「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・4

弥生時代になってから戦争が起きてきた、と言われています。
農耕定住の暮らしが始まって群れの規模が大きくなり、集団ヒステリーとしての戦争を引き起こした。
集団ヒステリーとは、第二次大戦下のドイツや日本のように、祝福し祝福される対象を失った集団が、リーダーに煽動される現象です。みんながいっせいにその気になるのではない。真っ先にヒステリーを起こす者がいて、それが「祝祭」となってみんなが同調してゆく。
真っ先にヒステリーを起こすのは、たとえばヒットラーのように、生きている他者に「怨霊」を見つけてしまう心理学に長けた者です。他者を「敵」として排除しようとする傾向の強い者は、どの群れにもひとりはいる。そういう者を生み出すのが、「共同体」の構造です。なぜなら、そういう者が集団のみんなを「被支配」のがわに排除してリーダー(支配者)になることによって、はじめて集団の機能が成り立つからです。それぞれが勝手なことを考えて勝手なことをしていたら、集団は成り立たない。そのときリーダーは「心理学者」だから、集団のみんなに先制攻撃をかけて、みんなを「被支配」のがわに排除してしまう。彼のアイデンティティは、他者を「敵」として排除することにある。
そして共同体の構造として、民衆はリーダーを祝福してゆく習性を持っている。
集団は、みんなの意志で動いているのではない。リーダーの意志で動くのです。
集団ヒステリーとは、リーダーのヒステリーです。
ある弥生人の集団が、山道で、他の集団と出会う。リーダーが「あいつらは敵だ」と叫ぶ。すると集団のみんなは、相手の集団との祝福を交歓する機会を失い、恐怖心に浸される。その恐怖心を払拭するために、「あいつらは敵だ」というリーダーの言葉を祝福してゆく。
そうして、戦争がはじまる。
政権の支持率が低下してくると戦争をはじめてそれを回復するというのは、アメリカの大統領の常套手段です。そのとき民衆は、戦争をしたがっているわけでもないのに、リーダーを祝福せずにいられなくなってしまう。
イングランドの「ジョンブル魂」とか「騎士道精神」とか、戦争というのは、古典的であればあるほど、リーダーが先頭になって突っ込んでゆくものであるらしい。それは、リーダーが勇敢であるからでも責任感が強いからでもない。集団のみんなから支持され祝福されているという恍惚に浸されるからだ。
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古代のアステカ文明の生贄の儀式とか、川が氾濫しないように生贄の者を川のそばに生き埋めにしたという日本の「ひとばしら」の話とか、共同体のみんなの意志だと、そうかんたんに言えるでしょうか。それらは、ひとりの強迫観念の強い者のヒステリーをみなが祝福し支持していった結果であるはずです。みんなで決めたのじゃない。ひとりが決めたのです。みんなで決めようとしたら、ぜったい、かわいそうだからいやだ、と言う者が出てくる。
リーダーの意志が戦争をしようとし、生贄をつくり上げるのです。民衆は、それを必要としているのではない。リーダーの決定を祝福してしまう習性を持っているだけです。
「異人論序説」の赤坂憲雄氏にしろ「異人論」の小松和彦氏にしろ、「共同体の意志」などとかんたんに言ってくれるが、ことに前近代の民族社会にそんなものはない。リーダーの意志があっただけです。
人さまざま、であるのが、「共同体の意志」なのだ。
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リーダーとみんなが同じであったら、集団はまとまらない。他者を「敵」として排除してゆこうとするリーダーの傾向を受けてみんなが「被支配者」になり、みんなは、他者を祝福し祝福されたがる傾向によって、リーダーを「支配者」として祝福してゆく。両者は、対照的な立場にあり、対照的な心のはたらきを持っている。
古代の村の祭祀で、生贄として選ばれた者は、片目にされたり片足にされたりしてある期間みんなの前に晒された、という話があります。リーダーは、自分が「怨念」を持っているから、生贄にされた者の「怨念」も見えている。しかしみんなは、自分に「怨念」がないから、生贄の「怨念」も見えない。片目片足の恰好にしてしまって、はじめてそれに気づく。片目片足は、「怨念(怨霊)」を持った存在であることの表現です。
