いまどきの「穢れ」

現代の若者たちは、たとえ仲のよい友達どうしでも、不器用なほど相手に気を使ったりこびたりする。彼らは、傷ついた小鳥のように「他者」を畏れている。学校帰りに道端で別れるとき、女の子たちは、けんめいに手を振る。それはもう、痛々しいほどわざとらしい身振りです。いつも、関係が壊れることにおびえている。おびえるくらい、関係以前の関係で向き合っている。そして、そうやってけんめいに手を振ることによって、それまでの一緒にいた時間が完結したことを確かめようとしている。彼らは、明日のない関係で向き合っているから、そのつど完結させなければならないのだ。
彼らは、大人たちにうんざりしてしまっている。すでに、人と人が関係することの「穢れ」を知ってしまっっている。その思いを携え、「畏怖する人間」となって友達や恋人と向き合っている。
畏怖する若者たちの付き合いは、とても不器用です。彼らは、家族や学校において、「関係」に幻滅するという体験はしたが、「関係」を解体して「出会い」の場に立ちつづけるというトレーニングはしてこなかった。
現代の「家族」は、そういうトレーニングの場としての機能をすでに失ってしまっている。
現代の若者たちは、大人に対しても、社会に対しても、みずからの人生に対しても、「幻滅する=穢れる」という体験をしてしまった。大人や社会も穢れているし、彼らもまた「穢れ」を負って存在している。大人や社会が穢れた存在であるかぎり、彼らもまた穢れつづけなければならない。「穢れ」は、それを見た者も穢れた存在にしてしまうのだ。
しかしそうした「穢れの自覚」があるからこそ、「出会いのときめき」というカタルシスも生まれる。
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現代の若者たちにみずからの「穢れ」が強く意識されるようになってきたのは、80年代ころに「朝シャン」という習慣が生まれてきてからのことだろうと思えます。
それと同時に「ピーターパン(=大人になりたくない)症候群」という言葉も叫ばれるようになってきた。
社会が豊かになり、豊かさを価値とするようになったとき、豊かさを生産する能力を持たない若者は、大人たちに対する疎外感を覚えた。そうして、すでに豊かな社会と一体化してしまっている大人たちのことを、「穢れている」と思った。しかしそう思うことは、そういう大人たちと一緒に暮らしている自分もまた「穢れている」と自覚することでもあった。
そういう「穢れ」を拭い去ろうとして「朝シャン」を始めた。
「豊かさ」は「穢れ」でもあった。
それまでは、戦後の「世界に追いつけ追い越せ」という時代の流れで、「新しいもの」に価値があったから、アドバンテージはむしろ若者の方にあった。だから、大人たちに対してみずからの優位を主張しようとする全共闘運動も生まれてきた。
しかし、「豊かさ」が最大の価値になった80年代以降の若者はもう、大人たちの飼い犬の地位に落ちてしまった。
飼い犬であることの「穢れ」。その「穢れ」をぬぐうために「朝シャン」をはじめ、「穢れ」をぬぐった存在になることによって、大人たちとみずからを「差異化」していった。
教室中の窓ガラスを割ってしまうなどの「校内暴力」が激化していった時代でもあった。
そうして、90年代のバブル崩壊とともに、ミニスカートの復活が本格化してきた。
若者が肌をさらし始めたということは、大人たちに対するアドバンテージというか、みずからのアイデンティティを表現し始めた、ということです。その流れが現在の「へそだしルック」につながってくるのだが、それは、みずからの「穢れ」を自覚し、それをぬぐおうとしていることの表現であろうと思えます。自分はどこまで「穢れ」をぬぐうことが出来ているかと、みずからを試すようにして「へそ」や「太腿」の肌を晒している。
それは、ただ羞恥心が足りないとか、そういうことではない。「穢れ」の自覚を処理する装置なのだ。
中学・高校生の娘が真冬でもストッキングをはかないで太腿の肌をさらしているのは、それほどに「穢れ」の自覚が強いからであり、それがただ太腿を見せるためのものではなく、肌を晒すための着こなしであることを意味している。彼女らのその部分は、「穢れ」が祓われてたんなる身体の「輪郭」として自覚されているために、肉体としての寒さはあまり感じないらしい。感じるわけにいかないのだ。
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現代における大人と若者という世代の断絶は、「穢れの自覚」があるかないかにある。若者にはそれがあるし、おとなたちにはない。若者は「穢れの自覚」があるから大人たちに反抗しないし、大人たちはその自覚がないぶん、ふんぞり返っている。
穢れの自覚があるものは姿が清潔になる。それは、単純に体型だけの問題ではない。この世界に対する緊張感の問題です。また、穢れの自覚があるものは「関係」に対する畏怖があるから、他者に対してときにぎこちない態度にもなる。そうして、道端で他人と思わずぶつかりそうになって、すかさずよけて「ごめんなさい」といえるのも、無意識のうちにすでに「穢れの自覚」を抱えているからであって、反射神経だけの問題ではない。
道端でぶつかりそうになって相手をにらみつけるおじさんおばさんがたくさんいるのは、じつに奇妙なことです。
大人たちになぜ「穢れの自覚」がないかというわけは、たぶん、ひとことふたことではすまない。