「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・5

「悪霊論」の著者である小松和彦氏は、「御霊信仰」はもともと民俗社会の人々の信仰としてあったのであり、歴史上はじめて文献に登場してくる平安時代初期の権力者による京都での「御霊会(ごりょうえ)」は、民族社会の人びとの要請によって催されたのだ、と言っています。
そのとき京都では疫病が蔓延し、権力者たちはこれを、かつて権力闘争に負けて非業の死を遂げた六人の者たちの「怨霊」の祟りであると判断した。あるいは、権力のまわりにいるシャーマンがそういう託宣を下した。
しかし民衆は、疫病が鎮まることを願ったが、「怨霊」を鎮めよ、と要求したのではないはずです。「怨霊」のイメージは、あくまで権力者たちの世界で発生した。
小松氏の説明は、次のようなものです。
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国家の御霊会は、祟り神を“神”に祀り上げ、さらに町や村の外へと祀り棄てようとした民衆の怨霊・御霊鎮めの一つの、そして究極のヴァリエーションに過ぎないのではなかろうか。
(・・・中略)
次のようなことが考えられる。こうした祟りを受けるのが支配者・有力者たちであり、そうした人々は一般の人々の生活をさまざま点で守る責任を持っている、という観念が存在していた。このために、疫病の発生の責任を支配者の“悪行”に結び付けえたのである。つまり、支配者たちは、疫病つまり怨霊を鎮める責任を人々から課せられているのであり、それゆえに「若宮」を祀ったり「御霊会」を催さねばならなかったのである。
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たしかに、疫病を鎮める責任はあったでしょう。支配するとは、そういうことです。しかし、その原因が非業の死を遂げた六人の「怨霊」の祟りにあると判断したのは、権力者たちです。民衆ではない。彼らは、権力者に、その原因は六人の「怨霊」の祟りである、といわれて、ああそうか、と納得しただけです。そして、そういう判断を祝福した。
このとき「御霊会」が催された会場である「神泉苑」は一般庶民にも開放され、もうお祭り気分だったという。
そのとき民衆に、「怨霊の祟りである」と発想できるメンタリティはなかった。なぜなら彼らじしん、権力闘争をはじめとして「怨霊」のイメージが生まれてくるような体験を持っていないからです。「怨霊」のイメージが生まれてくるような暮らしをしているから「怨霊」をイメージするようになってゆくのであって、「怨霊」をイメージする心が先験的にあるのではない。
怨霊をイメージする心のメカニズムという問題を考えた場合、それが、権力者より先に民衆の心から生まれてくるとは、とうてい考えられない。小松氏のように「権力者の御霊信仰はそのあとすぐ衰退していったが、民衆のあいだにはずっと定着していた。だから民間信仰のほうが先なのだ」、と言われても納得できるものではない。
それは、民衆にとっての直接的な支配者が、中央の権力ではなく、藩や村の領主に変わっていったからだ。藩や村の領主が、藩や村の災厄を「怨霊の祟り」だと思うようになってきたからだ。中央の権力者はもう、民衆を支配しているのではなく、藩や村の領主を支配していたのだ。彼らはもう、民衆のあいだの災厄などあまり関心がなかった。藩や村の領主さえうまく牛耳ることができればよかったのだ。そのとき実質的に民集を支配していたのは、藩や村の領主だった。「御霊信仰」は、リーダー(支配者)の強迫観念を被支配者の民衆のレベルに下ろしてゆく運動である、とわれわれは考えます。
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平安時代初期の権力者であった藤原氏から九州の大宰府に追い払われた左大臣菅原道真は、そこでの失意の日々の中で、京都の自宅の庭に植えられていた梅の木に向かって「東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ」と詠った。
これは、京都に帰りたい気持は溢れるほどあるけど、はんぶんもう諦めている、という歌でしょう。権力に復帰したいという野心はもう、ほとんどない。そんなことより、庭の梅の木のことが気にかかるだけだ、といっている。
しかし、書や学問においても卓越した才のあったこの高名な文人大宰府で死んだあと、京都の御所に雷が落ち、道真を京から追放した関係者の何人かが死んだ。そうしてそのあとも関係者の死が続いたこともあって、権力社会では、あの落雷事件は道真の「怨霊」の祟りだったのだ、ということになっていった。
藤原氏をはじめとする権力社会の怯えようは、尋常じゃなかった。さっそく北野天満宮を建てて、この「怨霊」を鎮めようとした。
現在、菅原道真を祀り神とする天満宮は、全国に数多くある。民俗社会の人びとにとっての道真は、権力社会を恐れさせたヒーローであった。当時の権力者にとっての京都の北野天満宮は、道真の「怨霊」を鎮め、道真を祀り棄てる「御霊信仰」の拠点であったのだろうが、民衆にとっての祭神・菅原道真は、もっと無邪気な憧れと崇拝の対象だった。そのころ、雨を降らせてくれる「雷神」に対する信仰が盛んで、それが道真の怨霊の事件と結びつき、やがて村の「天神信仰」として全国に広がっていった。つまり民俗社会にとっての道真の怨霊は、日照りのときに出てきて欲しい怨霊になった。
そのとき民俗社会の人びとが実感したのは、道真の「怨霊」が権力の中枢を混乱させたという騒ぎの大きさだった。権力社会では知らない人はない人物だったのだろうけど、たぶん一般庶民は、この騒ぎによってはじめて道真という人の存在を知ったのでしょう。
小松氏は、「御霊信仰」とか「若宮信仰」の本質は民俗社会の人びとの「怨霊」を畏れて鎮めようとした心性にあるのであって、道真が「学問の神様」などといって祀り上げられていったことにあるのではない、といっているのだが、事実は逆のはずです。「怨霊」すらも無邪気に氏神などに祀り上げてゆくという、そういういいかげんな信仰にこそ民俗社会の本質があったのではないでしょうか。いいかえれば、民俗社会の信仰の本質は、「祝福する」ことにあった。