「いじめ」と強迫観念

支配と被支配の関係が厳然と存在していた前近代の民俗社会の人々(村人)にとって、支配者は、「異人」だった。人々が支配を受け入れるということは、根源においてその異人を「まれびと」として迎え入れている、ということを意味する。
それにたいして支配者は、共同体の秩序に不要な者や邪魔な者を追い払い続ける。そうやって、つねにみずからの世界を、浄化された状態に保とうとする。
人は、支配されることは受け入れても、追い払われることには、深く傷つく。だから、復讐しようとする。みずからを浄化された存在であろうとし続ける支配者は、つねに復讐しようとする者たちの怨念から強迫されている。つまり、復讐されるのではないかと、勝手に強迫されている。そうして、勝手に「怨霊」だの「悪霊」だのというイメージをふくらませてゆく。妖怪だって、もとはといえば、支配者層の強迫観念から生まれてきた。政治とはオカルトのようなもので、とくに古代や中世では、これらの霊を鎮めることが共同体の秩序を維持するいとなみだった。
そうして民俗社会の人びとは、支配者だろうと遊行の宗教者だろうと、「異人」を受け入れることが生き延びる知恵であり希望であった。
支配者は、内部の「異物」を排除しなければ居心地が安らかになれなかったし、民俗社会の人びとは、外部の「異人」を受け入れなければ生きてゆけなかった。
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生きものの生きるいとなみの根源は、みずからの身体をこの世界(環境)にはめこんでゆくことにある。息をすることも飯を食うことも、身体がこの世界と調和して存在している状態を得るための行為です。であれば、追い払う(排除する)という行為は、その状態を剥奪する行為であり、追い払われた(排除された)者は、剥奪されたことの喪失感を深く味わうことになる。そうして、ときに復讐心を燃え上がらせたりする。
支配者は、つねに、外部に追い払われた者たちの恨みのこもった視線を浴びて存在していなければならない。その視線にたいする反応として、小松氏のいう「異人にたいする恐怖心や排除の思想」が生まれてくる。それは、支配者の思想なのだ。民俗社会の人々は、支配のがわからのそういう情報を受け取りながら暮らしていたにすぎない。民俗社会の人々から、「排除の思想」などという心性はそうかんたんには生まれてこない。「排除」して鬼や山姥になられても困るじゃないですか。民俗社会の人々は、支配者によって排除されてそうした怨念を抱えた「異人」たちと一緒に暮らしているのです。
共同体の周縁部の民俗社会にとって、邪魔な者を排除して鬼や山姥にしてしまうということは、それじたい鬼や山姥と一緒に暮らすことでもあった。日本列島における共同体の周縁部は、外部とのはっきりとした境界を持たず、すでにはんぶん外部に溶けてしまっているのだから。
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「排除の思想」とは、支配者の思想、あるいは、現代市民社会における市民という支配者の思想なのだ。
それは、根源的には、身体の居心地の悪さから来ているのだろうと思えます。子供たちは、いじめないではいられないような身体の居心地の悪さをどこかしらに抱えて暮らしている。だから、子供たちの身体能力や運動能力が年々低下しているという現象も起きてくる。
大人たちだって、腰痛やら肩こりやらメタボリック・シンドロームやらと、さまざまな身体の居心地の悪さを抱えてしまっている。そういう大人たちの意識が、支配の圧力とともに子供のレベルに下りてゆくのだ。
前近代の民衆は権力者の支配を受け入れ、現代は、権力者も市民も一緒になって、「大人」という立場から子供たちを支配している。