「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・15

「今ここ」の世界(他者)に反応し祝福することは、みずからの身体の苦痛を嘆くという体験を契機にしている。そこから、身体=苦痛が消えてゆくことが、世界(他者)に反応し祝福することです。海に閉じ込められた日本列島の住民はそういう習性を持ってしまったし、そういう者たちが寄り集まって生きてゆくためには、そこから逸脱して「向こうがわ」を見ようとするリーダーはどうしても必要だった。そして、どうしても必要なところからは、かならずそうした者が現れてくる。
古代社会において、先を読む能力は、リーダーであるための絶対条件だった。
日本列島の住民は、その能力が欠落していたから、そういうリーダーが必要であったし、そういうリーダーに対してことのほか従順でもあった。
地平線の向こうとの往来がある大陸に対して、水平線の向こうを知ることのできない日本列島では、「今ここ」の向こうを知る能力が育たなかった。というか、知ろうとしない習性が体にしみついていた。
したがって、先を読む能力を持った者(リ−ダー)の優越性と孤立感というような側面はあったに違いない。「選ばれし者の恍惚と不安」ということでしょうか。その恍惚と不安が、なお強く「怨霊」のイメージを引き寄せることになる。
縄文時代以来の伝統として考えれば、古代の民衆というのは、先のことなんかなんにも考えないいいかげんな人種だった。支配者に頼りきっていた。そんな彼らが、支配者を必要以上に「怨霊」に悩まねばならない存在にしていた、ともいえる。
日本列島ほど支配者と被支配者、すなわちリーダーと民衆が対照的な心的傾向をもっている地域も、そうはない。民衆は支配に従順だし、権力者は、ことに強迫観念が強い。彼らは、それほどの民衆と心的傾向を異にし、孤独なのだ。しかしだからこそ、大陸のような圧倒的な独裁者も出てこなかった。暴君になる前に、「怨霊」に祟られて自滅してしまう。
初期の天皇は、「権力者」だったから、それだけ強迫観念も強く、古墳時代の終わりころには、すでにかなり強く「怨霊」を意識していたらしい。
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卑弥呼の死と相前後してあらわれた古墳時代は、いきなり巨大な前方後円墳の築造ブームとして始まった。
しかし、秦の始皇帝陵と違って、そんな大きな古墳を強制的に造らせることのできる支配者はまだいなかったはずです。文字による法制度を持っていないあの時代に、支配者がそれほどの強制力を持つことは不可能です。むりやりそんなことをさせていれば、無駄な出費が重なって、国力も支配の力も危うくなるだけでしょう。
仁徳陵は、ほとんど始皇帝陵に匹敵する規模だが、仁徳天皇始皇帝ほどの独裁者だったとはとても思えないし、歴史を変えるほどの大仕事をしたわけでもない。
であればそれは、民衆が積極的に参加していってできたのだろう、ということです。権力から、むりやり造らされたのではない。民衆は、それほどに共同体のリーダーや死者を祝福しようとしていた。
仁徳天皇は、わりとまめに日本中を行幸していた。それは、気の強い皇后がいて恐妻家だったということもあり、都にじっとしていられなかったのだろうか。戦後の昭和天皇の例でもわかるように、行幸すれば一気に人気は高まる。いつの時代も日本列島の民衆は、「祝福」したがる人種なのだ。とにかくそんなこともあって、仁徳天皇の墳墓造営には、日本中の民衆が駆けつけたのかもしれない。
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前方後円墳は、後ろの丸い部分だけが実質的な墳墓で、前の四角い部分は、死者の霊をとむらったり拝んだりする、民衆の祭儀の場だった。それは、死者の霊を祝福すると同時に、そのころしだいに顕在化し始めていた権力による「監視」からひとまず逃れることのできる娯楽の場でもあったのかもしれない。
前方後円墳の形の特徴は、半分がお祭り広場になっていることにある。はじめは実質的な墳墓である円丘のほうが大きかったが、時代とともに、逆にお祭り広場である四角い部分のほうが大きくなってきている。まるで、お祭り騒ぎをするためにそれを造ったかのように、です。
現在の支配者は、過去の支配者をできるだけすみやかに葬り去ろうとする本能を持っている。民衆の心が前の支配者に残っているのは、けっして愉快なことではない。現在の権力者には、前の権力者の墓を大きな目立つものにしようとする望みはないし、そこに広いお祭り広場を造ろうとする意志もさらにないはずです。
だから始皇帝は、自分が生きているあいだに自分の墓を造りはじめている。ピラミッドだって、同じでしょう。
ところが、日本列島における巨大古墳の双壁である仁徳陵と応神陵は、ともに死後の築造であるといわれています。仁徳天皇応神天皇じしんには、大きな古墳を造ってみずからの権力を誇示しようとする意志はとくになかった。また、あとの権力者が、そんな目障りなものをわざわざ造ろうとするはずもない。だったら、誰が造ろうとしたのか。
