。これがコンピューターの原理でしょう。
男は女ではないし、女は男ではない。
あなたは私ではないし、私はあなたではない。
意識は身体ではないし、身体は意識ではない。
そういう「差異性」において、意識が発生し、「あなた」という認識が発生し、「私」を認識する。そういう差異性において、1が1であることがたちあらわれ、0が0になる。
そういう差異性に気づいたとき、人はどういう態度をとるか。
まず、驚きときめく。そして、「私」を発見する。しかし、その体験に失敗して混乱したとき、それを整理して「秩序」を獲得しようとする支配欲(志向性)が生まれてくる。
世界=他者は「この身体の輪郭ではない」という差異性、人間存在はそれを認識=祝福せずにいられない与件を抱えている。民俗社会の人びとが、そういう衝動をたしかに持ったプリミティブな存在だとすれば、支配者は、そこから逸脱していった存在です。
小松氏の言い方なら、民俗社会の人びとのほうが逸脱してしまっていることになる。逸脱しているのなら、そうやすやすと支配なんかされるものか。というか、支配者は、支配したくて逸脱してゆくのだ。
支配者にとって、みずからが支配する共同体こそ「この身体の輪郭」であり、その外側はすべて「恐怖心と排除の思想」の対象である「怨霊=敵」にほかならない。肩をぶるぶる震わせながら車で狭い道を通ってゆく、支配者は、そのような「監視する」観念の状態で共同体を支配している。