「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・11

海に囲まれた島国である日本列島の住民は、「監視」されることの息苦しさと痛さが骨身にしみているからこそ、「祝福」せずにいられない衝動もつねに疼いていた。狭い島国であれば「監視」されることは避けがたいし、「祝福」し合わなければ生きていけない。
民俗学でいうところの古代の「山人」とは、共同体から監視されて生きることを嫌って山に逃げ込んでいった人びとのことでしょう。そしてそういう人の動きは、そのあともずっと続いていった。おそらく、共同体が生まれた弥生時代から近世まで、いつの時代にもそういう人はいたのだろうと思えます。
日本列島には、縄文時代以来、山野をさすらって生きる伝統があった。
大和朝廷に従うことを嫌って山に逃げてゆくなどした人々のことを、「まつろわぬもの」、というのだとか。彼らは、追い払われたのではない。自分から逃げていったのだ。追い払われたのなら、「まつろわぬ」とはいわない。
「異人論」の小松和彦氏も「異人論序説」の赤坂憲雄氏も、山人を、ひとまず共同体から追い払われた者たちとして論じようとしている。だから、「共同体から排除された穢れた存在である」という。そんなことあるものか。むしろ、「監視されることの穢れ」から逃れていった人々なのだ。
あるいは、柳田国男が言うように、山から下りてこなかった縄文人=先住民の末裔たちであり、いずれにせよ、共同体から「監視される」ことを嫌がっている人たちだったのだ。
被支配者である民俗社会の人びとなら、誰だって「監視されることの穢れ」を自覚している。赤坂氏は「定住することの穢れ」などというが、そのことじたいは穢れを自覚する要素ではない。定住したっていいのです。定住することは、穢れではない。ただ、定住すれば人が多く集まって共同体ができ、支配者に支配され監視されなければならなくなる。それが、穢れの自覚になる。定住することが穢れなら、誰も定住することなどしたがらないし、原始人も定住することをはじめなかった。
定住することではなく、共同体の秩序が「穢れ」なのだ。日本列島にはそのように感じてしまう伝統があり、だから、「まつろわぬもの」たちが生まれてきた。その証拠に、まつろわぬ山人たちが共同体を組織して対抗勢力になっっていった、などという話は聞いたことがない。彼らは、自分たちが監視し合うという「共同体」はつくらなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
「怨霊」に祟られるとは、「監視される」ということだ。現代社会の管理システムは、まさに「怨霊」そのものとしてわれわれの前に立ちはだかっている。共同体や支配者(リーダー)から「監視される」ことは、ほんとに鬱陶しい。そうやって追いつめられている人は、現代社会でも、けっして少なくない。「ニート」や「引きこもり」とは、現代の「まつろわぬもの」たちであるのかもしれない。
古代の山人は、安穏ないい暮らしよりも、監視されない自由を選んだ。そして被支配者である民衆も、監視されてあることの息苦しさを緩和しようとする文化を育んでいった。それが、日本列島の歴史であろうと思えます。
広い大地の大陸では、どこにでも逃げてゆくことができる。したがって監視しようとする文化が発展する。それに対して海に囲まれた島国である日本列島では、先験的に監視し合っている状態に置かれており、それをどう克服して暮らしてゆくかという文化が育ってきた。遊行の宗教者などの漂泊する者たちは、まつろわぬ山人と支配に組み入れられていった村びととの中間的な立場であり、日本列島の民衆の、監視されてあることの鬱陶しさをやりくりしてゆこうとする文化は、山人から村人までのグラデーションとして形成されている。
日本列島では、すでに監視し合っているがゆえに、監視しようとする文化は育たない。そして、狭い島国であれば、監視から逃れるという文化も持つことができない。たとえ山人であっても、村びとからの緩やかな監視は受けていたのであり、山人じしんもときに村に下りてきて交易をしたりしていた。
