「穢れ」の自覚

古事記」によれば、死んだイザナミノミコトのあとを追いかけていったイザナギノミコトは黄泉の国の入り口である黄泉比良坂(よもつひらさか)で死人の群れと出会い、あわてて逃げ帰ったものの、みずからの身が穢れてしまったことを深く自覚し、「みそぎ」の旅に出る。
存在が「死」の世界の匂いを帯びてしまうこと、これが、日本列島における「穢れ」の意識の原点であるらしい。
いじめられることは、みずからの存在が「死」のがわに排除されることであり、「穢れ」を付与されることです。黄泉比良坂に追いやられることです。だからいじめられることはつらいし、親や教師に訴えるにも、それはみずからが穢れた存在であることを告白することだから、つい言いそびれてしまう。
とりあえず転校するか不登校になるかして、「みそぎ」の旅に出るしかない。
いじめられることは、「穢れ」を自覚することです。
そしていじめることは、「穢れ」を排除して(死のがわに追いやって)、みずからが浄化された存在であると自覚することです。彼らは、自分が穢れた存在であるなどとは、さらさら思っていない。
いじめる者は穢れた存在で、いじめられる者は穢れていない、などと規定してしまうわけにもいかないのです。
「穢れ=死」を排除することは、現代市民の生きる流儀です。その流儀で、彼らは「いじめ」をしている。いじめることは、現代の「正義」です。
そしてこれは、権力者の思想でもある。権力闘争も民衆を支配することも、他者を「穢れ=死」のがわに排除することです。
現代の若者は、他人を馬鹿呼ばわりするのが好きであるらしい。これも「いじめ」のひとつであり、他者を死のがわに排除しようとする衝動から来ているのでしょう。
現代人の異物=穢れ=死を排除しようとする衝動・・・・・・煙草のポイ捨てはだめだといい、スーパーマーケットに同じ形の胡瓜を並べることと、他人を馬鹿呼ばわりすることとは、同じ根を持つ衝動だろうと思えます。
(僕だって学者を馬鹿呼ばわりしているが、まあ「弱いものいじめ」ではないのだから、そこのところは愛嬌とも負け犬の遠吠えとも思って堪忍していただきたい)
とにかく、現代市民も、権力者も、みずからが浄化された存在であると自覚している。自覚しようとしている。
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支配者や現代の市民のそうした「浄化」の意識が、前近代の民俗社会の人々にもあったか。あったはずがない。現代と違って前近代には、厳然とした支配と被支配の関係があった。民俗社会の人びとは、はっきりと死のがわに追いやられていた。彼らは、みずからが穢れた存在であると自覚していた。だからこそ、来訪する遊行の宗教者たちの祝福によって「みそぎ」を受けることを必要としていたし、だからこそそうした習俗が千年以上も続いたのでしょう。
支配者の圧政に苦しむ前近代の民俗社会の人びとの意識は、おそらく現代の「いじめ」を受けている者たちと同じなのだ。
日本列島には、「穢れ」を自覚する伝統がある。穢れてある身を嘆くこと、その伝統が、漂泊する宗教者という習俗を生み、その来訪を歓待するという「まれびと信仰」を育てていった。
遊行の宗教者のユニホームが蓑笠をまとった乞食姿であったのは、彼らがイザナミのように「穢れ」を自覚して「みそぎ」の旅に出た者であることを意味している。だから民俗社会の人びとは、彼らを敬い歓待した。
学校の教師は、いじめられている子供にとっての訪れ祝福する「まれびと」になれるか。
具体的なことはよくわかりません。ただ、教師のがわに、蓑笠をまとって身をやつした乞食姿で村に入っていった遊行の宗教者のような、嘆きつつ「みそぎ」の旅をして生きている「たたずまい」がなければ、いじめられている子供には受け入れられないだろうと思えます。
現代において、そういう「たたずまい」を身につけることはとても難しいことであろうが、身につければ、苦しむ者たちに歓待される普遍的な存在になれるのかもしれない。
適切なアドバイスをしてやれるかどうかということ以前に、傷ついた者苦しむ者を祝福してやれる視線を持っているかどうかが問われる。また大人たちにそういう視線がないから、子供が平気でいじめをする。
現代のいじめられる子供たちは、蓑笠をまとった乞食姿の「異人」を待ち焦がれている。
というか、現代人の誰もが、その意識の社会から疎外されてある部分において、じつは「異人」との出会いに胸をときめかす体験をしている。
この国の飲み屋でもてるのは、訪れ祝福する異人の雰囲気を持っている者だと相場が決まっている。そういう作法を身につけてゆくのが、一人前の遊び人になる修行らしい。また、日本ほど、世界中の料理の店が集まっている国もないのだとか。これだって、ひとつの「異人」との出会いの体験であり、日本列島における「まれびと信仰」の伝統に由来するのだろうと思えます。
日本列島には、「異人論」の小松和彦氏がいうような「異人にたいする恐怖心と排除の思想」などという伝統はないのだ。