せめてものプロテスト

内閣による日本学術会議への人事介入に抗議して、菅野完という作家が官邸前でハンストをしています。

菅内閣のこの暴挙は、平たくいえば学問の自由に対する冒涜ということになるのでしょうが、欧米のメディアなどもそろって、人類の英知に対する挑戦だというような論調で批判しているそうです。

まあ世界中に恥をさらしている、ということでしょうか。

たしかに、醜悪そのものですよ。おまえらみたいな無知な政治家ごときが何を思い上がったことをしてやがる、という話です。

とはいえ国内では、一部の右翼の連中が、「もともと日本学術会議なんてろくでもない組織なのだからこれでいいのだ」と合唱して擁護しています。

日本学術会議に対する評価はともかく、権力者によるこうした弾圧というか強権発動を見せられると、背筋がぞっとするような恐ろしさと気味悪さを覚えます。

そしてそのことをいち早く察知してハンストというプロテストの行為に及んだ菅野完という人は立派だと思います。

 

プロテストができないなんて、情けないことだと思います。

アメリカではBLM(ブラック・ライブズ・マター)の運動が盛り上がっているというのに、この国では、こんなにもひどい社会状況になってしまっているというのに、そうしたプロテストの動きが一向に盛り上がってきません。

差別・貧困・若者の自殺等々、いくらでもひどい状況はあるわけじゃないですか。

そういう伝統がないというわけではないでしょう。中世には百姓一揆がどこでも起きていたし、幕末には「ええじゃないか騒動」が大いに盛り上がったし、大正時代には米騒動が起き、戦後の全学連全共闘学生運動は世界の学生運動をリードするほどの熱い勢いでした。

日本列島の歴史においては、列島中の民衆が一丸となる革命はついに一度も起きていないけど、局地的な内乱や騒乱はいつの時代もあちこちで起きていました。

大和朝廷の発生以来、民衆はつねに虐げられ支配されてきたけど、心を権力社会に売り渡すことはありませんでした。

民衆のあこがれは、権力社会ではなく、つねにこの世の外の異次元の世界に向けられていたのです。

天皇はこの世の外の存在だし、それはつまり旅の僧や旅芸人のように旅に出てこの世の無縁のものになることにあこがれるということでもありました。

べつに日本列島だけのことではないけど、人類の旅の文化はこの世の外にあこがれることの上に成り立っています。

この国の天皇制が1500年以上続いたということは、この国の伝統の精神風土がこの世の外の世界にあこがれることの上に成り立っているということです。

だからこの国の民衆社会は、ふだんは権力社会の支配に従順でも、心まで権力社会に売り渡しているというわけではないのです。いざとなったら、反乱を起こしたり、旅に出てしまったりしてきたのです。

心はすでにこの世の外に向いているのであり、そういう心模様の形見として天皇が存在してきたのです。

そういうプロテスト運動の伝統はないわけではないのです。

 

日本人の集団性の伝統は、国家や政府に対する忠誠にあるのではないのです。だからこそ明治維新政府は、国家神道によって民衆をがんじがらめに支配してゆかねばならなかったのでしょう。

大日本帝国の軍隊が部下を殴っていうことを聞かせるということばかりしていたのは、殴らないと統制が取れなかったからでしょう。

もともと国家に対する忠誠心の薄い民族なのです。だから、明治になるまで国歌や国旗がなかった。それが、四方を荒海に囲まれて異民族から侵略されたことがない歴史を歩んできた民族の精神風土です。

殴らないと心が「上の空」になってしまう民族なのです。

われわれ民衆の心は、いつもこの世の外の世界をさまよっています。そういう漂泊の心こそ、この島国の伝統です。

日本列島の民衆は、この世の外を漂泊する「無縁」の者や「無縁」の心にあこがれながら歴史を歩んできたのであり、そういうこの世の外の「無縁者」の代表として天皇を祀り上げてきたのです。

寅さん映画の人気は、天皇制の伝統の問題でもあります。

日本列島の民衆は伝統的に国家権力との関係意識が薄く、国家権力の外の天皇との関係意識で歴史を歩んできたのです。われわれは、表層的な意識としての観念ではなく、無意識というか歴史的な潜在意識のところで国家権力の外の存在である天皇を祀り上げてきたのではないでしょうか。

 

そのへんの凡庸な右翼たちのように「日本人に生まれてよかった」などと合唱しながら国家権力にすり寄ってゆくのは、日本人の伝統ではないのです。

国家権力のことなんか知ったこっちゃないとか、ときに百姓一揆のように命がけでプロテストするとか、それがほんとうの日本的精神の伝統ではないでしょうか。

彼らはどうして、国家権力にすり寄ってゆくことを恥ずかしいと思わないのでしょうか。

右翼であれ左翼であれ、国家権力にプロテストすることこそ日本列島の伝統なのではないでしょうか。国土や国の民に献身することと国家権力にすり寄って安心や利益を得ようとすることは、まったく別のことでしょう。

