「異人論」の本質について考える

「異人」について語ることは、つまるところ「他者」について語ることであろうと思えます。いつの時代も、人は、他者との関係に四苦八苦して生きている。生きものの世界は、つまるところ、男=オスと女=メスという「異人」どうしの関係の上に成り立っている。
現代は、歴史上かつてないほどに多くの人が寄り集まって暮らし、社会の仕組みもそれにともなって高度で複雑になってきているのであれば、人間関係もさまざまにややこしくなってしまっている。であれば、他者という異人とどう関係してゆくかという問題は、われわれ現代社会で暮らす人間の、もっとも差し迫った問題のひとつであろうと思えます。いじめとか引きこもりとか鬱病とか自殺とか、つまるところそれらは、他者との関係をどうやりくりしてゆくかという「異人論」の問題でもあるはずです。
現代のこの国の民俗学や思想の世界で、「異人論」はあまり元気がないらしい。どうしてでしょうか。いじめとかうつ病とか引きこもりとか自殺とか、それらの現代的な社会病理といわれている問題は、けっきょく「他者論=異人論」であるはずです。しかしそういう問題にたいして、みんな具体的技術的な解決の方法ばかりさぐって、本質を問う「異人論」は置き去りにされている。
具体的技術的な解決方法を提出するなんて、新しい考えのようでいて、じつは古くさい人間中心主義の思想にすぎない。人間にそんなことができる能力はない。それは、「時間」が解決するのであり、「情況=構造」が解決してくれるのだ。なのに現代人は、そうやって人間であること、すなわち自分たちの観念のはたらきを過信して解決方法ばかりさぐっているから、上のような社会病理が増えてきているのだ。
社会学者なんか、すぐ偉そうな顔をして愚にもつかない解決法をあれこれ提出してくる。俗物が何言ってやがる、と思う。解決方法なんかないのだ。彼らは、そうやって手っ取り早い解決方法ばかり探っているから、本質を見失うのだ。薬は、病気を治してくれるが、病気そのものを減らしてくれるわけではない。彼らは、そんなことばかりやっている。
現代の民俗学における異人論で、いちばん元気がいいのは、「異人論」という本の著者である小松和彦氏だそうです。しかし僕が読んでみたところでは、この人の元気はいいが通俗的なだけの「異人」分析が、けっきょくこの国での異人論を流行らないものにしてしまっているのではないかと思えます。
現代の思想や哲学の分野では、社会的な「監視」の制度とか「差異」という問題があれこれいわれ、それはたしかに「異人論」の問題でもあるはずなのに、小松氏の分析には、そういうことにたいする考察が、まったく子供だましのレベルでしかない。「異人殺し」とか「妖怪」とかの民俗学の具体的な事例をちまちまいじくりまわして解釈しているだけです。
研究者は、自分たちの知識が、何か特権的なことだと思っている。たしかに小松氏やその他の民俗学者が提出してくれる未知の事例はおおいに参考になるが、彼らが人間について深く考えているとは、僕はちっとも思わない。
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一般的に「異人」という概念は、共同体との関係で説明されています。
共同体の外部の存在であるサンカ、旅の僧、旅芸人、乞食、移民、亡命者、行商人、巡礼。そして、共同体内部の異分子である身体障害者、娼婦、犯罪者、ちび、でぶ、ぶす、のっぽ、美人、変人、妖怪、お化け、大食い、オタク、サディスト、マゾヒスト、ホモ、レズ、転校生、単身赴任者、老人、若者、子供、未亡人、出戻り、行かず後家、継子・・・・・・こんなふうに挙げてゆくと、純粋な「常民」であることなど誰もできなくなってしまう。
誰もがどこかしらに「異人」の要素を抱えている。
つまり、異人とは、われわれの心の中にある共同体にたいする拒否反応や怖れや負い目を象徴する概念でもある。単純に、社会の外にいる人、というわけでも、社会的な身分だけの問題でもない。われわれは、異人を差別したり憧れたりすると同時に、われわれじしんが異人として存在するほかない情況や、異人であろうとする願いを持っている。
