「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・3

おそらく誰の中にも他者にたいする攻撃衝動というのはあるのだろうが、それは、「本能」と言えるほど根源的な衝動ではない。
こんなにもたくさんの人間が群れ集まって暮らしていれば、そういうことの鬱陶しさややこしさはいろいろあるわけで、そこから生まれてくる一種の強迫観念ではないかと思えます。
人が目障りになる体験は、誰も避けることはできない。人類みな兄弟、というわけにはいかない。
現代社会に住む人々は、冷暖房をそなえたり医療技術を向上させたりしながら、身体の苦痛を鎮めるというより、苦痛が起きないようにして暮らしている。苦痛が起きることを、極力避けようとしている。
しかしそれは、身体を知覚する機会を喪失しているということです。身体の知覚がなければ、身体が消えてゆくカタルシスもない。
現代人の身体との関係は、意識(観念)が一方的に身体を支配しコントロールしてゆく、という関係の色合いが濃い。
空腹であるとか、暑いとか寒いとか、痛いとか苦しいとか、身体の知覚は、なければないほどいい。現代人がそう思うのはたぶん、身体の死を回避しようとする強迫観念です。俺にはそんな自覚はない、と言っても、だめです。そういう暮らし方をしているということは、そういう強迫観念を意識の底にため込んでいるということです。心が、暮らし方を決定しているのではない。暮らし方が、心のかたちをつくっているのだ。そういう暮らし方をすれば、そういう心になる。「個性」などというものを、あまり過信しないほうがよい。誰だって、暮らし方に見合うだけの心しか持てないのだ。
身体を支配してゆくことは、身体を「被支配」のがわに排除しようとする攻撃衝動にほかならない。身体をいたわることと、身体を傷つけることは、ともに身体に干渉して支配してゆこうとすることであり、一枚のカードの裏表に過ぎない。身体をいたわる傾向が強い女は、そうやって身体を支配下に置いて暮らしているから、それがこうじて拒食症になったり、手首を切ったりするようにもなる。べつに非難するつもりではないが、女は、身体に対するルサンチマンが強い。
自殺とは、自分の身体に対する支配=攻撃衝動でしょう。他者を殺すことはもちろん、現代社会には、攻撃衝動が充満している。身体を知覚する機会が希薄になっているから、誰もが意識(観念)だけの存在になって、他者の「怨霊」に敏感になり、みずからも「怨霊」のかたまりになってしまったりしている。
心理学とは、他人の「怨霊」を察知しようとする学問です。
身体の苦痛が起きないということは、苦痛が消えてゆくカタルシスがないということであり、それは、霊魂の浄化作用がない、ということです。
平安時代の京都から始まったとされている「御霊信仰」とは、死者の怨霊をしずめようとする習俗であるが、現代人は、生きているときからすでに「怨霊」になってしまっている。
意識(観念)に支配されて死ななくなった身体は、もはや身体ではない。そして、死なないはずの身体が死んでしまうのだから、すべての人の死が「非業の死」であり、霊魂は「怨霊」に変わる。つまりわれわれは、すでに「非業の死」を約束された「怨霊」なのだ。
ボケ老人なんて、まさに「怨霊」そのものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「怨霊」という観念は、歴史的には、まず支配層の権力闘争から生まれてきたのでしょう。そういう人種が、そういう強迫観念を持った。そこから、後の時代になって、民族信仰の「山の神の祟り」などという世界観にアレンジされたりしていったのでしょう。
支配されている古代の民衆が、権力者たちより先に「怨霊」という強迫観念を持つことは、考えられない。とにかくそれは、みずからの身体や他者やときに世界さえも支配しようとする観念によって見つけ出された社会的イメージなのだ。
ナイーブに山の神に支配されていた古代の民衆が、山の神の「祟り」などという観念を持つはずがない。山を「支配」しようとしたとき、「祟り」が生まれる。
「禁制」は、支配者の民衆を支配しようとする衝動=強迫観念から生まれてくるのであって、民衆のナイーブな自然との関係からではない。共同体の秩序は、支配者に必要なものであって、民衆はそれを嘆いて生きているだけです。
古代の民衆は、山で災難に遭えば、災難を嘆くだけで、山の神の祟りだとは思わない。山の神とはそういうものだ、と思うだけです。自分に「怨念」などないのだから、山の神にもそれがあるなどと、思いようがない。
原始時代や、古代の民衆のあいだには、「非業の死」などというものはなかったのです。誰もがみずからの運命を「自然」として受け入れていた。人間の歴史は、そこから始まっているはずです。
・・・・・・・・・・・・・・
われわれ現代人と違って原始人は、身体や死と和解していた。
したがって原始時代に「非業の死」などというものはなかったし、「怨霊」というイメージに悩まされることもなかった。
すべての死は、自然の死であり、神の配剤であった。
縄文時代に、戦争も、おそらく人殺しも、ほとんどなかった。
縄文時代が8千年も続いたということは、そのあいだに戦争がなかったことを意味する。時代は、戦争によって変わる。
彼らは、われわれよりずっと他者を祝福することを知っていた。
他者を祝福することは、近代に生まれた「ヒューマニズム」という思想のことではない。それは、生き物としての根源的な衝動であり、身体意識です。身体が消えて、他者(世界)の姿がたちあらわれる体験のことです。犬や猫でも体験している「出会いのときめき」のことです。
縄文人の男たちは、山野をさすらいながら、女たちの集落を訪ね歩いた。そこには出会いのときめきがあり、たがいに相手を祝福しあった。男たちは晩秋の山に入ってシカやクマやイノシシなどの狩猟に励み、その収穫を携えて女たちの集落を訪ねた。女たちは、それを料理してもてなし、雨露をしのぐ宿を提供した。そうして男たちは、そこで雪に閉じ込められるひと冬を過ごし、春が来たらまた山に帰っていった。
他者や世界を祝福することが、縄文人の暮らしの習俗だった。
彼らは、他者や世界を受け入れ、和解していた。
縄文人は、30数年という寿命しかなかったのだが、8千年のあいだ、ほとんどその寿命が延びなかったらしい。それは、そういう工夫をするような生き方をしなかったということであり、それほどにみずからの身体や死と和解していた、ということを意味する。
であれば、そういう暮らしから「祟(たた)り」という観念は生まれてくるはずがない。
人間どころか、神の祟りだって、イメージできなかったでしょう。縄文世界は、祟りが生まれてくるよう「構造」になっていなかった。
祟りのイメージが生まれてくるのは、人間が他者を支配し、身体を支配してゆく暮らしを覚えてからの話でしょう。それは、死が怖くなるという強迫観念が強くなり、カタルシス(浄化作用)を喪失した状態です。
「支配」と「戦争(あるいは政争)」、そういう情況が現れてきて、はじめて「怨霊」という観念(イメージ)が生まれてくる。