われわれ現在の日本人は、明治以降の大日本帝国による洗脳政策によって飼い慣らされてしまったのでしょうか。

国家のことに対しては、知らんぷりするかプロテストするかのどちらかであるのが日本列島の民衆の伝統なのではないでしょうか。

だから今回の菅内閣による日本学術会議への人事介入を擁護する言説を振りまいているマスコミ言論人やネット民たちは、ほんとうにどうしようもなく醜悪なゲス野郎どもで、それでもおまえら日本人かと思います。

あの連中だって、菅義偉という人と同じくらい気味悪いです。

僕は政治オンチだから、今回のことに対するちゃんとした理屈はよくわかりません。ただもうひたすらあの連中の心映えの醜悪さが気持ち悪いばかりです。

おまえらそれでも日本人か、おまえらの心に大和魂というものはないのか、日本人としての心意気はないのか、と思います。意地汚く国家権力にすり寄ってゆくことばかりしているんじゃないよ、といいたくなります。そういう態度の醜さというのを、どうして自覚できないのでしょうか。

得をすれば勝ちだということ、得をすることを追求するのが正義だ、ということでしょうか。

まあ資本主義とは利益を追求するシステムのことだろうし、自己利益を得るための指南書としての自己啓発本がもてはやされている世の中です。

 

現在のこの国における自己利益を追求する生き方のトップランナーのひとりとして、まず橋下徹という人の名が浮かびます。だからネトウヨたちに人気があるのでしょう。そうやってもてはやされる者ももてはやす者たちも、どうしようもないゲス野郎だと思います。

自己利益を守りたいのなら、自己利益を阻害する者たちを徹底的に排除しようとするようになってゆきます。それが、現在のこの国にはびこる右翼とか保守といわれる者たちのメンタリティというか生態なのではないでしょうか。

大切なのは「日本人とは何か」と問うことであって、「日本人でよかった」と満足したり安心したりすることではないでしょう。

「日本人とは何か」と問うのが日本人であって、「日本人でよかった」という満足や安心などは日本文化の伝統にはないのです。

日本列島の精神風土は、不安に震えることから逃れて満足や安心を得ることではなく、不安に震えることそれ自体を抱きすくめて生きることにあるのです。

満足や安心を得ることそれ自体が不安の呼び水になってしまうのが日本列島の精神風土です。まあそれが世界共通の普遍的な人間性の基礎だともいえるわけで、そうやって人類の文化はさまざまなイノベーションを起こしながら進化発展してきたのです。

不安に震えている人は美しい。それはもう、そうじゃないですか。だれだってそう思ってしまうじゃないですか。

橋下徹とか百田尚樹とか、いい気になって日本人としての自己利益を追求することを正義ぶって吹聴している連中なんて、見るに堪えないほど醜悪じゃないですか。そういう醜悪さを共有してゆくことが日本列島の伝統なのですか。冗談じゃないですよ。彼らほど日本列島の伝統がわかっていない者たちもいない、と思いますか。

いや、わからなくてもいいのです。わからなくてもちゃんと無意識のところで、すでにそうした不安を抱きすくめて生きるという人間性を身体化している人たちがいるのですよね。それが、日本列島の民衆社会の伝統であり、弥生時代から続く神道ほんらいの伝統であり、天皇制の伝統なのです。

満足や安心を欲しがることの裏には、強迫観念とか不安神経症とかがぴったり張り付いている。それが、橋下徹百田尚樹をはじめとするあの右翼たちのメンタリティです。

彼らはつまり、不安を抱きすくめるという日本列島の伝統を身体化していないということで、つまり彼らはこの国ではおバカなギャルでも持っているそのメンタリティを持っていない、ということです。

正しいかどうかなんて、どうでもいいことです。正義などというものは、ヒットラーだって持っていたのです。時代の状況によっては、人殺しだって正義の人になれるのです。

僕がいいたいのは、彼らは日本人としてどうしても醜悪だということです。日本人としての大和魂も大和心も彼らのもとにはない、ということです。

あんな醜悪な人間たちがどうしてのさばり続けるのでしょうか。とはいえいまさら彼らが日本列島の伝統精神を獲得できるはずもなく、彼らが悪いともいえません。

嘆かわしいのは、彼らをのさばらせている者たちがこの世の中に一定数いる、ということでしょう。

間違っている、といっても、反論されるだけだし、けっきょくは水掛け論になってしまうだけでしょう。自分の方が正義だと信じようとするモチベーションは彼らの方がずっと旺盛です。

