幻滅……われわれに未来はあるのか?

菅内閣が,今までの慣習を破って、日本学術会議が推薦した新メンバー100人くらいのうちの、特定の6人の任命承認を拒否した、ということが話題になっています。

これは、天皇内閣総理大臣の任命承認をするという慣習の手続きを拒否するのと同じことでしょう。

天皇がそういうことをするでしょうか。

つまりこれは、天皇制の否定なのですよね。

天皇は、総理大臣の任命証書に署名捺印をすることを拒否していいのでしょうか。

僕はそういう問題だと思っているけど、客観的にいえばまあ、学問の自立を踏みにじる仕業なのでしょうね。あるいは、ポル・ポトスターリン毛沢東による粛清弾圧と同じ行為なのかもしれません。

というわけで、菅義偉という人には人間に対する何かどす黒いルサンチマンのようなものがあるのかなと思えてきて、少なからずぞっとします。

僕が政治に対するちゃんとした見識と関心を持っているのなら大いに怒るべきことなのだろうなとも思います。

天皇は怒っていいと思います。私はもう二度と任命証書に署名捺印はしない、といっていいと思います。

しかし菅内閣は、どうしてこんなにも見え透いた嫌がらせをあたりまえのような顔をしてすることができるのでしょう。あの人たちは、どういう神経をしているのでしょうか。ぞっとするほど気味悪いです。

政権がそういうことを平気でできるような社会の構造になっているのでしょうか。政治家や資本家は傲慢で強欲だし、マスコミはすれっからし日和見主義だし、民衆は無知で怠惰だし、そんな醜い部分ばかりが露出してきています。だれもがそうだとも人間というのはそういうものだとも思わないけど、われわれはもう、見えない何かの力に動かされ流されてしまっているのでしょうか。

このことは大きな社会的事件になってゆくのでしょうか。学者たちは、ちゃんと抵抗することができるのでしょうか。

僕のような政治オンチも、ちゃんと怒るべきなのでしょうか。

 

コロナによって世界が変わる、とよくいわれたりしています。

どうなのでしょうね。

そうあってほしいが、本当にそうなるかどうかはわかりません。

バブル経済がはじけたときも、東日本大震災のあともそのようなことがいわれましたが、この国が生まれ変わるというようなこともなく、昔の夢を追いかけながらますます停滞していっただけでした。

ただ僕は、人類の未来の文化は本質的には基礎的原始的なかたちに戻ってゆくのだろうと、なんとなく想像しています。

 

この宇宙は、何もないところから出現して、いつかは消えてゆく。古代ギリシャの哲学者のヘラクレイトスは、「宇宙の根源は<火>にある」といいました。

燃える「火」は出現と消滅が同時に起こっている現象です。

現在の最先端の物理学では、すべての物質は出現と消滅を繰り返す「現象」であって「存在」ではない、というようなことが議論されているそうです。

生(誕生)と死。生は死であり、死は生である、ということ。宇宙の生成がそういう循環構造になっているとするなら、究極の未来は「消滅」であり、明日という未来は原初に還ってゆく、ということでしょう。

つまり、原始時代は人類の未来である、ということです。

もちろん表層的な文明のかたちが同じであるはずはないが、本質的にはそういうことなのでしょう。

そして現在は、もっとも発達した資本主義と原始時代が混在しているという状況であり、であれば未来は原始時代になってゆくことになるはずです。

現在の社会にも、個人の内面においても、すでに原始性は息づいているのでしょう。

たとえば現在はもう、力があるとか賢いとか仕事ができるとか、そういう現代社会を動かしていた能力がAIにとってかわられる時代になってきました。

そうなれば、「人間とは何か」ということが改めて問い直されるようになってくるのでしょう。

原始時代は、そういう現代的な能力を価値とするような社会ではありませんでした。力も知能指数も仕事の能力も、人を評価する基準ではなかったのです。ただもうそこに「あなた」がいるというというそのことにときめき合って集団を形成していたのであり、それが人間性の基礎なのだろうし、人類社会はけっきょくそういう関係に回帰してゆくのでしょう。