仁徳天皇の陵は奈良盆地の外の堺市にあるが、皇后のものは、奈良盆地の中にある。ほんらい皇后の墓などは、陪墳として天皇の墓のそばに小さくつくられるものです。しかしその皇后の墓は、まわりの天皇のものよりずっと大きい。仁徳天皇は難波の宮の王だったわけだが、皇后は、出身地である奈良盆地の民衆に人気があったらしい。
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濠のある前方後円墳が集中する奈良盆地大阪平野は、そのころほとんどが湿地帯だった。巨大古墳造営は、干拓事業でもあったのだ。
いらい、日本列島では、道路や橋を造ったりする公共事業は、民衆じしんでやるのが伝統になっていった。奈良時代行基平安時代空海など、それらの事業のリーダーはつねに遊行の宗教者が担っていたのであって、支配者ではなかった。つまり巨大古墳造営いらい、公共事業は宗教的な事業でもあるのが、ひとつの伝統だった。
日本列島には、縄文時代いらいの「漂泊」の伝統があった。いつの時代もつねに漂泊者がいて、村から村へと情報を伝えていった。そのために、漂泊者を仲立ちにして巨大古墳をつくろうとか道路や橋をつくろうとかという話が、民衆のレベルで合意されていったらしい。
支配者にすれば、交通が盛んになることは、それだけ共同体の秩序が乱れて支配に支障をきたすことであり、あまりやりたがらなかった。公共事業に支配者が積極的に関与してゆくのは、中世もなかばを過ぎた鎌倉時代になってからのことであり、それは、貨幣経済が定着しはじめて、そうした費用の一部を収奪できるようになってきたからです。
とにかく日本列島の歴史は、権力者が命令しなくても、村どうしが合意してゆく環境があった。おそらくそうやって前方後円墳が造られていったのだろうと思えます。
また、折口信夫によれば、古代の民俗芸能の舞台は墓のそばに設けられることが多かったのだとか。これなども、その歴史が、前方後円墳の祭壇から始まっているからではないだろうか。
奈良盆地周辺の前方後円墳は、大陸の王陵墓のように人里離れた広い場所ではなく、集落のそばにつくられている。つまりそれは、集落を守る施設でもあったのだ。当時湿地帯が広がっていた奈良盆地では、雨が多く降ると、すぐ集落が水に浸かった。おそらく、その水が古墳の濠に集まるようにしたのだろう。
奈良盆地はともかくとして、仁徳陵や応神陵のあるそのころの河内平野が大湿地帯であったことは、歴史家の誰もが認めていることです。その水がなぜ、うそのように引いていってしまったのか。砂漠の話ではないですよ、雨がたくさん降る日本列島の話なのだ。
人々は、巨大古墳をつくりたがっていた。奈良盆地およびその周辺の畿内地方では、百年間、いつもどこかで濠のある前方後円墳がつくられていた。もしかしたら、そのとき出来上がった前方後円墳に、そのとき死んだ支配者が入ったのかもしれない。支配者に入ってもらうことによって、その前方後円墳に、村を守護する霊力がそなわった。そして村人は、いつも前方の広い祭壇に参じて死者の霊を祝福し続けた。何しろ集落のそばにあったのだから、いつも人が集まってきていたはずです。
前方後円墳は、最初、雨でが墳丘が崩れないように石が敷き詰められてあったのだが、やがて四角い祭壇の部分は土だけになっていった。それは、人びとが歌ったり踊ったりする広場であるためには石は邪魔だったし、そうやって踏み固めてしまえば崩れる心配もなくなったからでしょう。
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そのころ、死者の霊を祝福するというムーブメントが盛り上がっていたにちがいない。柳田国男いうところの、ご先祖様をうやまう「祖霊信仰」のもととなった信仰です。「古事記」は、人間はかつて神であったという世界観の上に語られている。ご先祖様は、神なのだ。日本列島の住民が本格的に定住をはじめたのは、弥生時代以降のことです。人々は、本格的な定住生活によって、はじめて「ご先祖様」という概念を持った。そして天皇は、今なお神である存在として、人々から祝福されている。
縄文時代以来、日本列島では、「霊魂(=たま)の輝きを祝福する」という伝統があった。その象徴が太陽=アマテラスであり、天皇だった。天皇は、人間はかつて神であったという国の霊魂(たま)の体現者だった。そしてそう思っていたのは、天皇じしんではなく、民衆だった。古代の民衆にとって、天皇の霊魂とは、輝くものであって、祟るものではなかった。まずそういう信仰として、日本列島の歴史が始まっている。おそらく、その伝統の上に巨大古墳築造のブームが始まった。
最初期の巨大古墳である「箸墓」などは、天皇という支配者のものではない。皇后でもない。天皇の一族の巫女的な立場にあった女性のものだろうといわれています。天皇を差し置いて、そういう立場の女性の墓を巨大古墳にしたということは、被葬者など、祝福の対象である支配階級であれば誰でもよかった、ということかもしれない。あるいは、卑弥呼がそうであったように、このころはまだ実際の支配者よりも巫女の地位のほうが上だったのかもしれない。いやこれは、いまなお続く日本列島の伝統です。いつの時代も、実際の権力者の上に、あくまで「祝福」の対象である天皇がいた。