彼らを置き去りにできないわれわれ民衆が悪いのだと思います。

彼らは間違っている、と裁いてもせんないことです。

正義などというものは、どこにでもあるものでしょう。国家権力を背負っていればそれが正義だ、ともいえます。だから彼らは、みずからの正義を信じて疑わない。それがどんなに醜悪なふるまいであっても、どれほど民衆を抑圧しようと、知ったことではない。彼らにとっては、支配することそれ自体が正義なのです。

 

どうすればわれわれ民衆は、彼らを置き去りにしてしまうことができるでしょうか。

右翼であれ左翼であれ、正義はわれわれの側にある、と主張する時代はもう終わりにしてもらいたいです。

正義なんか旗印にしてもしょうがない。正義を争うことなんか永田町すなわち権力社会の中だけでやってくれ、というのが日本列島の民衆社会の伝統だと思います。

民衆の存在基盤は、けっきょく人間の本性にあるのではないでしょうか。

橋下徹百田尚樹に人間の本性や日本列島の伝統があるでしょうか。

自己利益を獲得して満足や安心を持とうとするのは、人間の本性でも日本列島の伝統でもないはずです。

アメリカのBLM(ブラック・ライブズ・マター)ムーブメントは、差別と反差別のどちらに人間の本性があるかと問う運動なのでしょう。

資本主義社会においては、差別や競争が人間の本性だと認識されてきました。BLMムーブメントは、そこのところが問い直されているのでしょう。そしてそういう根源的なところを問い直すことができるのは、既得権益者としての大人ではなく、若者たちでしょう。

今はまだ橋下徹百田尚樹に洗脳されている若者も多いのかもしれないが、それはこれまでの資本主義社会というか近代合理主義社会においては差別や競争が人間の本性だと認識されてきたからでしょう。

でも今回の世界的なコロナ騒動によって反差別・反競争に目覚めた若者が増えてきて、それがBLMムーブメントになって現れているのだろうし、この国だってだんだんそうなってくるのかもしれません。

橋下徹百田尚樹のような権威主義的なアジテーターに洗脳されない若者が増えてこないことには新しい時代は生まれてこないだろうし、増えてくる兆しを感じているから彼らはますます強圧的になっているのでしょう。

権威主義であるということは、差別主義であり競争主義でもあるということです。そしてその思考はかんたんに反権威主義に裏返るということです。そうやって彼らは、天皇や国家や国旗の権威を称揚しつつ、現在の日本学術会議への人事介入に対しては「学術会議なんてろくなもんじゃない」といって擁護しているわけです。

 

悪いけど僕は、学者たちを尊敬しているけど、権威だなんて全然思っていませんよ。本を読んで記憶したり調べたりする能力が特化しているということは尊敬に値すると思っています。でも、ものを考える能力まで彼らが特別に優れているとは思っていません。

ものを考える能力は人間ならみな同じだし、ときにそのへんのおバカなギャルの方が彼らよりずっと深く考えていたりする部分があるのです。

そりゃあアカデミズムの世界には、それ相応の能力評価と自立性を与えられてしかるべきですよ。半端な知識と教養しか持たない一般人にそれを査定する能力や資格なんかありませんよ。もちろんたかだか菅義偉橋下徹百田尚樹ごときにおいてもです。

天皇だって、権威でもなんでもありませんよ。それを権威だと思っているのは権力社会の人間や右翼たちだけで、われわれ一般大衆は天皇をこの上なくいとおしいと思いあこがれているだけです。それはきっと、だれもが抱く赤ん坊や美人に対する想いと別のものではないでしょう。

この世のものとは思えないような、という言い方をするように、この世の外の存在の輝きというものがあるのです。それは、権威を崇拝するというようなことではなく、人としての「遠いあこがれ」なのです。

まあ太陽はあの水平線やあの山の向こうの異世界から現れて異世界に消えてゆくわけで、そういう「異世界」に対する「遠いあこがれ」はだれの心の底にも息づいている原始的な本能のようなものだといえます。

われわれ民衆は、「遠いあこがれ」を抱きながら生きている存在であって、あの連中のように正義を旗印にして生きているのではありません。

われわれ民衆の「遠いあこがれ」は、いかにも現世的で通俗的な正義や権威に向いているのではなく、その向こうの「この世ならぬもの」に対してなのです。

歴史的に世界中どこの民衆も、そういう「遠いあこがれ」を共有しながら、権力社会を置き去りにしていったりプロテストしたりして歴史を歩んできたのではないでしょうか。

 

