「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・17

人類が最初に見つけた「神」は、いい神だったのか、それとも祟る神だったのか。べつにどちらでもないでしょう。ただもう、人間にはない力や現象に驚き畏れただけだ。ことに原始時代の日本列島では、虫や草でも神だったわけで、いい神か悪い神かというような、そんなことではない。すくなくとも、「御霊信仰」の対象である「怨霊=祟る神」が最初に見つけられたのではないはずです。そう言うややこしい神のイメージは、あとの時代になってから生まれてきた。
古事記」は、人間はかつて神だった、という世界観で語られている。神は人間の先祖であって、神がわれわれに何かをしてくれるわけではない。あくまで神として「祝福する」対象にほかならない。そして天皇こそは、いまだに神でありつづけている存在である。古代人は、そう思っていた。彼らにとって根源的な神のイメージは、人間にいいことをしてくれるとか悪いことをするとかという対象ではなく、人間そのものだった。
民衆が支配者よりも先験的でプリミティブな存在であるということは、古代や中世においても、それだけ支配者よりも原始的な神のイメージを残していたということです。いい神か悪い神かというような損得勘定を、支配者よりも民衆が先に持ったということはありえない。人類の歴史において、そういう損得勘定を最初に持った者がリーダーになっていったのであり、得になるいい神も、損をこうむる悪い神も、まず支配者の観念で見つけられたのだ。
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「悪霊論」の著者である小松和彦氏は、悪い神である「怨霊」や「妖怪」のイメージはまず民俗社会から生まれてきた、という認識で論を進めています。しかし、そんな「損得勘定」を支配者よりも民衆が先に持ったということは、ありえないのです。小松氏のいう通りなら、「一反もめん」や「ぬりかべ」や「かさおばけ」は、古代の民衆のあいだから生まれてきたものであらねばならない。しかしそれらは、悪霊や妖怪のイメージが民間社会に定着した近世になってからのものです。古代の悪霊や妖怪のイメージなど、ほとんどが大陸のそれのバリエーションです。つまりそのイメージは、大陸文化と日常的に接していた支配者階級から生まれてきた、ということです。
いま流行りの「風水」だとか、「方角」がどうだとか、そういう迷信は、権力社会から生まれてきたのであって、民間信仰としてあったものではない。平安時代の京都において、悪霊は比叡山の向こうの方角からやってくる、という強迫観念(迷信)にせかされてそこに延暦寺を建てたのは、権力者たちなのだ。
古代の日本人にとって「はか」という言葉は、この世(この生)の終わり、という意味であった。大陸の人間たちが抱くような、この世の続きとか、もうひとつの生といったイメージはなかった。海に閉じ込められた日本列島では、水平線の向こう(=他界)は、わからない場所であり、そんなところは「ない」とイメージするのが、縄文時代以来の伝統だった。彼らは、支配者であれ民衆であれ、自分が死んだらどこに行くかということなど、「わからない」ことだと思っていた。そこはわけのわからない「黄泉(よみ)の国」であり、その「わからない」という認識を救済とするのが、古代神道の世界観(他界観)だった。つまり古代人にとっての「墓」は、あくまで生きているものが死者を思い出すための場所であり、そういうお祭り広場として巨大古墳がつくられていたのだし、中世においてもまた、そこに芸能の舞台をつくったりしていた。
「死者の怨霊」などというイメージは、歴史をさかのぼればさかのぼるほど、民衆のレベルでは希薄だったし、権力者たちは逆に信じられないほど強く怯えていたのだ。
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支配者階級にたいする古代の民衆の意識は、根底にあるのは神にたいする意識と同じで、いいことをしてくれるかどうかというような損得勘定など希薄だった。ことに天皇にたいしては、あくまで「祝福」していっただけだった。
損とか得とか、いいとか悪いとかという観念は、ひとつの他界意識であり、それはまず権力社会から生まれてきた。そういうことに強くこだわるのが、権力意識なのだ。
貞観5年(853)の京都で催された「御霊会」における民衆は、ひたすら支配者=天皇を祝福していっただけだった。そして、そこにこそ民衆ならではカタルシスがあった。
明治維新だって、日本列島の住民の中にある天皇を祝福するという心性の伝統の上に実現されていったはずです。きわめて有能な将軍であったはずの徳川慶喜がしだいに弱腰になっていったのは、天皇に盾突くことへの後ろめたさがあったからだろうし、薩長があれほど傍若無人になれたのも、天皇を祝福しているという大義名分があったからでしょう。けっきょくは、その「立場」の違いが勝敗を分けた。
司馬遼太郎は、「峠」という小説の中で、次のように言っています。
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「天子(天皇)は、神である」
というのが、日本人の土俗信仰である。日本語でいう神というのは「清浄なるものの極致」という意味であり、切支丹の神や、讃岐の金比羅さんのような仏教神や、天神さんのような、菅原道真の怨霊を祀ったような神とは、成り立ちが違っている。それらの神は、なんらかの力を持っている。
日本古来の原始神は、ほとんど力を持っていない。人に金もうけの運もたらしてくれないし、人の病気をなおしてくれず、長寿をもたらしてくれるわけでもない。ただ清げに存在し、ただ人の尊崇を受けるだけである。
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日本列島における神にたいする信仰の歴史はそういうかたちで始まり、日本人の天皇崇拝は、そういうかたちで終始して現在にいたっている。
