「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・16

「怨霊」のイメージは、日本列島の共同体のかたちが整備されてくるとともに、権力社会の権力闘争から、すなわち権力者の監視しようとせずにいられない意識が監視されているという強迫観念となって生まれてきた。
民衆は、権力者に監視されているという状況を、「祝福」し返すことによって、そこからみずからの存在が消えてゆくカタルシスを汲み上げてゆく。しかし、あくまで「監視する者」である権力者に、そのすべはない。監視し続ける者は、監視され続けねばならない。
古代における「怨霊」は、ひとまず墓をコンパクトで厳重なものにして埋葬することによって鎮められてきたが、時代が下って、仏教による「他界」の概念の浸透や「悪霊=もののけ」信仰の興隆など、役小角(えんのおづの)や安倍清明などの呪術師が権力社会で暗躍するころになってくると、権力者たちの強迫観念も錯綜してくる。
平安時代になると、権力社会内部だけではもう「怨霊」を鎮められなくなってきた。つまり、権力闘争がより熾烈により複雑になって、呪術師を頼んでも自分たちの強迫観念を消すことができなくなっていた。
で、民衆の「祝福」しようとする「祖霊信仰」あるいは「まれびと信仰」を呼び寄せるようにして、「怨霊を葬り去る」のではなく、「怨霊を祀り上げる」というかたちの「御霊信仰」が生まれてきた。そのイベントである貞観5年(863年)の「御霊会(ごりょうえ)」では、歌や踊りの舞台が設けられるなどして、民衆はもうお祭り気分だったらしい。
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それは、そのとき京都やその周辺中に疫病が蔓延していたことがきっかけだったのだが、それほどに京都の町の周縁における衛生状態は荒廃していたらしい。
そのころ京都の町は、他の地方よりも税が軽減されていたり、新しい芸能や技術文化が生まれてくるなどして、地方からどんどん人が集まってきていた。だから支配者もその動きを監視する必要があったし、民衆の関心も京都の町だけに集まって、外には向いていなかった。つまり、M・フーコーがいうような近代的な「監視」のシステムが自然に生まれ、支配者(監視人)と民衆(囚人)という関係が、日本列島のどの地域よりもタイトに出来上がっていた。しかも疫病が蔓延していたのなら、支配者もなおさら監視しようとするのは当然で、その意志の表現として、神泉苑という支配者だけの保養所を民衆にも開放して「御霊会」が催された。
そのとき権力者が、「怨霊」と「疫病の流行」を結び付けてイメージしたのは、それだけ構造的に強く民衆を監視していたからだ。そして民衆がその託宣を承認することは、支配者を祝福しつつ、みずからが京都の市民であることを確認することでもあった。
支配者は民衆を「監視」せずにいられなかったし、疫病の流行に悩まされていた民衆はもう、支配者を「祝福」するしかなかった。
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日本列島の住民は、海の向こうの「他界」と往還するすべを持っていないから、支配者の「他界の怨霊」に対する恐怖も並々ならぬものがある。また「他界」を知らないからこそ、「怨霊」を排除するすべも知らない。海に囲まれた日本列島においては、「排除」するという信仰は成り立たない。もう「祀り上げる」しかない、と支配者は思った。
ただ、支配者とはつねに敵を見つけて排除するということばかりしている人種だから、「祝福する」ということがうまくできない。彼らに、民衆から「祝福されたい」という欲望はあっても、民衆を「祝福しようとする」衝動はない。民衆は、「被支配」のがわに排除すべき存在なのだ。
「祝福しようとする」衝動は、民衆の中にある。支配者が「怨霊を祀り上げる」ためには、民衆のそのエネルギーが必要だった。
支配するとは、民衆を祝福することではない。民衆から祝福されることなのだ。支配者は、社会的な危機を迎えると、本能的に民衆から祝福される手を打とうとする。民衆を助けてやろうとなんか思わない。
そのとき支配者は、具体的な疫病対策よりも、まず「御霊会」を思いついた。つまり、何はさておいても民衆の不安を宥め、みずからの支配を安定させることを工夫しようとしたのだ。
町に人がどんどん増えてくれば、人々の活動が活発になるが、そのぶんストレスも多くなって免疫力が低下する。それに、人が増えることに対する食糧生産や衛生設備も追いつかなくなってくる。
