絶好調になんか生きられない・ネアンデルタール人論139

内田樹氏は、『女は何を欲望するか?』という著書の中で、上野千鶴子氏のフェミニズムを批判しつつ「そんなことをいっても、現在の男と女の関係は絶好調に機能している」と語っている。
ほんとにそうだろうか?
このころの彼は再婚を控えて有頂天になっていたということもあろうが、男と女の関係の機微は誰よりもよくわかっている、という物言いばかりしたがる傾向があった。
ほんとにこの人はよくわかっているのだろうか?
「男と女の関係が絶好調に機能している」とは、いったいどういう状態をいうのだろう?
僕は、よくわからない。だから、ネアンデルタール人について考えている。
僕だって女からまったく相手にされないさびしい人生を生きてきたわけでもないが、しかし「絶好調に機能している男と女の関係」なんか体験したことがないし、はたして男と女のあいだにそんな関係などというものがあるのだろうかとも思う。女なんかわけのわからない生きものだし、親密な関係になればなるほど付き合うのがしんどくなってくる。僕だけじゃなく、普通の男なら、たいていそのような感想と体験を持っているのではないだろうか。
まあ早い話が現在は、若い男女はあまり結婚したがらなくなってきているし、結婚しても「少子化」がいっそう進んでいる。そして、結婚したくてもできない男もたくさんいる。そんな時代の状況を前にして、どうして「絶好調に機能している」などといえるのだろう。絶好調に機能しているのはあんただけなんだよ……ということだろうか。
たとえ結婚することが愚かな選択だとしても、この一夫一婦制の社会が普通に機能していれば、多くの男女が結婚してしまうのがごく当たり前のなりゆきだろう。たいていは、何かのはずみや若気の至りで結婚してしまうのだ。現在の60歳以上の世代は、貧しいものも豊かなものも、美男美女もブスやブオトコも、そうやってほとんどの男女が結婚した。しかし現在においては、そんな他愛ないなりゆきに身をまかせることができなくなってきている。それは、男女の関係の不調だといえないのか。
「なりゆき」で結婚するということは、「もう死んでもいい」という勢いで結婚するということだ。平和で豊かになった戦後社会は、そういう「死に対する親密さ」を失った。
大人も若者も多くのものたちが美男美女になろうと努力しているということは、「男と女の関係が絶好調に機能している」からではなく、今やもう、金があったり美男美女であったりしなければ恋や結婚ができないほどに不調になってしまっているからだろう。そういうものたちがそういう機会を占有してしまっている。
美男美女になろうとむやみに努力したがるのは、どこか不健康だ。
美男美女でなければならないのなら、結婚なんかしないほうがいい。子供なんかつくらないほうがいい。男の小遣いも遊べる時間も減るし、女の美貌や体形も崩れてゆく。そうやっておたがいの美男美女という意味や価値が後退して、セックスの回数も減ってゆく。美男美女という意味や価値に執着した結果としてセックスの回数が減ってゆくのだ。美男美女という意味や価値でセックスするなんて、大いに不健康だ。「他者の体に対するどうしようもない懐かしさ」という「遠い憧れ=ときめき」をすでに失ってしまっている。たがいにセックスアピールをすでに失ってしまっている。
セックスは、美男美女としてするものでもあるまい。抱き合ったときの「他者の体に対するどうしようもない懐かしさ」すなわちその「遠い憧れ」によってもたらされる「ときめき」とともに男のペニスが勃起する。女の手のひらに握られてペニスが勃起するとき、意識は、ペニスではなく女の手のひらばかり感じている。それが「他者の体に対するどうしようもない懐かしさ」であり、そのとき「自分=身体」に対する意識が引きはがされて「世界=他者の身体」に向いている。セックスの醍醐味は、「自分=身体」に向いた意識が引きはがされることにある。心は、そうやって世界にときめいてゆく。
しかし現代人の自意識が美男美女であろうと努力するとき、「自分=身体」に張り付いた意識を手放すまいとしているのであり、そうやってだんだん勃起できなくなってゆく。


