閑話休題・ネアンデルタールが歯を磨いていたわけ

最近、そういうニュースが話題になっているらしい。
そしてこのことを、ほとんどの研究者は、彼らがきれい好きだったとか、歯の健康に気を使っていたとか、そんなことばかりいっている。
まったく、ばかじゃないかと思う。
虫歯は、歯に付いた歯垢が歯肉をむしばんで歯の根元と歯肉との接触が悪くなることからきているとか、そんな医学的な知識が彼らにあったでしょうか。おそらくなかった。
すくなくともそんなことが、歯を磨くことの第一義的な理由であったとは思えない。
彼らが歯を磨いていたのは、歯に食べ滓がくっついていたり、黄色くなってきたりすることや口臭などがとても気になったからでしょう。
それはつまり、そんなことが気になるくらいの近い距離で、歯を見せ合いながら相手と向き合う場面をたくさん持って暮らしていた、ということです。そうやって相手と真正面で向き合う場面とは、どんな場面でしょうか。
動物なら、歯をむき出して敵を威嚇するときだろうが、そんな場面がしょっちゅうあるわけでもない。それはむしろ、めったにあることのない異常事態でしょう。
知能が発達し槍などの道具も持っていたネアンデルタールは、そんな動物的な行動レベルで暮らしていたわけではない。だいいちそういう場面から、相手の歯についた食べ滓やら歯の色や口臭などが気になるはずがない。
ネアンデルタールは、猿のレベルを超えた100人から150人の群れをつくっていた。おそらくそれはけっして簡単なことではなく、喧嘩ばかりしているわけにはいかなかった。彼らは、人類の歴史で、みんなで仲良く暮らしていくことを最初に実験していた人たちだったのだ。
彼らは、歯を磨く習慣が生まれてくるくらい、人と歯を見せ合いながら向き合う場面をたくさん持って暮らしていた。すなわちそれは、言葉による会話を頻繁にしていた、ということです。
茶店で向き合って話していたら、相手の歯が気になってくるでしょう。もっと近づいて愛をささやき合えば、なお気になる。歯の色だけでなく、口臭のことだって気になる。さっき食ったばかりのラーメンの匂いをさせながら口説かれても、興ざめでしょう。キスするのなら、なおさら気になる。
おそらくネアンデルタールはキスすることが好きだったのであり、だから歯を磨いたわけで、そういうことが習慣になるくらい言葉による会話をしていた。つまり、会話の延長としてキスをするという行為が生まれてきたのであり、キスをしたがるくらい会話をしていたのだ。
キスをする文化は、もともとヨーロッパだけで発達してきた、といってもよいでしょう。それは、なぜか。ヨーロッパの言葉は、「伝える」という機能がことにつよく、寒い地域で寄り集まって暮らしていたネアンデルタールは、アジアやアフリカよりもたくさん人が集まる社会を持っていたのであり、そういう状況から生まれてきた言葉だからだ。また、寒くて抱き合わずにいられない環境だったからだ。いずれにせよ、キスは、究極の伝達する行為であり、その習慣は、そういう言葉の発達から生まれてくる。
そしてネアンデルタールはきっと、正常位で抱き合ってセックスしていていたのでしょう。猿のように後背位一辺倒じゃなかった。
それくらい、目の前にいる相手の歯のことが気になり、自分の歯のことが気になる暮らしをしていた。彼らは、言葉が発達しキスの習慣が生まれてきてしかるべき「他者との関係」を持っていた、それが「歯を磨いていた」ということの意味するところであろうと思います。
現代のヨーロッパ人が歯のことをとても気にし、キスが好きな人種であるのは、彼らがネアンデルタールの末裔だからでしょう。(このことの根拠は、半年以上前のブログでさんざん書きました。まだ書き足りないけど、いつかまた書きます)
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言葉は、研究者のいうような、「知能の発達」やら「象徴的思考」などということから生まれてくるのではない。たくさん人が集まって社会を形成した結果として生まれてくるのだ。
五万年前の地球において、10人か20人の家族的小集団で移動生活をしていたアフリカのホモ・サピエンスと、極寒の北ヨーロッパで100人から150人の群れをつくりながら寄り集まるようにして暮らしていたネアンデルタールと、どっちが言葉が発達する状況を色濃くそなえていたかは、考えるまでもないことです。
研究者はよく、言葉は意味の表現および伝達の手段である、などというが、たとえばりんごが赤い果実であることなど、みんな知っているのです。意味の表現や伝達をするまでもなく、みんな知っているという情況から「りんご」という言葉が生まれてくるのだ。
その赤い果実を、「りんご」と呼ばずにいられない気分をみんなが共有したとき、「りんご」という言葉が生まれる。その赤い果実にたいする気分が同じになってゆくくらい寄り集まって仲良く暮らしている情況から、「りんご」という言葉が生まれてくる。
そういう「気分」を表現したくて、そういう「気分」が盛り上がって、言葉となって発せられるのだ。
群れで共有されている「心の動き」が、言葉になるのだ。
あほな研究者がほざいているような、「知能」だとか「象徴的思考」だとかいうようなしゃらくさいものが契機になっているわけではない。
小林秀雄は、次のように言っています。
「不安な移ろいやすいものは、冒険や発明や失敗や過誤を好む言語表現に、一番適するのではあるまいか」と。
これこそ、言葉の発生の契機を、みごとに言い当てているように思えます。
そうなのだ。言葉は、そういう情況における「心の動き」から生まれてきたのだ。
ネアンデルタールは、とても人間が住めるとも思えないような氷河期の北ヨーロッパに進出していった人たちです。それは、まさしく「冒険」でしょう。そして、アフリカのホモ・サピエンスが手近な小動物や屍肉で食糧をまかなっていたのに対して、ネアンデルタールは、死をもいとわずにマンモスだの大型草食獣ばかり狙って狩りをしていた。また、歯ブラシや楽器や埋葬することなど、さまざまなものを「発明」していった。そうしてネアンデルタールが、狩でいつも怪我をしていたことや、そもそも極寒の北ヨーロッパに住み着いていたことじたいが、「失敗や過誤」そのものでしょう。10人20人の予定調和的な家族的小集団と、家族という単位を持たないネアンデルタールの100人から150人のあかの他人どうしの社会と、いったいどちらから「失敗や過誤」が生まれやすいでしょう。
そういう暮らしぶりの「心の動き」から言葉が生まれてくるのであり、言葉の本質ということを考えるなら、そういうことになります。
「喉の構造」がどうだとか、まったく何を程度の低いことを言っているのでしょう。言葉をしゃべるくらい、オウムだってできるのです。言葉が生まれてくるような「心の動き」さえ体験すれば、言葉は生まれてくるのです。そして、そういう体験がなければ、どんなに「知能」が発達しても、「象徴的思考」ができても、「喉の構造」が完備されても、言葉は生まれてこないのです。
そして大型草食獣の狩をはじめ大きな集団のチームワークで暮らしていたネアンデルタールは、その言葉に「伝達する」という機能を加えてゆき、やがてキスをする習慣も生まれてきた。だから、歯を磨いていたのだ。
とにかく、あほな研究者の言うことを当てにしていたら、われわれは何も歴史の真実と出会うことができない。そういうことをあらためて思い知らされるニュースでした。
彼らが10年20年後ものうてんきに「置換説」を唱えていられるか、賭けましょうか。