「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・13

世の中には、いろんな人間がいる。
しかし支配者は、そうは思っていない。支配者と被支配者の二種類の人間がいるだけだ、と思っている。彼にとって被支配者である民衆の群れは、ひとりひとりの違う人間としてではなく、ひとつのかたまりとして認識されている。民衆とは支配者を祝福する人種であり、それぞれに違いはない。祝福しない民衆は、共同体の外に排除するか、監獄に閉じ込めてしまうだけだ。支配者が孤独であるのは、民衆という「他者」をそのように見ているからでもある。
それにたいして当の民衆どうしは、おたがいをそれぞれ違う人間だと思っている。右へ行きたい者もいれば、左に行こうとする者もいる。それぞれが違うことを考えていて、民衆が集まっても共同体の秩序はつくれない。リーダーを祝福し、リーダーに従うから、はじめて「秩序」になる。それぞれが違う人間だと思っているから、リーダーを祝福し、リーダーに従う。
民衆は、共同体の秩序を受け入れるが、それををつくろうとする衝動も能力もない。
共同体の起源においては、群れが大きくなってすでにリーダーがいないとやっていけないような状態になってから結果としてリーダーが必要であることに気づくのであり、結果としてリーダーが現れてくるのだ。
人間は、群れを大きくしようとしたのではない。人間の直立二足歩行は、狭いスペースにたくさんの個体が集まることのできる姿勢です。そのようにして、群れが大きくなってもなんとか仲良くやってゆける生態を持っているために、気がついたら大きくなりすぎていたのでしょう。
猿のリーダーは群れの規模の限界をわきまえているが、人間の群れのリーダーは、限界を超えたところでそれをなんとかするために現れてくる。
つまり、人間は国家をつくろうとしたのではなく、大きな群れをつくってもなんとかやっていける生態を持っていたために、結果として国家が生まれてしまったのだ、ということです。人間ほど、ひとりひとりが勝手なことを考えている生き物もいない。できればひとり勝手なことをして生きていきたいという思いは、誰の中にもある。したがって大きな群れ=国家をつくろうとすることは人間の本性ではないが、国家をつくることのできる本性は持っている。
それは、他者を「祝福する」本性を持っている、ということです。人間ほど他者を祝福したがる生き物もいない。だから、大きすぎる群れを維持することの困難や鬱陶しさも、なんとかかんとかやりくりしていってしまう。
直立二足歩行は、他者を祝福する姿勢なのだ。祝福するから、狭いスペースにひしめきあっていても、なんとかやっていくことができる。祝福する本性の上に立って、どんなに限界を超えた規模になってもリーダーが現れてくる。
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他者や他の世界を「排除」しようとする支配者の衝動は、原始的な群れが共同体へと成長してゆく過程で肥大化してきた。
そして、非支配者である民衆は、支配者を「祝福」しようとする本能を持っている。
支配と被支配の関係は、民衆のそうした本能があってはじめて成立する。支配者が一方的に支配することなんかできない。民衆のそうした本能が、「支配者」という人種を生み出すのだ。
祝福されたくて、彼は支配者になろうとした・・・・・・いつの時代も、リーダーになろうとする者にはおおむねそのような傾向がある。
民衆に祝福しようとする本能がなければ、リーダーは生まれてこない。
被支配者であることの本質は、それぞれが勝手なことを考えて群れの秩序をつくる能力がないことであり、その違うことをたがいに「祝福」しあうことにある。民衆に秩序をつくる能力がないから、その能力を持ったリーダーという「異人」が祝福されるのだ。
まず、被支配者の「祝福」する心性がある。
群れが大きくならなければ、支配者など生まれてこない。生き物の本性は、被支配者たることにある。われわれの生は、自然の摂理=神に支配されてある。誰も死から逃れることはできない。原始人は、誰もが自然に対する被支配者として生きていた。歴史は、そこから始まっている。
被支配者であること、祝福すること、それが、生き物としてのわれわれの本性であろうと思えます。