「御霊信仰」の原像 ―怨霊と祟り―・6

もっとも原初的な「非業の死」とは、殺された死、ということになるのでしょうか。狼や熊に襲われるのはまだ事故ともいえるが、人に殺されることは、本人もまわりも、悔やんでも悔やみきれない。身体は消えても、霊魂だけが宙をさまよっている。
原始人の意識は、おそらく身体と霊魂はセットであっただろうと思えます。どこかで、身体と霊魂(観念)は別のものだという意識が生まれてきた。別のものだという意識を強く持った者が、その非業の死から、宙をさまよっている霊魂(怨霊)をイメージするようになってきた。
意識は身体との相互関係において生成しているのか、それとも意識が身体を支配しコントロールしているだけなのか。意識が体を動かしているのか。かならずしも意識の思う通りではなく、相互関係から動きが生まれているのか。後者のはずです。
しかし、誰の中にも、意識の命令で体を動かしているだけだ、という思い込みが多かれ少なかれある。そういう思い込みの強い者と、原始人のようにそうでもない者がいる。
まあこの原因の分析には、発達心理学とかいろんなことを考えないといけないのだろうが、とにかく、大きな群れができてくると、いろいろ不測の事態が起きてきて、群れのことが気になってしかたなくなる者があらわれてくる。それは、意識の命令で体を動かしているという思い込みが強い者でしょう。そうやって身体を支配しコントロールして生きている者にとっては、不測の事態があることは耐えられない。
大きな群れの不測の事態を回避するためには、意識(観念)が身体を支配しコントロールするように、誰かが群れを支配しコントロールしなければならない。そういう発想で、原始人の群れにリーダーになりたがる者が生まれてくる。
まず、不測の事態そのものを発見できる者でなければならない。普通の群れの構成員は、そんなことにも気づいていない。民衆は、疫病が流行っても、困ったものだどうしようとうろたえるだけで、「怨霊の祟りだ」と発想するようなメンタリティは持ち合わせていない。発想できるのは、群れをみずからの身体のようにイメージできる者でしょう。
レヴィ=ストロースが言っているのだけれど、歴史の初期段階においては、その必要を感じたみんながリーダーを選び出すのではなく、リーダーになりたい者があらわれてきて、それをみんなが賛成するかたちで選ばれるのだそうです。今でも同じか。
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縄文時代に、共同体といえるほどの大きな集団はなく、戦争も起きなかった。
したがってそのあとの弥生時代は、人びとがまだ大きな集団をつくって生きてゆくことに慣れていない時代だった。だから、なおさら、リーダーの決定にみんなが従うというシンプルなかたちで動いていたのだろうと思えます。
いやもう、日本列島の住民の伝統として、いまなおそういうかたちで集団を動かしてゆこうとする傾向がある。
弥生時代になって、人びとが戦争をしたがるようになってきたのではない。戦争をしたがる人間があらわれてきただけです。そして、戦争をしたがる人間は、リーダーになりたがる人間でもあった。
民衆の総意が、戦争を決定するのではない。リーダーによる戦争の決定が、民衆の総意になるのだ。そしてそれは、民衆がリーダーを怖がっているからではない。リーダーを祝福しようとする衝動を持っているからであり、祝福することが民衆のカタルシスだからだ。
群れのことが気になってしかたない者が、リーダーになる。原始的であればあるほど、民集は、群れのことなどあまり気にしていない。だからこそ、つねに群れのことを考えているリーダーの決定は、尊重される。
歴史の初期段階においては、リーダーであることは苦労が多いばかりで特権などほとんどなかったから、リーダーになりたがる者はまれだった。そのとき彼は、特権や富を手に入れようとしたのではない。誰よりも群れのことが気になってしかたなかったし、支配することの醍醐味に気づいたからだ。
富める者がリーダーになったのではない。リーダーになりたがる者がなったのだ。