なんのかのといっても、いつの時代においてもどこの世界においても、人間が二本の足で立っている猿であるかぎり、人間であることから離れることなどなかったのです。

だから数千年前に生まれた文明社会だって、最初の理不尽な王権制度からけっきょくは民主主義に回帰してきたのでしょう。

民主主義とは、原始的な制度のことです。どんなに文明的な味付けが加えられようと、本質においては原始性なのです。

人間の社会なんて、ただもう他愛なくときめき合い助け合っていればいいだけでしょう。そしてそれが、じつはもっとも効率的な社会の運営方法なのです。なぜなら人間は、二本の足で立っている猿だからです。

 

最近、竹田恒泰という右翼の論客が『天皇国史』という本を出したそうですね。

またベストセラーになるのでしょうか。

僕は百田尚樹の『日本国紀』を買って読んでしまったことに凝りているから、たぶん買わないでしょう。

ネットでちょいと調べたら、ようするに天皇は権力社会でどのように歴史を歩んできたかということを書いた本らしいですね。

でも僕が知りたいことは、あくまで天皇と民衆の関係の歴史です。

大和朝廷の発生以来の1500年を貴族や武士や政治家たちが天皇を絶対的な「権威」として祀り上げながらどのように民衆を支配してきたかという歴史は、われわれも知る必要があることかもしれません。

でもわれわれ民衆にとっての天皇は、権威でもなんでもなく、ただもう他愛なくときめき慕っているだけの対象であり、その「他愛ないときめき」の形見として祀り上げてきただけなのです。

われわれにとって天皇は、男であろうと女であろうと「永遠のカリスマアイドル」であり「永遠の処女」なのです。

処女をカリスマアイドルや生贄として祀り上げるのは、原初以来の人類の普遍的な集団性であり、権力社会が天皇を絶対的な権威として祀り上げ民衆支配の道具にしてゆくこととは、まったく別のことです。

彼らには、われわれ民衆のような天皇に対する他愛ないときめきはありません。その他愛ないときめきに付け込んで民衆を支配しようとする欲望があるだけです。彼らが天皇を神として崇める気持ちのそこには、民衆を支配しようとする欲望がぴったりと張り付いているわけで、天皇を神として崇めることは、もっとも天皇バカにている気持ちでもあるのです。

彼らは、天皇をただの道具としてしか思っていない。だから、「男系男子」がどうのというようなしゃらくさいことをいってくるのです。

「おまえらみたいな下賤の者たちが次の天皇をどうするかというようなことを勝手に決めようとするな」という話じゃないですか。

天皇家のことは天皇家で決めてもらえばいいだけのことです。

われわれ民衆は、天皇天皇であればそれでいいだけです。血筋がどうのということなど、どうでもいいのです。そのことも、天皇家で決めればいいだけのことです。われわれはもう、無条件に天皇にときめいているだけなのです。

われわれ民衆と、男系男子がどうのとしゃらくさいことをわめいているあの薄汚い連中と、どちらが心の底から天皇を慕っているでしょうか。

大和朝廷が生まれる前は、天皇自身が次の天皇を決めていただけなのです。なぜならそのとき天皇は社会の外の存在であってもちろん権力などは持たず、社会のいとなみのことは民衆自身でやるという直接民主主義の社会だったのです。

だから、天皇家のこともまた、天皇家で決めていました。

現在だって天皇の存在意義は、この社会から隔絶した存在であることにあります。だから天皇には戸籍や苗字がないし、そういう隔絶した存在だからこそわれわれ民衆の遠いあこがれの対象になりえているのでしょう。

メタ思考というのでしょうか。人は心の底に異次元の世界に対する遠いあこがれを抱いています。それは宗教心でもなんでもなく、純粋に知的な好奇心であり、愛の問題でもあります。

