「御霊信仰」の水源 ―怨霊と祟り―・1

「悪霊論」の著者である小松和彦氏は、「怨霊」を鎮めようとする「御霊信仰」は、中世の支配層のいる都市(京都)から生まれてきたのではなく、それ以前に「民俗社会」にあったものだと言っています。つまり、そういう「迷信」は、まず「異人に対する恐怖心と排除の思想」を持った愚かで臆病な民衆のあいだから生まれてくるのだ、というわけです。
こういう人間観で現在の民俗学をリードされるのは、ちょっとたまらないことです。
そんなことあるものか、迷信などという強迫観念は、まず権力者のところで生まれるのだ、というのがわれわれの立場です。
というわけで、「怨霊」という観念が発生した水源はどこにあるのかということを考えるために、ひとまず、支配者と民衆とどっちが迷信深いか、ということから検討していってみたいと思います。
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「異人論」の小松氏や「異人論序説」の赤坂憲雄氏のように、民俗社会の人々は「異人」を穢れた存在であると思っていた、などとかんたんにいってもらっては困ります。
そういう穢れた「異人」をめぐる支配者と民衆の関係について、文化人類学山口昌男氏は、こう語っています。
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なぜならば、鎮魂こそ政治権力の源泉にほかならず、そのための演劇的装置が、裁判、処刑、戦争なのである。民衆を納得させるためになんらかの意味での「はたもの」を作り出さなければならない。政治的価値が「中心」と「周縁」、「秩序」と「反秩序」という両義性の強調の上におかれている限り、これは避けることのできないほとんど神話的といってよい状況である。 (『歴史・祝祭・神話』)
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たしかに、政治なんてオカルトです。ヴァレリーだってそう言っているらしい。
しかしここでは、覚めた政治家が無知蒙昧で迷信深い民衆を操作する技術として、そういう「鎮魂」の行為を演出しているのだ、といっています。つまり、政治家は、民衆よりも一段知的で覚めた人種なのだということを、当然の前提のように語っている。このへんが、研究者のいやらしいところです。彼らは、自分達が庶民よりも知的で覚めた人種であると、当然のことのように思っている。その自覚を、そのまま政治の世界に敷衍して語っているわけです。
民衆とは、ナチスユダヤ人大虐殺という狂気だって肯定してしまう存在です。それは、それほどに民衆が迷信深かったからではなく、支配者のそれほど迷信深い行為すらも肯定してしまう存在である、ということです。そのとき民衆は、支配者が与えてくれる「ドイツ民族の栄光」という祝福と引き換えに、その狂気を「納得」させられた。まあ、結婚詐欺に遭ったようなものです。「はたもの=生贄」を作り出さずにいられない支配者の狂気を民衆に納得させる装置として、「裁判・処刑・戦争」がある。それが迷信深いことであればあるほど、民衆に納得させることが権力の存在証明になり、支配と被支配という「両義性の強調」になる。
民衆は、ユダヤ人の大虐殺という「はたものを作り出す」ことを望んだのではない。「ドイツ民族の栄光」というかたちで祝福されることをよろこんだだけだ。それほどに民衆の祝福されたいという願いは切実だった、ということです。
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研究者が、よくお勉強をして論文を書く能力に長けていることは大いに認めるとしても、われわれよりずっと無知蒙昧で迷信深いことをいっている人はたくさんいる。「知識」を疑うことなく信仰してしまっている人は多い。それは、「考える」能力が欠落している、ということだ。知識とは、思考停止の装置です。
同様に、そうした強迫観念というオカルト的な思考は、民衆よりも、政治家のがわに色濃くある。自分たちのその強迫観念を、支配の圧力とともに民衆のレベルに下ろしてゆく装置として、「裁判、処刑、戦争」が行われるのだ。
元禄の赤穂浪士を処刑したのは権力者の強迫観念であって、民衆が望んだわけではない。
太平洋戦争をやりたがったのは、民衆なのですか。やらないと民衆が「納得」しないからやっただけなのですか。そのとき民衆は、世界情勢のことなんか、何も知らなかったはずですよ。政治家や知識人から聞きかじった一部の知ったかぶりが吹聴してまわって、しだいに民衆もその気になっていっただけでしょう。大戦前夜のフラストレーションは、民衆ではなく、権力者たちにあった。それを民衆のレベルに下ろしていって、戦争がはじまったのだ。民衆が迷信深いのではない、権力者の迷信(強迫観念)が民衆のレベルに下りてゆくのだ。
「異人論」の小松和彦氏のいう「異人にたいする恐怖心と排除の思想」という強迫観念にしても、権力者が色濃く持っていたものです。それが、後世になって民俗社会にまで下りていって、村八分という内部の異物を排除しようとする自家中毒を起こすようになっていった。民族社会の人々にとって、すくなくとも遊行の宗教者という外部の「異人」は、あくまで歓待する対象だった。なのに彼らは、その「異人にたいする恐怖心と排除の思想」という心性を、民俗社会の人びとの専売特許のようにいう。そう言って、自分たち知識人は無傷であるかのような顔をしている。
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「異人論序説」の赤坂憲雄氏も、同じ論理で、次のようなエピソードを紹介しています。
