いじめられることの「穢れ」

「穢れ」は、共同体内部で発生し、共同体に充満している。共同体において支配されてあるがわの民俗社会の人びとは、そういうしがらみから解放されたがっている。できれば「出てゆきたい」という衝動を、潜在意識として抱えている。
支配されてあることは、「死」のがわに排除されてある、ということです。
「死」は、共同体の内部にある。だから共同体は、「穢れている」のだ。
そうして人は「みそぎ」の旅に出る。
したがって日本列島の伝統には、「異人論」の小松和彦氏や「異人論序説」の赤坂憲雄氏がいうように、旅人=異人を「穢れた存在である」とか「恐怖心と排除の思想の対象である」とする視線はないのです。
旅に出ることは、「穢れ」をぬぐうことです。
誰の中にもあるであろう旅への憧れは、みずからが穢れた存在であるという自覚から生まれる。
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いじめられる子供は、穢れているからいじめられるのではない。いじめられることが、穢れることです。むしろ、共同体の穢れを免れている存在だからこそ、いじめる者たちにとってはそれが目障りになる場合が多い。で、いじめることによって、「穢れ」を付与しようとする。
いじめられることは、象徴的には「死」のがわに排除されることであり、そういう意味において、いじめられている子供は、みずからが穢れた存在であるという自覚を抱えてしまっている。
いじめる子供は、学校や親に支配されて「すでに穢れている」と自覚するから、「いじめ」によってその「穢れ」をぬぐおうとする。あるいは、そうやってみずからの穢れてある状態を正当化してゆく。
そしていじめられる子供は、いじめられることによって「穢れてゆく」。
どちらに転んでも、学校という共同体の内部には、「穢れ」が充満している。
であれば、不登校とか転校というかたちでいったん旅に出る(共同体の外に出る)ことは、ひとつの「みそぎ」になる。
それは、とりあえずの措置として肯定されるべきであるのではなく、いったん穢れてしまった心には、そういうかたちの「みそぎ」は必要であり、そこで「自分らしさ」を取り戻すのかもしれない。
いじめられなくなったからといって、幸せになったからといって、「自分らしさ」を失ったままでいいともいえないでしょう。
「自分らしさ」を失って平均的な子供になったから、いじめられなくなった。それでいいのか。
いじめられている子供に、いじめられない人間(性格)になることを要求する権利が、いったい誰にあるのか。それは、いじめることは正当だ、と言っているのと同じでしょう。