だから、こちらの世界の人間があちらの世界の天皇家のことに手を突っ込んだらだめなのです。

男系男子がどうたらとか、よくそんな無作法なことがいえるものだと思います。竹田恒泰だろうと百田尚樹だろうと江藤淳だろうと小名木善行だろうと櫻井よしこだろうと、彼らはあまりにも愛が薄すぎるのです。人間が下品なのです。

男系男子がどうのとか、女性天皇女系天皇の違いとか、そんなことはわれわれ民衆は知らなくてもいいのです。そんなことは権力社会周辺の薄汚い連中がわめいているだけのことです。

すべては、天皇家にお任せすればいいだけのことなのです。そう思い定めることこそがじつはもっとも高度で深く純粋なメタ思考であり、普遍的なやまとごころの伝統なのです。

百田尚樹竹田恒泰だけでなく、小林秀雄折口信夫吉本隆明江藤淳だって、もう僕の敵ですよ。あの大家たちに対してだって、何をくだらないことをほざいていやがる、と反論したくなる部分はいくらでもありますよ。

あんな連中よりも、そのへんのおバカなギャルの方がずっとたくさんのことを教えてくれますよ。

 

だから、ユーチューブがやりたいのです。

今はまだ、家族や知り合いたちから反対される身でやっていいのかどうかとか、根っからの機械オンチの怠け者である自分にできるのかどうかと煩悶したり逡巡したりすることが多くて、すんなりとは前に進めないでいますが、何とか一日でも早く一歩を踏み出したいと焦っています。

原稿だけはもう、4か月分くらい書き溜めています。これらをブログにアップしてもいいのだろうが、やっぱりユーチューブでやりたいです。

年寄りというのは、情けない生きものです。ただの愚痴であるのわかっているけど、一歩踏み出すというたったこれだけのことが、思った以上に高いハードルなってしまっています。

なぜユーチューブがしたいかといえば、僕だって社会にコミットしたい、ということでしょうか。

しかし僕にできることなんかかぎられています。もともと政治オンチだし、政治に対する拒否反応があるから、政治活動に参加することはできません。

僕にできることは、今まで自分が考えてきたことをできるだけ広く発信しようとすることだけです。

アリが通れるだけの小さな穴だけど、自分にしか発信できないことがある、という自信はあります。その部分で、社会にコミットしたいわけです。

僕はしょうもない生き方をしてきて、自分に与えられた人生の時間を無駄に浪費してきただけだと思っていたけど、この十数年間をひとりで考えながらほかのユーチューバーがしゃべらないモチーフを蓄積してきた、ということに気づきました。

本に書いてあることをおもしろおかしくしゃべって拍手喝さいを浴びているユーチューバーがたくさんいる中で、俺はそのほかの内容を用意してあるからどうか俺にも言わせてくれ、と思うに至りました。

べつにみんなが知らないことを教えてあげたいというのではなく、だれでも知っていることを問い直したいだけです。つまり、日本化の伝統や古人類学に関する陳腐な通説が大手を振って流布していることと戦いたい、ということでしょうか。

だって、僕なりにこの十数年、何もかも打ち捨てて必死に考えてきたし、日本文化論に関しては、内田樹氏や小浜逸郎氏や西部邁氏なんか言うことがいちいち薄っぺらで話にならないと思っているし、尊敬していた小林秀雄吉本隆明折口信夫だって今となっては敵になってしまっているからです。

そんなことあるものか、そんなことあるものか、と必死に考えてきて、ここまでくればもう自分なりになんとか決着をつけたいわけです。

もしかしたら、だれかから徹底的に打ちのめされたい、と思っているのかもしれません。それで潔く店じまいするか、新しく出直すか。

僕が負けることは民衆の歴史が負けることだ、という思いもないわけではありません

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・