監視をどう緩和するか、そういう願いから生まれてきたのが、「祝福する」という態度であり、深々とお辞儀するという作法なのだ。ここでは、追い払うことも逃げることもできない。この鬱陶しさから逃れるためにはもう、みずからが「消える」しかない。そして、身体の苦痛が消えてゆく体験とともに、みずからの存在もが消えてゆくカタルシスはたしかにあるわけで、身体のそういう体験の上に成り立っているのが、「やまとことば」であり、深々とお辞儀をして「祝福」してゆこうとする文化だった。
・・・・・・・・・・・・・・
そりゃあ、山人やニートや引きこもりになることが、もっとも手っ取り早い消え方です。しかし、それだけでもない。他者の身体を抱きしめれば、みずからの身体の自覚は消えて、相手の身体ばかりを感じている。これだって、「消えている」状態です。
他者を祝福しているとき、みずからの存在は消えている。
他界の住人である「怨霊」を消してしまうことはできない。もう祝福して「御霊」としてうやまうしかない。戦って退散させるのではなく、祝福して祀り上げる。そうやって、自分のほうが消える。これは、いかにも日本的です。大陸なら、相手が逃げてゆくかこちらが逃げてゆくかするための地平線の向こうをイメージできるが、日本列島の住民にとっての海の向こうは、そんな場所であるのかどうかわからない。もう、良好な関係を結ぶしか道はなかった。
たとえいけ好かない支配者でも、みずからの存在を否定して相手を全面的に祝福してしまう。そうやって良好な関係を結ぶことができるのなら、ひとまずそれで監視されてあることのつらさからは逃れることができる。なんだかキリストの言ったことみたいだが、それこそがみずからの存在=身体が消えてゆく体験だったのだ。そのとき、監視されているというみずからの存在に対する意識が消え、支配者という異人=他者に対する意識に浸されている。そしてそういうことができたのは、遊行の宗教者=異人との出会いを「祝福する」というかたちで体験していたからでしょう。
べつに監視されたってかまわない。しかしその代償作用として、身体が消えてゆく体験、すなわち他者を祝福する体験は必要です。民俗社会の人びとが支配者の執拗な監視に耐えることができたのは、そういうカタルシスを一方で体験し、そんな支配者すらもひとまず祝福してゆくことができたからだ。
支配者は、民俗社会の「怨霊」だった。そして彼らは、そんな「怨霊」すらも、「御霊」として「祝福」していった。
・・・・・・・・・・・・・・
御霊信仰」がいつどこから生まれてきたのかというのは、ややこしい問題です。おもいきり拡大解釈すれば、原始時代以来の人間存在そのものの問題であろうし、具体的なかたちとして考えるなら、支配と被支配の関係、すなわち社会的な「監視する」というシステムがよりあからさまになってきた都市からまず始まっているのだろうと思えます。それは、自然の神に対してではなく、死者の霊魂をどうイメージしたか、という問題であるはずです。死者に監視されている、という強迫観念は、まず都市の支配者の中で芽生えたのであり、そこが始まりだったのだ。
支配者は、監視されていることの鬱陶しさ怖さを緩和してゆく観念のはたらきを持っていない。だから、いったんその自覚を抱いてしまうと、それがたちまち強迫観念になってゆく。
支配者は、民衆に監視されているのではなく、「祝福」されているのであり、同時に日本列島の民衆は、「監視しない=見つめない」という習俗(文化)も持っている。したがって日本列島の支配者は、ことのほか「監視」されることにたいするこらえ性がない。そのこらえ性のなさから、「怨霊」のイメージが最初に生まれてきた。
そのこらえ性のなさが、並外れた暴君が生まれてこない土壌になっていたのであろうし、また民衆の「監視しない=見つめない」という習俗(文化)のために、国家の歴史を象徴するような英雄も登場してこなかった。よくもわるくも日本列島の歴史は、そういう具合になっているらしい。
民衆は、名君であろうと暴君であろうと、ひとまず祝福する。その代わり、どんな英雄であろうと、「祝福する」ことはしても、「見つめる」ことはしない。日本列島における天皇は、もっとも祝福される対象であると同時に、もっとも見つめられることない空虚な存在でもあったのだ。いや、いまだにそのような存在でありつづけている。
「消える」ということのカタルシス、それが日本文化の伝統をつくってきた。