また、平安京は、その前の平城京と違って、たとえ自分の家の庭でも、京都の町なかに死体を埋めることが禁じられていた。それは、衛生面のことだけでなく、それほどに支配者における死者の「怨霊」に対する警戒心や怖れが強くなってきていたことを意味する。そしてその意識は、監視のシステムが効果的にはたらいている町であれば、とうぜん民衆にも伝染する。そうやって京都の市民はもう、「穢れ」という意識に強迫されて、死体に触ることができなくなっていった。死体の処理は、そのころ京都に集まってきていた浮浪者たち(賎民)に任されることになった。そうして、町なかや墓場に埋めることのできない庶民の死体は、桂川の河原に集めて、そこから大阪湾に流された。まあそんなこんなで、京都の周辺は、どこよりも疫病が蔓延しやすい地域になっていたのだった。
中世における京都の町の周縁ははもう、ほとんど混沌の状態で、河原者をはじめとする賎民は一挙に増えるし、治安や衛生状態は悪化する一方だった。なのに中央の支配者は、勝手な権力闘争に明け暮れてばかりいた。そのとき「御霊会」が催されたということは、そういうことを意味する。
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平安時代の支配階級が、いかにいい気な人種ばかりであったかは、「源氏物語」をはじめとして、いくらでも資料はあるはずです。まあ、「御霊信仰」が生まれてきたことじたいその証拠なのだが、彼らは、権力争いと色恋沙汰のことしか考えていなかった。それは、歴史的に民衆がまだまだナイーブで、支配することなんかかんたんだったからでしょう。そんなことに頭を使う必要がなかった。荘園制度とか、そうやって民衆をなめきったような政治ばかりしていた。
海に囲まれた島国の民衆は、ほかにもっといい政治制度を持った地域があることなど知る由もなく、すべてをそういうものだと受け入れていた。つまり日本列島では、なめきったような政治をしても、民衆の心が離れてゆく心配がなかった。
そのころ、道路や港や溜池などをつくったりする公共事業は、民衆じしんでやることで、支配者はやりたがらなかった。なぜなら道路や港ができて交通が盛んになることは、支配が面倒になることだからです。それらの事業のまとめ役は、勧進聖とかの遊行の宗教者が担っていた。それが、巨大古墳造営以来の、日本列島の伝統だった。
支配者がしようとしたのは、分不相応な大仏造営を手始めに、平安京の支配者にしても、悪霊対策に比叡山延暦寺を建てたり、都の入り口に東寺を置いたり、そんなようなことばかりです。そのころ民衆が死者の霊を祝福しようとする習俗=信仰を持っていたのに対し、支配者は、死者の霊から生まれてくる「悪霊」や「怨霊」の祟りを鎮めようとすることに異常なくらい執着していた。「御霊信仰」は、そういう両者の差異の合作として生まれてきたのだ。
古代から中世にかけての支配者たちは、民衆を支配することには熱心だったが、民衆が暮らしやすくなるための具体的な事業など、何もやろうとしなかった。だから、具体的な疫病対策などそっちのけで権力闘争を繰り返す自分たちの勝手な事情に合わせ、「御霊会」を思い立ったのだ。
もしかしたらそのとき権力者は、民衆が京都を棄てて出てゆくのを心配していたのかもしれない。大仏造営のときだって、律令制度が危うくなって民衆の離散が相次いでいたのを食い止め、あらためて中央集権のかたちを強化しようとするのが目的だった。そうやって、何か大きなイベントを催して民衆の心を中央に向かせようとするのが権力者の常套手段だったし、民衆もかんたんにそれにしてやられていた。
前近代の民衆を支配するのに必要なことは、現実的な利益を与えることではなく、祭り気分で浮かれさせてやることだった。
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民衆は、道路や橋をつくったりするのと同じように、疫病対策もたぶん、自分たちでやるものだと思っていた。そうして、ひたすら支配者のその身勝手なアイデアを「祝福」していった。彼らは、とりあえず一流の歌や踊りに触れて、日ごろの苦しさやわずらわしさを忘れたかった。
一流の歌や踊り(芸術や芸能)には、これを体験したからにはもう死んでもいいと思わせるカタルシスがある。セックスだって同じでしょう。死の淵にあえぐ民衆は、そういう「祝福=祝祭」の体験がしたかった。
一方「いい暮らし」を続ける支配者たちには、死なないでいい暮らしをもっと続けたい、という強迫観念があった。
そのとき権力者は、まず、疫病の流行が自分たちのところまで及ぶのを怖れていた。それを、自分たちがふだん恐れている「怨霊」に結び付けて発想し、食い止めようとした。
しかしそうした権力闘争の外で暮らしてきた民衆にすれば、べつにテレビや新聞がある時代ではなかったのだから、そんな権力闘争に敗れた「怨霊」のことなんか、いまいちぴんとこない。ましてや新しくやってきた人たちには、さっぱりわからないことです。
神泉苑の御霊会にやってきた民衆は、ただもう、自分たちの切羽詰った情況の憂さを晴らしていただけだったのだ。