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ユダヤ人は抹殺されるべきかと問われたヒットラーは、答える、「そうではない。そうなったらわれわれはユダヤ人を作り出さねばならないことになる。人は、抽象的な敵だけではなく、はっきりと目に見える敵を必要とするのである」と。
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ヒットラーは、誰よりもユダヤ人が「けもの」ではないことを認識していた、と赤坂氏は言う。ヒットラーは「覚めて」いて、民衆は、ユダヤ人が「けもの」だと思わせられるくらい無知で迷信深かったから「目に見える敵が必要」であった。それをヒットラーが提供してやった、というわけです。
しかし、ユダヤ人がけものではないと思っていたからこそ、誰よりもその能力に脅威を感じていたのは、ヒットラーじしんでしょう。ユダヤ人は敵であるという認識を強迫観念としていちばん強く持っていたのは、ヒットラーだった。彼の生来的な強迫観念は、もともと誰よりも「敵」の存在に敏感だったから、つねに先制攻撃をかけて政敵を駆逐しながら頂点まで登りつめていった。
「人には目に見える敵が必要である」と誰よりも強く思っていたのは彼じしんであり、敵をやっつけることの醍醐味も、敵にやっつけられるかもしれないという不安も、誰よりも劇的に体験してきたのが彼だった。敵の存在こそ、彼の存在理由だった。
彼は、言葉に憑依する能力に長けていた。すくなくとも「ユダヤ人はけものである」と演説するときだけは、誰よりも深くそう思い込んでいる気配を表現してみせた。そうやって支配の圧力とともに民衆を煽動・洗脳していった。そうして民衆は、ヒットラーがそこまで思うならわれわれもそう思うことにしよう、と煽動・洗脳されていった。
「人には目に見える敵が必要である」などという思想は、ただの迷妄じゃないですか。知的で覚めている人間のいうせりふではない。そんな思想は、敵を見つけて排除しようとせずにいられない権力闘争ばかりしている人間の強迫観念から生まれてくるのだ。そしてその思想を民衆のレベルに下ろしてゆく煽動・洗脳の技術が、ヒットラーは圧倒的にうまかった。
いちばん敵を必要としていたのは、民衆ではなく、ひといちばい強迫観念が強かったヒットラーじしんだったのだ。
民衆に必要なものは、いつの時代も、他者を祝福し、他者から祝福されるカタルシスであろうと思えます。そのときドイツの民衆は、第一次大戦の敗北による疲弊と周辺諸国の非難の目にされされ、ことのほか祝福されることを願っていた。で、そんな民衆にたいしてヒットラーは、敵を与えると同時に、「ドイツ民族の尊厳と栄光」というかたちで祝福してやり、民衆もまた、祝福してくれたヒットラーという他者=異人を祝福していった。そこに、ナチス政権下のドイツの不幸があった。
彼は、民衆のことがよくわかっていたのではない。民衆を自分と同じ歩調にさせる煽動、洗脳の能力に長けていただけだ。彼は、こういうべきだった。「人は、目に見える敵よりも、祝福されることを必要としている」と。
ヒットラーのことは、現代のマーケティング戦略の話で、よく引き合いに出されます。ヒット商品は、民衆の欲しがっていたものではない。なぜなら民衆は、いまだ存在しないものではなく、すでに存在するものしか欲しがらないからだ。ヒット商品は、民衆が「欲しかったもの」ではなく「欲しくなったもの」である、というわけです。
同じように、ナチス政権下の民衆は、敵が「欲しかった」のではなく、ヒットラーに煽動・洗脳されて、「欲しくなった」のでしょう。
とにかく、われわれ庶民より政治家や研究者のほうが知的で覚めているなどということはない。彼らのほうがずっと迷信深いのだ。戦時中だって、民衆よりも権力者のほうがずっと迷信深かったのであり、だから神風特攻隊などという戦略も生まれてきた。そのうち「神風」が吹くと触れまわっていたのは権力者で、彼らは大真面目でそう思っていた。だから、終戦が遅れた。彼らは、自分たちの地位を守るために戦争を長引かせたのではない。本気でチャンスはあると思っていたのだ。彼らは、その存在理由において、「目に見える敵」を必要としていた。
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「異人にたいする恐怖心と排除の思想」すなわち「人には目に見える敵が必要である」などという迷信(強迫観念)は、政治家や知識人のほうがずっと強い。われわれ庶民は、彼らに支配=教育されながら、そのおこぼれをちょうだいしているだけです。
子供たちの「いじめの衝動」は、大人という支配者の、すぐ「敵=異物」を見つけてしまう強迫観念から下りてきている。
日本列島の歴史において、民衆がいっちょまえに物の怪=怨霊に怯えるようになったのは、近世になってからのことでしょう。しかし権力者たちは、奈良時代から、すでにそんな騒動を飽きずに繰り返していた。平城京を引き払ったのは、物の怪=怨霊から逃れるためだった、というのは、日本史の常識のはずです。
中世の「地獄草紙」とか「餓鬼草紙」とかいう絵巻物を見ると、飢えて死んでゆく人の姿がじつにリアルに、そして奇妙に生き生きとした表情を持って描かれている。中世の民衆は、そういう悲惨な死までも、そのまま受止めて見ていたのです。権力者たちのように、強迫観念がエスカレートして鬼や狐の物の怪=怨霊の姿に見てしまう、といった視線など持っていなかったのです。
「怨霊」とは、「敵」が必要な人種が最後に引き受けなければならない強迫観念である。