もしも古代の日本列島の住民に、「鬼=怨霊」というようなイメージがあったとしたら、それは、そのまま受け入れるしかない対象だったはずです。「祀り上げる」というようなかたちでこちらから干渉してゆこうとするような発想はなかったはずです。それは、支配者の発想です。古事記イザナギイザナミの神話のように、黄泉の国の入り口に大きな岩を置いて塞いでしまうのが精一杯のイメージだったにちがいない。だからこそ、そうやって鬼や怨霊すらも受け入れていたからこそ、せつに「祝福」の対象が必要だったのだ。
日本列島の霊魂観の歴史は、まずそうやって「祝福する」ことから始まり、「権力」の定着とともに「怨霊の祟り」という観念が生まれ、権力者らしくそれを祀り上げて「よい霊」に変えてしまおうというような「御霊信仰」になっていった。
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古墳時代後期になって巨大古墳造営が衰退していったのは、権力者がそれを嫌ったからでしょう。そうして終末期の大化の改新のあとに墓造りの簡素化をめざす「薄葬令」が出たのは、一説には、クーデターで殺した蘇我入鹿の墓を大きくさせないためだったとも言われている。日本列島の歴史において、権力者がとくに強く「怨霊」を意識し出したのは、おそらくこのころからでしょう。中大兄皇子大海人皇子との確執ををはじめ、骨肉の権力闘争が顕在化してきた時代だった。
日本列島では、権力の強大化とともに、支配者の墓は小さくなっていった。日本列島の支配者には、自分の墓を造ろうとする志向はなかった。日本列島には死後の世界をイメージする伝統がなかった。それは、大陸との大きな違いだろうと思えます。あとの権力者によって造られる墓が、大きなものになるはずがない。
「薄葬令」が出たころの支配者層では、権力闘争が盛んになってきて、死者の霊魂を怖れはじめていた。死んだ天皇に指名されていた後継者を別の者が倒して新しい天皇になったとしたら、それから十年二十年かけて死んだ天皇の巨大古墳を造ってゆくことなど、不愉快なだけでしょう。その新しい天皇にとっては、彼が即位した瞬間、死んだ天皇の霊魂が「怨霊」になっている。彼が望むことは、ひとまず日本列島の伝統として、イザナギのしたことそのままに、死んだ天皇の霊が「怨霊」となってよみがえらないように狭いところに封じ込めてしまうことです。だから「薄葬令」以後、墓の規模はますます小さくなっていったが、石室や石棺は、かえって豪華で厳重になった。そうやって、いちはやく死者の霊を葬り去ろうとした。
それに対して巨大古墳の石室や石棺は、あんがいいいかげんだった。その古墳ができてから100年後に埋葬された人もいるし、最初のころは石棺もなく、木の棺にあっさりと葬っていた。盗掘などやりたい放題で、だから、今となってはもう誰を埋葬したかということなどもよくわからない状態になっている。それは、民衆が死者の霊魂を祝福し祀り上げるためのモニュメントだったのであり、わざわざ大きな祭壇を設けた前方後円墳は、死者との交流の風通しがとてもいい墓だった。
民衆は、いつの時代も「祝福」するカタルシスを体験しようとしていた。大化の「薄葬令」が民衆のそうした習俗に干渉していったことだとしたら、日本列島の本格的な民衆支配はそこから始まっているのかもしれない。
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巨大古墳は、民衆による死者の霊魂を祝福してゆくためのものだったのであり、死者の霊を鎮めて排除しようとする権力者の意向が表現されているのではない。
日本列島では、縄文時代以来、霊魂(たま)を祝福しようとする習俗があった。それにたいして、巨大古墳の時代の終わりころから支配の圧力を強めていた権力者たちは、ひたすら死者の霊を葬り去ろうとしはじめていた。
そして巨大古墳を造れなくなった民衆は、その代償行為として、ご先祖の霊を祝福するという「祖霊信仰」を深くしていった。
奈良時代になると、すでに、前方後円墳の被葬者を特定できないような事態が現れてきている。ある巨大古墳の被葬者が、いつの間にか実在したかどうかもわからない「ヤマトタケル」に変わってしまった、などといういいかげんな例もある。ヤマトタケルは、権力から疎外された悲運のヒーローです。権力者が、ヤマトタケルの巨大古墳を造らせるはずがない。とすれば、巨大古墳は自分たちが造ったものだという意識がまだ民衆の中に残っていたにちがいなく、律令制度による支配が厳しくなってきていたそのころの民衆にとって、ヤマトタケルの霊を祝福することは、権力の「監視」から逃れようとする観念行為でもあったのかもしれない。
日本列島の民衆の歴史は「霊魂の祝福」として始まり、やがて共同体の成立とともにあらわれてきた権力者が、「怨霊」を発見した。そしていったんは厳重な埋葬で政敵を祀り棄てたつもりであった権力者たちも、やがてそれだけでは安心できなくなってくる。
平安京の、「怨霊」におびえる権力者と、霊魂を「祝福」せずにいられない民衆、この関係から「怨霊を祝福し祀り上げる」という「御霊信仰」が生まれてきた。「悪霊論」の著者である小松和彦氏がいうように、たんなる「民俗社会」だけの信仰として始まったのではないはずです。