彼らはどうして権力社会にすり寄ってゆこうとするのでしょう。

権力社会にプロテストしたり権力社会なんか関係ないと思ったりするのが、日本列島の民衆社会の伝統のはずです。

今どきの右翼なんか、民衆社会の伝統の衰退のあらわれでしかない、とつくづく思って情けなくなります。

それが正義であろうとあるまいと、民衆のくせにどうして権力社会にすり寄ってゆくことができるのでしょうか。ごくごく当たり前に、とても不思議です。

僕は伊勢で生まれ育ったのだけれど、あのころの町の人はみんな「国家権力なんか関係ない」という思いで生活していたと思います。

で、中学になって九州の福岡という都会に移り住んだのだけれど、そのとき大きなカルチャーショックを覚えました。子供心にも、なんとなく人々の「意識の高さ」のようなものを感じました。

悪くいえば、大人も子供もなんだか伊勢の人々よりもすれているなあ、という感じでした。

まあ博多は商人の町だったし、時代もようやく高度経済成長がはじまりかけていたということもあるのでしょうか。つまり今どきの右翼思想なんか、そういう時代に踊らされた心の上に成り立っているのであって、伝統的でもなんでもないと思います。

僕だって右翼かもしれないけど、国家がどうのということばかり言っている今どきの右翼なんかみんなすれっからしですよ。国家の正義や権威をありがたがるというのは明治以降の日本人の傾向であって、日本列島1万年の伝統ではないはずです。とにかく彼らは、どうして「国家なんか関係ない」という気持ちで生きている純朴な民衆の味方になれないのか。

 

日本学術会議の問題にしても、どうして知識や教養がある者たちに嫉妬し反感を抱かねばならないのか。

江戸時代のこの国が世界的に見てもずば抜けて識字率が高かったということは、知識や教養を尊重する民族だったということを意味します。何はともともあれ新しもの好きのおっちょこちょいであるのが、この国の伝統です。

日本学術会議や東大を権威だと思うこと自体が屈折したルサンチマンであり、正義ぶってそれらを裁こうとするなんて、コンプレックスの裏返しでしかないでしょう。

そりゃあしょうもない学者や東大生はいくらでもいるだろうが、純粋に学問をしている人だって一定数いるはずで、一定数いればいいのです。日本人は学問や教養を大切する民族だということの証しは必要です。

学者のレベルは学者がいちばんよく知っていることだし、どうして中途半端な凡人たちに査定されねばならないのか。

また、中途半端な凡人が査定することに賛同するなんて、そんなみみっちく貧乏たらしいことは考えるなという話です。

十人に一人、あるいは百人に一人でもまともな研究者がいればそれでいいのです。それを「学者はみんなバカだ」といって憂さを晴らしているなんて、やることがあまりにみすぼらしすぎます。

日本列島の民衆の伝統においては、良くも悪くも正義か悪かという物差しなんかないのです。

カッコいいかカッコ悪いか、ということだけです。

橋下徹だろうと百田尚樹だろうと醜悪すぎます。醜悪でも正義であればそれでいいんだというその根性がけち臭いのであり、それは日本列島の伝統でもなんでもないのです。

なぜなら民衆は、現世的な善悪という基準を超えた異次元の世界に対する「遠いあこがれ」を共有している存在だからです。

 

現在のアメリカのBLMムーブメントだって、民衆は差別をすることの醜悪さに抗議して盛り上がっているのであって、正義はわれわれの側にあると主張しているのではないのです。

なぜなら正義とは差別の別名であり、人は醜い大人になることによって正義という名の差別に目覚めるのです。

もともと世間知らずの存在である若者に、正義という意識なんかありませんよ。ただもう醜悪なものに対する拒否反応があるだけです。

正義なんて、たんなる社会的なものさしじゃないですか。そうやって法律というものがつくられているのでしょう。

総理大臣だろうと警察だろうとネトウヨだろうと、正義を振りかざす人間ほど気味悪いものはない。

「関係ない」と思えば知らんぷりしておけばいいだけだが、それがこちらにまとわりついてきて「気味悪い」と思えば、抵抗すなわちプロテストするしかありません。

権力社会に対しては、知らんぷりするかプロテストするか、それがこの国の民衆社会の伝統です。

いや、世界中そうでしょう。

BLMムーブメントでみんなでラップを合唱しながら行進してゆくあのスタイルだって、この国の中世の「念仏踊り」や幕末の「ええじゃないか」騒動だってあんなふうだったのかな、と思わせられます。

安倍内閣菅内閣はもう、「関係ない」を通り越して「気味悪い」というレベルです。そして菅内閣は、安倍内閣以上に陰湿で陰険で、背中が凍るような恐ろしさを感じます。さらには、それを支持する人間たちが一定数いて大声で騒いでいる現在の状況は、これがほんとの末法の世というものだな、と思わせられます。

ここまでくればわれわれはもう、プロテストするしかないのでしょう。あのグロテスクな連中が退却してゆく状況をつくらないといけない。この世界につくろうとしてがんばっている人たちがいるのなら、自分もささやかながらそのムーブメントに加わることができたら、と思っています。