「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・14

他者の差異性を祝福すること。日本人には「他者」がない、とよくいわれるが、縄文人はどの民族よりも男と女の非対称性を意識していた。日本列島にはそういう伝統がある。
1万年前からの8千年間、縄文人は男と女が別々に暮らしていた。男は山野をさすらい、女は山の斜面に集落をつくって男たちの来訪を待つ暮らしをしていた。まあ山間地と海辺では多少の色合いは違うとしても、基本的には、そういう男と女の関係だった。
男が女の家を訪ねてゆくというツマドイ婚はすでにこの時代から始まっているらしいのだが、彼らは、そのまま同居して「家族」になるのではなく、男はまた別の女を訪ねていった。縄文人の人口がその暮らしやすい環境のわりにあまり増えなかったのは、女の手だけで子供を育てていたからかもしれない。
一万年前に氷河期が明けたとき、海面の上昇とともに大陸から切り離された日本列島では、平地の草原が消え、残ったスペースもすべて湿地帯になってしまい、大型の草食獣がたちまち絶滅していった。そのために、狩猟生活だけではもう生きていけなくなった。
しかしその代わり、温暖になったために植物環境が豊かになり、食糧を野草や木の実の採集に依存する部分が大きくなった。そしてその仕事のほとんどは女たちが担当し、男たちはあくまで狩猟生活にこだわって山野をさすらいつづけた。
女たちはもう、氷河期のように、男のあとをついて移動生活を繰り返すということをしたがらなくなった。子を産み育てるという属性を持った女にとっては、定住こそが理想の暮らしだった。そのようにして列島中に女だけの集落が増えてゆき、男たちも、さすらいながらそうした集落を訪ね歩く生活が性に合っていた。
遊行の宗教者や旅芸人が漂泊しながら村々を訪ね歩くという前近代の日本列島の伝統は、おそらくここから始まっている。
昔も今も、訪ねてゆく者は、「祝福」する物と心を携えてゆくのがたしなみである。現代人なら菓子折を持ってゆくが、縄文の男たちは、狩の獲物や、よその土地で見聞きした珍しい話などを携えていった。
縄文人の生活を考えるなら、彼らは、現代人よりずっと他者の差異性を意識し、ずっと他者を祝福する心性を持っていたはずです。男にしても女にしても、一緒に暮らしていないのは、そりゃあ淋しいに決まっている。しかしその「嘆き」を、彼らは、訪れ祝福し、歓待して祝福することのカタルシスに変えて暮らしていたのであり、言い換えれば、一緒に暮らすことは、そうしたカタルシスを喪失することでもある。
カタルシスを喪失して、夫婦は、支配者と被支配者の関係になってゆく。あるいは、現代においては、夫と妻が支配者の地位を奪い合っている。いや、仲良くその地位を共有しているのでしょうか。いずれにせよそれらの関係は、縄文人の伝統とは無縁です。
だが、伝統が消えたわけでもない。
石川啄木の短歌。
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放たれし女のごとく
妻の振舞う日
庭のダリアを見る
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妻(夫)が「他者=異人」として存在していると思わせられる瞬間というのは、どんな夫婦にもあるはずで、そんなときこそじつは、胸のそこでひそかにときめいているのだ。
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日本列島には、訪れ祝福する伝統がある。それは「非対称性」の文化であり、たがいに他者を外部の「異人」として遇するという付き合いの作法を洗練させてきた。それが、たとえば深くお辞儀をするという挨拶であり、日本列島では、他者を「異人」として祝福してゆく文化が育ってきた。
定住する縄文の女たちにとって、山の向こうはまるでわからない世界です。そしてさすらう男たちにとっても、日本列島の外部である海の向こうは知るすべもなかった。日本列島の住民における「この世界=内部」と「あの世界=外部」との非対称性は、「存在」に対する「無」としてあった。つまり、外部の異人の訪れは、「予期せぬ出来事」として驚きとときめきを体験させてくれるものであった。
外部が「無」であると認識することは、「先を読む」ということをしない、ということです。
訪れる者にとっても、迎える者にとっても、それは、「予期せぬ出来事」だったのだ。漂泊する者の嘆きが非対称性としての定住する者を祝福し、定住する者の嘆きが漂泊する者たちを祝福した。彼らはともに、自然の摂理=神に支配される者たちだった。
われわれは、根源的に「被支配者」として存在している。その「嘆き」が、「祝福」しようとする衝動になる。それは、感傷でもなんでもない。人間が直立二足歩行をはじめたことによってもたらされた、もっとも原初的な衝動のひとつであろうと思えます。
それは、身体の苦痛として意識が発生するという、身体意識なのだ。人は、「嘆き」に浸されてあるとき、けんめいに他者=世界を祝福しようとする。祝福せずにいられなくなる。
入院して見舞い客の訪れに涙したり、病室から眺める木や草の緑がせつなく目にしみるというような体験に、善人も悪人も悧巧も馬鹿もないでしょう。
寿命が30数年しかなかった縄文人は、誰もが一期一会の出会いを噛みしめるようにして一日一日を生きていたのであり、そういう観念や生き方が生まれてくるような社会の構造になっていた。
また、中世の武士たちが戦(いくさ)において「やあやあ我こそは」と名乗り合って一対一の戦いをしていたのも、ただもう素朴に命のやり取りをしていただけで、「怨霊」などというイメージはなかったからだ。彼らは、死んでゆくものの霊を祝福することができたし、だからこそみずからが死んでゆくことも、あたりまえのように受け入れることができた。それが、日本列島の住人が、縄文いらい抱きつづけてきた死者の霊に対する感受性の伝統なのだ。
「怨霊」などという強迫観念に右往左往していたのは、権力者たちだけだった。
日本列島の歴史のあけぼの時代には存在していたであろうそうした胸の底から祝福し合うような関係は、われわれ現代人にはたぶんないでしょう。「異人論」の小松和彦氏も「異人論序説」の赤坂憲雄氏も、そういう現代人の視座に立って前近代の民衆の「異人」にたいする心性を分析しているにすぎない。だから「異人にたいする恐怖心と排除の思想」などと愚にもつかない結論を引っ張り出してくるのだ。