われわれの人格は、共同体の構造にしたがって形成されている部分と、共同体を拒否したり逸脱したりしたところでつくられている部分がある。共同体で働いているときの自分と、家に帰って晩酌をしたり子供を抱いたり妻や恋人とセックスをしたりしているときの自分は同じではない。人を人とも思わない殺人犯が、誰よりも母や家族を大切に思っていたりする。
誰もが、共同体の一員である自分とは別の、「異人」としての自分を持っている。
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異人は、共同体との関係から生まれてくるのではなく、すでにそれ以前から存在している。たとえば、動物の世界に巣立ちがあるように、親と子、大人と子供(あるいは若者)、それじたいがたがいに異人である関係です。
われわれがかつてチンパンジーのごとき猿であった時代から「異人」は存在していた。
チンパンジーは、成長した若者を異人として群れから追い出す。追い出された若者のオスは、群れの衛星のように行動しながら、群れに戻るチャンスをうかがう。メスは、他の群れに吸収されることが多い。あるいは、群れをとび出した若者どうしで新しい群れをつくることもある。
鳥の世界にも巣立ちの季節があるように、この世界に「異人」が存在するということは、生きものとしての根源的な在りようと関わっている。
生きものが生きてゆくということは、巣をつくるとか群れをつくるとか、だんだん自然から逸脱してゆくいとなみです。自然の混沌から逸脱して、ある秩序をつくってゆこうとする。で、そのさいに、邪魔になってきたものを排除しようとする。大人たちは、自分たちのつくった秩序を維持しようとして若者を排除し、若者は、自然のままでいようとして逃げ出す。この関係においては、人間の群れも、他の動物の群れにおいても同じであろうと思えます。
そうして逃げ出した若者も、自分たちで群れをつくろうとするとき、その新しい世界の混沌の中で、秩序を求めようとしている自分に気づく。生きものは、秩序を求めて異人(異物)を排除しようとすると同時に、みずからの存在を異人(異物)として秩序から逃れようともする。われわれは、この二つの衝動を抱えながら、みずからの社会的な立場や生き方を決定してゆく。
生き物であることの本質が「(身体が)動く」ということにあるとすれば、われわれは、秩序を求めて動き、秩序から逃れようとして動いてゆく。身体の動きも心の動きも、そういうふうにできている。誰もが、「秩序」だけを求めて生きているわけではない。生き物にとって「秩序」は、そこから逃れて動き出そうとする契機であると同時に、たどり着こうとする地平でもある。われわれは、秩序を目指しつつ、けっして秩序にたどり着けない。
まあ、社会的な立場をごく大雑把にいえば、支配者とは秩序をめざす存在であり、被支配者(民衆)は秩序から逃れようとする本能を持っている、ということでしょうか。そういう二つの衝動の組み合わせによって、人それぞれの立場や生き方の色合いが決定されている。
男と女が一緒になって家族をつくることは、家族という秩序を求めて、家族の外を排除してゆく行為です。そして家族の中の、夫と妻、親と子、長男と次男、といったふうな順位は、それじたいが秩序であると同時に、それぞれが秩序から逸脱して「異人」であろうとすることから生まれてくる。
他者に対して異人であろうとすること、他者を異人として見ようとする衝動は、誰の中にもある。あるいは、他者が異人に見えてしまい、自分を異人として認識してしまう。「意識」のはたらきとは「差異」の運動である、ということでしょうか。秩序は、混沌にたいする「差異」として求められると同時に、意識は、秩序にたいする「差異」として混沌に向かいもする。意識は、「差異」に向かって動いてゆく。動いてゆくのが、生き物なのだ。
他者が「異人」として自分の前に存在することは、ほっとすることだ。われわれは、他者を「異人」として認識することによって、自己を発見する。人は、「異人」との出会いによって、はじめて生きてあることのカタルシスを得る。