農耕定住をはじめた弥生時代だからといって、おそらく貧富の差などほとんどなかった。民衆の中から貧富の差が生まれてきたのではない。リーダーを祝福するというその習俗が、富める者をつくっていったのでしょう。
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アフリカのある部族では、年取って役に立たなくなった王を民衆が殺してしまうという「王殺し」の習俗があるらしい。
「異人論序説」の赤坂憲雄氏の説明によれば、それが王という存在の普遍的な立場であり、ギリシア悲劇の「オイディプス王」の話のように、王は共同体の外部からやってきた「穢れた異人」であり、共同体の生贄という性格を本質的に負っている、ということらしい。だから、日本の天皇奈良盆地の外からやってきた「異人」だった、という話になるのだが、そういうことではないと思えます。
リーダーは、誰よりも群れの中のことをよく知っていて、自分からなりたがった者がなるのだから、天皇だって、むかしから奈良盆地に住んでいた「身内」だったはずです。リーダーは、群れのみんなと出自が違うのではなく、生来的な「気質」、つまり良くも悪くも特別なキャラクターを持っていたのだ。
人間の群れの個体数が増えれば、それだけいろんな性格の人間が現れてくる。それは、生物学的な遺伝子の問題ではなく、群れの中での立場や経験の違いというか、それぞれの個体が背負った「状況」の違いが生まれてくる、ということです。その「状況」がその人の思想や性格をつくるのであって、遺伝子がつくるのではない。
とにかく、その共同体の事情に精通している者しかリーダーにはなれないし、精通して誰よりも共同体のことが気になるからこそ、リーダーになりたがるのだ。リーダーは、共同体の成員とは違う人格であるが、よそ者ではない。その共同体の事情=状況に沿って、そういう人種がひとりかふたり生まれてくるのだ。
「王は外部の異人である」というのは、ひとつの象徴としての「物語」であって、「歴史的な事実」ではない。青森では青森のリーダーが現れてくるし、鹿児島では鹿児島のリーダーが現れてくる。リーダーの仕事は、先を読んで災厄の芽を摘んでゆくこと、必要になりそうなものを準備してゆくこと、そんなようなことでしょう。天気を読んだり作柄を占ったりすることも、まあその範疇のことであるはずです。その地に生まれ育った者でなければ天気を読むこともできないし、その地にふさわしい物語を語ることもできない。
王は、自分で勝手になりたがって、役に立っているあいだは、民衆から信頼され祝福され続ける。その祝福しようとする衝動が、役に立たなくなったときに「王殺し」の衝動に反転する。あるいは、役に立たない者を殺すのが王の仕事だったのだから、役に立たなくなった王を殺してやるのは、王に対する最後の祝福である、ということでしょうか。
代々の王は、最後の最後で死にたくないと悪あがきする人が多かった。だからもう、最後は自分たちで殺してやるしかない。王とは、「怨霊の祟りを怖れる」人種なのだ。王のうろたえぶりなんか見たくない。それは、王を祝福し続けてきた人たちの切実な思いだったのだろうか。そのうろたえぶりが、俺を殺せ、という最後の命令に聞こえたのだろうか。
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先を読む能力は、その能力が希薄な民集を支配するためには大いにアドバンテージになるが、みずからが死ぬ間際の先のない情況に立たされたとき、その能力が災いして必要以上にうろたえることになる。そのとき王の死の世界に対する妄想は、際限なくふくらんでゆく。
権力者は、先を読む人種であるがゆえに、けっして読むことのできない死の世界に対する妄想も激しい。身体を支配して(被支配のがわに排除して)観念だけで生きてきた彼は、もはや死ぬことができない。いったいこの観念は、死んだらどこに行くのか。「怨霊」というイメージは、そういう人種のそういう観念から生まれてくる。
天皇が、権力社会で非業の死を遂げた者の「怨霊」を意識していたという記述は、すでに「日本書紀」の中にも見られるが、民衆がリアリティをもってそれをイメージできるようになるのは、民衆の暮らしもまたいくぶんかの「権力」によっていとなまれるようになってきた近世になってからのことでしょう。