「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・12

知らない者どうしが出会って祝福しあう一瞬のときめき、それは、「愛」というよりもひとつの「奇跡」であり、人は、この社会のシステムから「監視される」しんどさが身にしみてどこかに逃げ出したいと思うとき、慣れ親しんだ者どうしの予定調和の安らぎよりも、そんな「異人」体験のほうが貴重に感じられたりする。
こんなにもたくさんの人が寄り集まって社会を形成していれば、誰も社会のシステムから「監視されている」状態から逃れることはできない。われわれは、監視されて生きてある。だからこそ、幸せになりたいと思い、娯楽や愛などというなにやらよくわからない気休めを必要とする生き方にもなるのだ。
前近代のおける遊行の宗教者や旅芸人などの「異人」とは、自分を監視していない存在であると同時に、自分が監視することのできない存在でもある。この社会(共同体)のシステムから監視されて生きている者たちが、そういう存在である「異人=他者」と出会えば、誰だっていくぶんかの「ときめき」は体験するでしょう。ことに、支配者の監視に強く縛られて生きていた前近代の民俗社会の人々にとってのそういう「異人=他者」との「出会いのときめき」は、われわれ現代人よりも、もっとひとしおの感慨があったはずです。
そりゃあ、多くの現代人のように、他者を監視しようとする権力欲や監視してもらっていることの安全をアイデンティティとして生きている者たちにとっては、そういう「異人=他者」など、「異人論」の著者である小松和彦氏の言うように「恐怖心と排除の思想」の対象である目障りなだけの存在でしかないのかもしれない。言い換えれば「異人に対する恐怖心や排除の思想」という強迫観念は、現代的な、あるいは支配者的なそういう存在のありようから生まれてくるのであって、監視されてあることにあえいで生きていた前近代の民俗社会の心性として疼いていたものではない、ということです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太平洋の真っ只中を泳ぐ一匹のオスのウミガメが、あるとき奇跡のような偶然でメスのウミガメと出会う。究極の「異人」体験とは、このようなことだろうと思います。そのとき彼らは、たがいの出会った相手に対して、小松氏が言うような「異人に対する恐怖心と排除の思想」を抱くでしょうか。民俗社会の村びとが、村にやってきた遊行の琵琶法師を迎えるときだって、このような出会いのときめきのいくぶんかは体験しているはずです。村びとはともかく、遊行の琵琶法師なんか、太平洋のウミガメそのものじゃないですか。
「異人に対する恐怖心と排除の思想」だなんて、まったく、何をばかなこと言っていやがる。そういう愚劣な発想は、みずからが近代社会市民であることになんの疑いも反省も抱いていない鈍感なナルシズムから生まれてくるのだ。
小松氏にしろ、「異人論序説」の赤坂憲雄氏にしろ、既成の文献とあれこれ戯れているだけで、人が抱く「漂泊の衝動」についての想像力も思考力もいいかげんすぎるのだ。漂泊の衝動は、村びとにだってある。太平洋のウミガメのような気分で生きている部分は、誰の中にもある。どんな時代でもどんな国においても、ときに太平洋のウミガメのような出会いを体験してしまうということは、生きることの貴重な体験のひとつでしょう。幸せな現代人やどこかの研究者のように横着でのうてんきな人種ならともかく、多少なりともしんどい思いをして生きていれば、誰だってそういう気分の出会いは体験するでしょう。
「民俗社会における異人にたいする歓待と排除の衝動の両義性」などと彼らはいうが、人はそうかんたんに二重人格の精神病者になれるものでもない。ひとつの共同体には、歓待する者と排除しようとする者がいる、ということであり、それは誰か、という問題でしょう。支配者と民衆の観念の差異は、おそらくそういうところにもある。
支配者は、自分の存在を浮かび上がらせる「敵」を必要としているし、民衆は、みずからの存在が消えてゆくカタルシスのために、「祝福」する他者を必要として生きている。
・・・・・・・・・・・・・・・・
子育てとか教育とは、大人が子供を監視していじくりまわしてゆく行為であり、そのような現代の管理社会における内部的な関係の築き方のバリエーションとして、「いじめ」が起きている。
