「御霊信仰」の歴史 ―怨霊と祟り―・2

ヒットラーは、「人は、目に見える敵が必要である」と言った。
「敵」という概念は、いつごろから生まれたのか。そんなもの、生き物としての歴史が始まったときからあったのでしょう。
弱い者には、天敵がいる。しかし、地球上でもっとも強い生き物になったはずのわれわれ人間だって、つねに何かに追いつめられて生きている。たとえば、死の不安とか人生のこととか。
だからヒットラーは、そういう抽象的な敵に追いつめられているからこそ、目に見える敵をつくって攻撃することによって、その不安を忘れる必要がある、と言う。いちおうもっともらしいけど、それでは根源的な解決にならない。不安とのいたちごっこが、死ぬまで続く。そうやって攻撃することが、生き物としての「本能」だろうか。
人間は地上で最強の生き物になったが、他の生き物には、かならず「目に見える敵」がいる。生き延びるためには、どんな生き物だって、なにものかを攻撃しなければならない。草食動物の世界にも、メスをめぐる争いはある。
どんな生き物にも「攻撃本能」はある。だから、「目の前に見える敵が必要である」というわけです。
いちおう、正論です。疑う余地はなさそうに見える。
しかし、われわれの胸のどこかしらで納得できない思いが疼いている。
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「意識」は、身体の苦痛として発生する。空腹であるとか、暑い寒いとか、痛いとか、苦しいとか、身体の苦痛を察知する装置として機能している。「意識」とは苦痛の知覚である、ともいえる。
苦痛がなければ、意識は身体のことを忘れている。苦痛を知覚する、というかたちでしか、意識は身体を知覚することができない。苦痛がないかぎり、骨も肉も内臓も、意識が知覚することのできる対象ではない。
皮膚感覚だって、皮膚そのものは、苦痛としてしか知覚できない。机の表面を指でなぞれば、机の表面ばかり感じて、指の腹に対する知覚は消えている。指の腹にささくれができていたりするときに、はじめて痛みとして知覚する。
抱き合って気持いいとき、相手の身体のようす(感触)だけが知覚されていて、自分の身体に対する知覚は消えている。
意識は、身体に攻撃されているときだけ、身体を知覚する。そのとき身体は、「敵」として知覚されている。これが、生き物としての根源的な「敵」でしょう。われわれが、生きていて、いつもどかしらに「追いつめられている」ような思いを抱えているのは、ここから来ているのかもしれない。
しかし、身体という「敵」を攻撃することはできない。なぜならそれは、「苦痛」がもっと大きくなることだからです。
「苦痛」がないかぎり、身体は「敵」ではない。
そのとき「敵」は、消えている。
われわれは、「敵」を必要としているのではない。「敵」が消えているときこそ、うまく生きてあることができている状態なのだ。
そしてそれは、机の表面を指でなぞって机の表面ばかり感じているときのように、他者を抱きしめて他者の身体ばかり感じているときのように、他者や世界を丸ごと感じている状態として実現される。
氷河期の北ヨーロッパを生きたネアンデルタール人たちは、抱きしめ合いながら、寒さから逃れようとした。他者や世界を祝福しているときほど、身体の苦痛という「敵」は消えている。
指にささくれができているときに机の表面をなぞれば、机の表面は「敵」になる。そんな状態が必要でしょうか。
ゆえに、ヒットラーの言ったことはおかしい。
われわれに必要なのは、他者や世界が「敵」としてあらわれることではなく、みずからの身体を忘れるくらい「祝福」する対象であることだ。
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生き物に「攻撃本能」などというものはない。身体が消えてある状態にたどり着こうとすること、「本能」というなら、まあそんなような衝動のことではないでしょうか。われわれは、そのために飯を食う。ライオンだって、その衝動にせかされてシマウマを襲う。まず、身体が消えてある状態にたどり着こうとする衝動がはたらいている。
それは、世界や他者を祝福しようとする衝動でもある。
ライオンがシマウマの肉を食っているとき、シマウマの肉を祝福している。われわれが刺身や肉を美味いと言って祝福するのと同じです。身体の空腹のことは忘れて、口の中のシマウマの肉ばかり感じている。シマウマを追いかけて捕まえるのは、野球選手が外野フライをキャッチするようなことでしょう。それを「攻撃」といえるかどうか。ライオンにとって憎むべき敵は、テリトリーに侵入してくる仲間であり、この相手は、殺しはしない。追い払うだけです。ライオンだって、目に見える「敵」が存在しない状態にたどり着こうとしている。
外野フライが外野フライであることを「消去」しようとする衝動、すなわち外野フライを追いかけている自分(身体)を「消去」しようとする衝動、それによってボールがキャッチされ、キャッチされたボールが祝福される。
この生は、この生(=身体)を「消去」しようとする衝動の上に成り立っている。それは、死のうとすることではない。世界(他者)の存在をまるごと感じて祝福しようとする衝動なのだ。
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他者を祝福することは、みずからの身体を消去しようとする衝動の上に成り立っている。
みずからの身体が消えてゆく恍惚、それがエクスタシーであり、カタルシス(浄化作用)になる。男の射精感覚とか女のオルガスムスとは、おおよそそんなような感覚でしょう。
他者を祝福しつつみずからの身体が消えてゆくとき、その「苦痛=穢れ」が消えてゆくという浄化作用によって、霊魂(意識)は輝いている。
身体があるからこそ、身体が消えてゆくカタルシスがもたらされる。
であれば、他者の身体を消去して(=殺して)しまったとき、身体が消去されるカタルシス(浄化作用)を失った他者の霊魂(意識)は、「苦痛=穢れ」をぬぐいきれないまま宙をさまようしかない。
身体を失った霊魂はもう、「穢れ」をぬぐうことができない。
これが、「怨霊」のイメージではないかと思えます。
生きている者だって霊魂は持っている。なぜ生きているものの霊魂は怖くないかといえば、身体との関係で生成し、他者を祝福するという機能を持っていると思えるからでしょう。
死ねば、身体とともに、祝福する機能も失う。そうして、穢れをぬぐえない怨霊になる。
ヒットラーが「人は、目に見える敵が必要である」といったということは、あたりまえに生きていれば人は目に見える敵を持たないものである、ということを意味しているのかもしれない。
民衆は、目に見える敵を持たないで生きている。それは、民衆が愚かで迷信深いからではない。他者を祝福し他者から祝福されるカタルシスを、身体感覚として持っているからだ。
しかし迷信深い支配者は、すでに、生きているものの霊魂に「怨霊」を見てしまっている。それは、彼の意識がすでに「身体」との関係を失って霊魂=観念だけで生きているからだ。そうやっていつも「敵」と対峙してきた者にとっては、「敵」を持たないで「祝福」してしまっている民衆が、どうしようもなく愚かに見えてしまったのかもしれない。
攻撃衝動は、身体との関係を失って霊魂だけの存在になったときに起きるのだろうか。
太平洋戦争のときの日本軍は、敗色が濃くなればなるほど、身体との関係を失って、攻撃衝動ばかりなお激しくなっていった。
そして現代の教室の「いじめ」は、まさに「人は、目に見える敵が必要である」というヒットラーの教えを実践している。
うまく言えないのだけれど、「霊魂」という概念は、身体との関係によって、さまざまな色合いになってくるのだろうと思えます。最近「スピリチュアル」とかいろいろ言われているらしいけど。