天皇は、「病気をなおしてくれる」神=支配者ではないのです。「ただ清げに存在し、ただ人の尊崇を受けるだけ」なのです。したがって実質的な権力が藤原氏一族に握られていた平安時代貞観五年の「御霊会」においても、あくまで天皇を「祝福する」イベントとして、お祭り気分で参加していっただけのはずです。
べつに民衆が、「御霊会」を開いてくれと頼んだわけではない。支配者が勝手に企画し、公布しただけだ。
小松氏は、このイベントは「民衆が疫病の流行を食い止めることを支配者(=天皇)に要求していった結果として催された」と言っている。まったく、言うことが安直過ぎるではないか。社会の表層をあれこれいじくることばかりしている現代の社会学者ならともかく、民俗学を研究する学者がこのていどの歴史認識でいいのだろうか。中世の民衆に、そんな近代市民の権利意識のごときものがあるはずがない。そのような意識は、ヨーロッパのようにたくさんの国が競い合って群立している地域から生まれてくるのだ。そんな気のきいたものがあれば、この国はもっと早く近代化していたし、天皇制だってとっくになくなっているにちがいない。
小松氏はさらに「そういう要求をすることで民衆は、暗に天皇を批判していたのだ」というが、こんな支配者の勝手な理屈の「御霊会」で納得してしまうなんて、のんきなものです。要求なんか、何もしていない。民衆とは、憂さ晴らしができればそれでひとまず納得してしまう人種であり、「怨霊」なんてどうでもよかったのだ。
支配者は、民衆よりもずっと損得勘定で動いている。民衆にとっての生きることの第一義的な問題は、「損得勘定」ではなく、いい気分になれるかどうかということです。民衆は、そういう「カタルシス」とともに生きている。だから、いつの時代も支配者にしてやられなければならない。民衆が、小松氏のいうようにいい神か祟る神かなどという損得勘定で生きる人種なら、封建制度なんか成り立たないのだ。
そのとき民衆は、「怨霊」を祝福し祀り上げようとしたのではなく、支配者=天皇のアイデアを祝福していたにすぎない。本気で天皇を批判し要求をするつもりなら、病人の看護とか隔離とか、死体の処理とか、まず具体的なして欲しいことがたくさんあったはずです。しかし「病気をなおす」ことは、天皇という神の仕事ではないし、そんなご利益を当てにしている民衆などひとりもいなかった。疫病対策は、日本列島の伝統として、自分たちでやるしかないと思っていた。
菅原道真の怨霊騒ぎに代表されるように、「御霊会」なんて、権力闘争の始末として、すなわち権力者たちの強迫観念を鎮めるために開いていただけじゃないですか。そしてそんな情況でも、民衆は、天皇を批判などしなかった。天皇はあくまで、無条件に「祝福」できる対象だった。それは、天皇の存在が必要だった、というのではない。ただもう、何かを「祝福」せずにいられなかったのだ。日本列島の歴史は、天皇を必要としたのではない。そこに天皇がいたのだ。天皇がいなくなっても、民衆は、「祝福する」ことをやめないだろう。
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中世の「地獄草紙」や「餓鬼草紙」のリアルな絵を見れば、そのころ京都の民衆のなかに、いかにたくさんの餓え苦しむ人がいたかがよくわかる。そしてそんな人びとは、ただ悲観して無気力に成り果てていただけでもない。そこに描かれた生き生きと悶え苦しむ表情は、なんだか歓喜しているようにも見えてくる。中世における京都の町の周縁には、地獄のダイナミズムがあったらしい。
人は、どんな情況に置かれても、希望とカタルシスを体験することができる。それは、身体が「消えてゆく」観念のはたらきとともに、「祝福する」という本性的な衝動を持っているからだ。希望とカタルシスを体験することができるからこそ、疫病が蔓延する京都の町の橋の下や羅生門にだって住み着いてしまったのでしょう。当時の民衆が、「天皇を批判する」だの「要求する」だのという恨みがましい気持ばかりを募らせて生きていたなんて、よくそんな下品なことがいえるものだ。というか、そんなのんきな学生運動のごとき気分ではもう生きられないような人がたくさんいたのだ。
支配者がつねに「共同体の秩序」のことを考えているとしたら、民衆は、今の自分の暮らし、すなわち現在におけるみずからの「身体の実存」のことばかりが気にかかっている。民衆とは、そういう人種なのだ。そこには、祝福せずにいられない無知や身勝手な残酷さもあるし、それだけずるくて臆病だということでもある。しかしわれわれがこの社会における他者との関係を歴史的な「異人論」として考えようとするなら、支配者と被支配者は違う人種である(=観念のはたらきが違う)ということだけは、ひとまず確認しておく必要がある。
支配者は、現在における他者を祝福することを知らない。みずからを他者の「未来」にあらわれる存在として、祝福されたがっている。支配するとは、他者の未来に先回りして自分を祝福させる、という行為にほかならない。しかしそうやって相手の気持を読むということばかりしていると、相手の怒りや憎しみや軽蔑も先回りして想像してしまって居たたまれなくなるという事態にもおちいるわけで、支配者のそういう強迫観念と、死者の霊をひたすら祝福してゆこうとする民俗社会の習俗が一緒になって、「怨霊」を鎮めて祀り上げるという「御霊信仰」が生まれてきた。世間ではよく「人の身になって考えよ」などというが、人がなんと考えようと人の勝手だし、そんなことをあれこれ詮索するひまがあったら、無条件で相手を「祝福」してゆくすべを身につけたほうがいいのかもしれないし、それが、日本列島における民俗社会の伝統ではないかと思える。
明日のスケジュールをせっせと埋めながら誰もが「先を読む」という支配者のメンタリティを持ちつつある現代の市民社会において、われわれもまた、すでに「怨霊」に祟られている。
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ひとまず、小松和彦氏の「支配者と御霊信仰」という論文に対する異論を以上のように提出してみました。気に食わない人がいたら、どうぞおっしゃってきてください。僕は、この研究者の安直な分析には、どうしても納得できない。