つまり片目片足にしなければならないということは、民族社会の人々には「怨念(怨霊)」に気づく能力がない、ということを意味している。したがって、片目片足にしてしまうという発想もできない。発想したのは、リーダーです。ヒットラーが、「人は、はっきりと目に見える敵が必要である」と言ったのと、同じ思想です。
不具者だから排除するのではない。共同体に対する怨念(怨霊)を持った存在だからです。裏返せば、それほどに人は、祝福されたがっている、ということです。怨念を持った者を排除することで、誰もが、祝福された存在であることを自覚する。村が祝福に満ちているような気分になる。生贄という異人が憎たらしいから排除するのではない。祝福し祝福される機会を持ちたいからだ。
「生贄」とは、共同体=支配者を祝福する供儀です。そのとき、支配者は権力を維持しようとし、民衆は、祝福し祝福される体験を引き寄せる。生贄にしろ戦争にしろ、民衆が「敵」を持つことは、祝福しあう対象を失ったことの反動として支配者を支持し祝福してゆくということです。
民衆の祝福しようとする衝動をつねに自分のほうに向けておくこと、それが支配するということです。
村八分」という生贄の習俗にしても、ちゃんと「煽動者」というリーダーはいるはずです。村は、民主主義ではない。リーダーの指示で動いている。リーダーがいないとうまく機能しない。リーダーに嫌われた者が、村八分になるのだ。村びとに嫌われた者ではない。村びとは、嫌いでもない者を村八分にする。そこがやっかいなところです。誰かを村八分にすることで、自分たちが祝福された存在であること自覚する。
祝福することは、けっして美しいだけの行為ではない。
とはいえ村八分は、小松和彦氏の言うような「異人に対する恐怖心と排除の思想」とか、そんな悪意でやっているともいえない。
村びとは、善意のかたまりです。しかし、そこがいやらしいところでもある。
「異人に対する恐怖心と排除の思想」という分析だけで、民族社会の「闇」を見たつもりになってもらっては困ります。それは、「祝福しようとする善意」の向こうがわに横たわっているのだ。
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というわけで、死者の怨霊をしずめようとする「御霊信仰」が、民俗社会の民衆の心から生まれてきたということは、論理的にありえない。
この社会の歴史において、いちばん先に「怨霊」の存在に気づき、それに悩まされるという体験をした者は誰であったのか。それは、中央の権力者であり、その権力者の託宣=強迫観念を、都市の住民が、祝福し共有しようとして「御霊信仰」が生まれてきたのでしょう。
権力者が抱く怨霊の祟りのイメージは、最初、天変地異などの共同体の災厄としてあらわれることにあった。それが時代とともに、やがて権力者じしんの病気や精神的混乱などの個人的な災厄として自覚されるようになっていった。
古代においては、権力者の目的というか存在理由は、民衆を支配することにあった。良かれ悪しかれ、支配者は、共同体と一体化していた。だから、祟りの災厄も共同体レベルで自覚された。しかし中世のころには、支配の構造が整備され、中央の権力者は、権力それじたいを目的とするようになってきた。民衆を支配することは、官吏に任せておけばいい。そういう社会構造になってくればもう、いちばん上の権力者に、共同体=民衆との一体感はない。だから、権力闘争はさらに熾烈になってきたというのに、怨霊の祟りを共同体の災厄として民衆と共有してゆこうとするイメージは浮かんでこなくなった。
中世もなかばを過ぎると、中央の権力者と都市住民が一体化した「御霊信仰」は衰退し、その民衆を支配するという直接的な関係は地方の領主と村民のあいだに移され、そこで「御霊信仰」が盛んになってきた。
そうして近世になると、村民だけの集団の「リーダーとみんな」というような関係においても共同体に災厄をもたらす「怨霊」がイメージされるようになり、「異人殺し」の話とか「村八分」の習俗が生まれてきた。
共同体に災厄をもたらす「祟り」は、最初、中央の権力闘争に敗れて非業の死を遂げた人の「怨霊」によるものだとイメージされていたのだが、その観念がしだいに地方の小さな単位の共同体に下りてゆき、しまいには、村落共同体のおけるありもしない「異人殺し」という遊行の宗教者の非業の死をでっち上げる習俗になっていった。
しかしその「異人殺し」の話にしても、村びとのアイデアでなく、村の権力者じしんの強迫観念による自作自演やシャーマンの託宣から生まれてきているのです。
最初に「怨霊」と出会ったのは、民衆ではない、権力者なのだ。そのことは、どうしても確認しておきたい。