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生きものの意識は、痛いとか、痒いとか、息苦しいとか、空腹であるとか、そうした身体の苦痛の知覚として発生する。生きものが生きてゆくことは、そのような今ここの「混沌」を否定してゆくいとなみであって、未来に向かうことではない。今ここを否定した結果として、未来に立っている。未来がどうなっているかとか、未来が存在することじたい、生きものにはわからないことなのだから、未来など向かいようがない。未来は、つねに「結果」として確認されている。
生きものの本性は、「未来に向かう」ことではなく、「今ここを否定する」ことにある。たとえば、今ここで息苦しいという混沌が生まれ、息を吸ってそれを否定してゆくのが命のはたらきだとすれば、そのときもたらされる「秩序」は、「息苦しくない」というかたちで認識されている。
「・・・・・・ではない」という状態にたどり着くこと、それがいのちのはたらきであり、「・・・・・・ではない」と認識することが生きた心地なのだ。
コンピューターの機能は、0と1だけで成り立っているらしいが、0とは「1ではない」という機能であり、1とは「0ではない」という機能である。
「私」とは「あなたではない」という認識であり、「あなた」とは「私ではない」という認識である。すなわちわれわれは、秩序という未来を目指しているのではなく、今ここの混沌から逃れようとしているだけだ。その「秩序」は、目指したものではなく、混沌から逃れようとしたことの「結果」にすぎない。
生きてあることは、混沌の中に投げ入れられてあることであり、そのとき意識は、あくまで今ここ=混沌から逃れようとしているのであって、秩序=未来をめざしているわけではない。根源的な意識は、「秩序」などというものを知らない。混沌の中でそこから逃れようとすることが意識のはたらきであれば、「秩序」とは、意識がはたらいていない状態にほかならない。意識は、意識がはたらいていない状態のことなど知りようもないし、したがってめざしようもない。意識がはたらいているということは、混沌の中に投げ入れられてある、ということです。
心が動いてゆくことが、心がはたらいていることの証しなのだ。心は、今ここを否定して動いてゆく。心(意識)は、今ここを否定せずにいられない本質を持っている。秩序をめざすのではない、今ここにうんざりすることが意識のはたらきなのだ。この生にうんざりすることがこの生の確認であり、すくなくともわれわれが「生きもの」であるというレベルでの生きてあることの醍醐味は、そうやって心が動いてゆくことにある。心が動いていったことの「結果」として、この生の醍醐味=カタルシスがもたらされるのだ。先験的なこの生のよろこびなどというものはない、それは、苦痛が消えてゆく体験としてもたらされる。息をすることの醍醐味=カタルシスは、息苦しさが消えてゆく体験としてもたらされる。この生にうんざりしなければ、この生の醍醐味=カタルシスもないのだ。
ただそれは、現代人のこの社会に生きることのよろこびとはまた別のものらしく、そこのところがやっかいなのだ。社会的な生のよろこびは、生きものとしてのそれを否定してゆくことの上に成り立っている。
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社会秩序における「今ここ」を否定する行為として、若者という異人が排除される。大人たちは、この社会で若者と共存していることの混沌を否定する。しかし、彼らを、半人前のだめな人間として精神的に排除(差別)しつつ、けっして追い出さない。たえず若者が排除(差別)されている動態=混沌こそ、秩序なのだ。排除し続けるためには、追い出してしまってはいけない。秩序の中に組み込みながら、永久運動として排除(差別)し続けるのだ。
大人たちは、若者が自分たちの世界を持つのが気に食わない。あくまで自分たちの世界につないでおいて、排除(差別)し続けていたい。若者たちはそれを拒否して自分たちの世界を持とうとするが、大人たちはそれを赦さない。この社会に引きずり込む。引きずり込んで、排除(差別)する。歴史的に非人や身体障害者がこの社会の最下層につなぎとめられて差別(排除)され続けてきたのも、つまりはそういう構造だろうと思えます。