そしていじめられる者は、「消えよう」として自殺してしまう。
監視されてある者は、消えようとする。消えることができなければ、監視されながら生きてあることの「穢れ」をぬぐうことはできない。民俗社会における遊行の宗教者との出会いの習俗、すなわちその「まれびと信仰」の伝統は、監視されながら生きる者にそうした「消えてゆく」体験をもたらすものとして機能していた。
支配者は、目の前の敵を「排除」する。それに対して被支配者である民衆は、みずからが「消える」という態度をとる。他者に対する態度は、「排除する」か、みずからが「消える」かのどちらかしかない。排除してみずからの存在を確認するか、みずからは消えて他者の存在ばかりを祝福し確認するか、そのどちらかだ。
監視されてある者はもう、逃げ出すことができない。ことに海に囲まれた日本列島の住民には逃げてゆくところがなかったから、もう「消える」という態度でしかその苦痛を和らげるすべはなかった。そして「消える」という態度には、他者を祝福するというカタルシスがともなう。他者を祝福するとき、みずからの存在は消えている。日本列島の他者に対する態度の伝統は、みずからが「消える」ということにある。
みずからの存在を確認することではない。というか、「消える」ことが、みずからの存在を確認することなのだ。
深くお辞儀をする。畳に額をこすりつけるようにしてお辞儀をする。それは、消えようとしながら他者を祝福している態度です。「怨霊を祝福し祀り上げる」という「御霊信仰」は、日本列島の住民の「消える」という習俗の上に成り立っている。
「怨霊」は、生きている者を監視し続けている。人々の「怨霊」に対する怖れは、そのとき起こった災厄だけにあるのではない。災厄に対する怖れと「怨霊」に対する怖れは別のものであり、それはそれ、これはこれなのだ。災厄は、「怨霊」に対する怖れをあらためて感じさせられる契機にすぎない。そのとき人びとは、災厄によって監視され続けていたことに気づく。だから、災厄が通り過ぎたあとも、祀り続けようとする。永久に祀り続けようとする。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
人は、「監視」されて存在している。人間は、「他者の視線」の中に投げ入れられて存在している。「御霊信仰」の根源は、そこにある。そしてそうした人間存在のありようは、現代社会においてなおあからさまになってきているはずだが、現代人はその問題を、みずからが監視し続ける存在(=怨霊)になることによって解決しようとしている。
現代社会は、昔よりももっと「監視する」というシステムに覆われている。われわれは、みずからが「監視する者」になることによってその問題のすべてを解決することができるのか。他者や世界を祝福してみずからが「消える」というトレーニングは、もう必要ではないのか。そんなことはない。誰もが、どこかしらで、知らず知らずそんな態度をとって「監視されている」という問題に対処して暮らしている。なぜなら、それこそが快楽というカタルシスの本質であるからだ。
小さい親切を受けて、微笑みを返す。小さい親切をすることは、他者を「監視する」行為であるのか。微笑みを返すのは、他者を「祝福する」行為です。小さい親切をすることは正義であり、それによって自分を確認できる。しかし、そんなことは快楽=カタルシスでもなんでもない。カタルシスは、それを受けて微笑みを返すがわの、他者を祝福する行為にある。そして親切をするがわのカタルシスも、微笑みを返してくる他者を認識することにある。人は、他者の喜ぶ顔が見たくて親切をするのであって、自分を確認するためではない。自分を忘れてしまうくらいうっとりと他者の顔を眺めることができれば、これ以上の快楽もない。快楽というカタルシスは、他者に反応する(=祝福する)ことの消失感覚にある。
「監視」することは、自分が「怨霊」になることだ。だから、自分を監視する「怨霊」の存在にも敏感になる。そして、消えない「怨霊」になっても、「死ぬ=消えてゆく」ことのトレーニングにならないし、生きてあることの快楽=カタルシスとも無縁になってしまう。
それでも、「監視する者」にならなければ、現代社会ではうまく生きてゆけない。