「意識」は、「・・・・・・ではない」と知覚するかたちで発生する。げんみつにいえば、「1は、0ではない」と知覚するのではない。根源的な意識は、0なんか知らない。ただもう、「そんなのいやだ」、「そんなの違う」と反応する。それが「知覚する」というはたらきであり、そういう根源的な生きものとしての衝動に目覚めるのが、「若者」という世代なのだ。
「差異化する」という意識の根源のはたらき。意識にとって身体は、痛いとか暑いとか空腹だとか、苦痛とともにその存在を知らせてくる対象です。それは、「そんなのいやだ」「そんなの違う」という反応です。意識は、「そんなのいやだ」「そんなの違う」という反応として発生する。意識とは、もともとそういうはたらきなのだ。
目の前にたちあらわれた他者の身体は、何はともあれ「そんなのいやだ」「そんなの違う」と反応=知覚するほかない存在です。しかしその拒否反応は、同時に、意識が先験的に「こんなのいやだ」「こんなの違う」と反応しているみずからの身体ではない、という知覚=認識でもある。であれば、そのとき意識は、みずからの身体ではない他者の身体を、「こんなの違う」というかたちで「祝福」している。他者の「差異性」を祝福している。
他者の身体は、「みずからの身体ではない」ということにおいて、「苦痛」をともなうことなく知覚=認識できる対象です。祝福するとは、苦痛をともなっていない認識=知覚にほかならない。飯を食えば、空腹という苦痛が消えている。そして「食った食った」と言って満足するのだとすれば、そのとき意識は、苦痛=身体が消えているという事態を祝福している。
目の前の「差異性」を持った他者を知覚=認識することは、苦痛をともなった存在であるみずからの身体にたいする知覚=認識が消えている体験にほかならない。「みずからの身体ではない」と知覚=認識するのだから、それがみずからの身体にたいする知覚=認識であるはずがない。みずからの身体にたいする知覚=認識ではないことが、「みずからの身体ではない」という知覚=認識です。そのとき意識にとってのみずからの身体は、たんなる「記憶」された対象であって、今ここにおいて「知覚=認識」されている対象ではない。
すなわち「・・・・・・ではない」という知覚=認識は、あくまでそれじたいの根源的な知覚=認識であり、意識は、そういうかたちで発生してくる。
意識が身体の苦痛として発生するということは、そうした対象であるみずからの身体を通して認識される他者および世界は、「みずからの身体ではない」ということにおいてすべて祝福されているのだ。
身体=生、われわれは、先験的にこの生にうんざりしているからこそ、この生において「祝福する」という体験する。他者の「差異性」を知覚=認識するとは、他者を「祝福する」、という体験なのだ。
人は、自分にうんざりしているから、他者を祝福するのだ。他者を祝福しようとすることを本質的な衝動として抱えているからこそ、祝福している自分を祝福する、というようないやらしい制度性(ナルシズム)も生まれてくる。それは、祝福しようとする生き物としての根源的な衝動ではなく、「祝福されたい」というスケベ根性に過ぎない。
支配者とは、本質的に祝福されたがっている存在です。そして被支配者=民衆とは、祝福しようとする存在なのだ。そして誰もがこの社会の一員であり家族の一員であるかぎり、この二つの衝動は、誰の中にもある。われわれはこの二つの衝動のかねあいでみずからの「立場」を決定して生きている。
何はともあれ、「異人」との出会いは、根源的本質的には「祝福する」という体験なのだと思えます。そこのところで、世の研究者がとなえている「異人論」は、すべて不満です。たとえば「異人論」という本の著者である小松和彦氏が提出する「民俗社会の人びとにおける異人にたいする恐怖心と排除の思想」などといういかにも人を見下したような分析なんて、ティッシュペーパーよりも薄っぺらだ。