自意識が肥大化した時代においては、男女の関係は不調になる。自意識過剰でいる男は、女に鬱陶しがられ逃げられる。自意識は、他者を支配することによって満足する。現代社会において、男と女が親密な関係になると、たがいに相手を支配し合うようになってゆく。だから現代社会の男と女は、親密なというかセックスをする関係になれない。つまり、結婚しなくなってゆく。勢いで結婚してしまうということをしなくなる。内田樹のように、結婚の意味や価値を信奉してゆかないと結婚できない。しかし信奉できるのは一部のものだけであり、一般的には、独身者にとっても既婚者にとっても、結婚なんてしょせんは愚かな選択であり、なりゆきまかせの勢いでくっついてしまうということがなければ、誰もが結婚するという社会にはならない。「自分を忘れて夢中になってゆく」というタッチを持っていなければ結婚なんてできないし、精力もそのうち減退してゆく。
「絶好調に機能」なんかしているものか。
内田樹だって、自意識過剰なインポおやじだろうと、僕は思っている。ほんとかどうかなんて知る由もないが、そうとしか思えないようなことばかりいってくる。その著書の中でもさかんに繰り返していたが、20歳も下の若い女との再婚を控えた初老の男が「セックスだけが人生じゃない」などというだろうか。そういう言い訳を隠れ蓑にして再婚するなんて、なんだか不健康だ。何しろその相手は20歳も下の女なのだから、普通は、「青春がよみがえった」などといいながら、とりあえず行けるところまでやりまくってやろう、という気になるのではないだろうか。いや、下賤なわれわれとは違うお方らしく、「結婚は、セックス(=ときめき合うこと)ではなく、結婚の意味や意義(価値)を共有してゆくことの上に成り立っている」とかなんとか、それで戦後の「家族崩壊」の問題が解決できるんだってさ。
そりゃあ誰だってセックス以外のことだって考えているが、セックスの問題がどうでもいいというわけにもいかないだろう。そんな意味や意義だけで結婚できる男女なんか、ほとんどいない。たいていの場合は、どんなにきれいごとをいっても、なりゆきで結婚し、なりゆきで結婚生活を続けているだけであり、なりゆきに身をまかせようとする人間性の自然というものがあるのだ。そういう人間性の自然を失って、「結婚生活の意味や価値」を欲しがりながらどんどん作為的目的論的になってきたことによって戦後の家族崩壊が起きているのではないのか。
まあ、なんのかのといっても、無意識=超越論的主観性において「他者の身体に対するどうしようもない懐かしさ」は、誰の中でもはたらいているのだ。セックスをしようとしまいと、それなしに結婚することはできない。セックスをしようとしまいとそれは、身体と身体が相寄る行為なのだ。インポテンツでもかまわないけど、人間性の自然としてのそのことは認識しておいてもよいだろう。えらそうにほかのところでは「身体論」を吹きまくっているくせに、どうして結婚だけは精神論ですませようとするのか。
内田樹がいうような程度の低い道徳論や現状認識で、はたして現在の「家族崩壊」や「少子化」や「結婚しない症候群」等々の問題が解決できるだろうか。


内田樹がいうように、戦後社会は男と女の関係が「絶好調」になってきたか。彼のように、若いときに女房に逃げられた男が初老になって金と地位を得ながらめでたく若い女と再婚できたからといって、それがそのまま世間一般の男と女の関係が「絶好調」に機能していることの証しになるわけでもなかろう。
戦後の「家族崩壊」だって、「男と女の関係」の問題でもある。結婚した男と女がちゃんとした関係になれなかったということだろう。それは、夫婦が不仲になったり離婚したりすることだけでなく、夫婦そろってむやみに家族の意味や価値に執着して子供を息苦しくさせた、ということもある。何しろ彼らは、一家団欒のホームドラマで育った世代なのだ。自分たちも親になってそれを再現しようとして失敗した。なぜ失敗したかといえば、もはやそれが可能な時代ではなくなっていた、ということだろうか。あのころはどこの家もそれなりに貧しかったし、一家団欒の中心にいつもテレビがあったとか、ほとんどの母親は専業主婦であったとか、いろんな意味でそういう家族関係になってゆくほかない時代状況があった。
それに対して経済成長後の家族においては、夫婦は共稼ぎだとか、父親は仕事人間と化していつも帰宅が遅いとか、子供も自分の部屋を持ってそこに自分専用のテレビがあるとか、そうなってくればもう一家団欒のホームドラマなど成り立たない。まあ成り立たなくてもいいのだが、そういう空間での関係の作法をホームドラマで育った親たちは知らなかった。親たちはあくまでホームドラマの一体感に執着した。そうして親たち自身の男と女としての関係が極めて不安定なものになってゆき、それが子供の心にも反映しながら一体感の家族幻想が崩壊していった。
戦後の経済成長とともに育った団塊世代を中心とする戦後世代は、男と女の関係に失敗した。家族崩壊といっても、そこからはじまっている。
内田樹のように、一家団欒のホームドラマに執着するしか能のない男が男と女の関係のなんたるかを語ろうなんてしゃらくさいのだ。「女は何を欲望するのか?」などといっても、女が結婚したり子を産んだり男にセックスをさせたりするのは、「欲望」をそぎ落としてゆく行為だともいえる。女は、「もう死んでもいい」という勢いでそういう体験に飛び込んでゆくのであり、だから「マリッジ・ブルー」とか「マタニティ・ブルー」ということが起こる。


男女平等・民主主義の戦後社会になって、男と女の関係は「絶好調」に機能するようになってきたか?
たしかに、欧米風の「男女交際」の機会は増えた。見合い結婚よりも恋愛結婚、という世の中になっていった。しかし、そういう習俗がさかんになったことの結果として、どうして男女が結婚したがらなくなり、男のセックスのポテンシャルが後退してきたのか。夫婦の関係は、戦前よりもずっと不安定になってきた。
内田樹などにいたっては、自分だってあっさり女房に逃げられたくせに「絶好調に機能している」などと軽々しく言うなよ、という話だ。「男女交際」の風潮の中で育ってきたくせに、女との関係の仕方が少しも板についていなかったから逃げられたのだろう。「女とは何か?」ということを感じ取り、驚いたりときめいたりする知性や感性がまるでなかったからだろう。この人は、ふだんの言動から推測すれば、女とはこういうものだという勝手な思い込みだけはひといちばい旺盛だが、感じ取る(気づく)能力なんかまるでない。そんな調子で女と向き合っていたら、そりゃあ逃げられるさ。「男女交際」の思想や哲学がまるで身についていない。この人は、他人に対してどうしようもなくなれなれしいところがあって、そのタッチの書きざまの巧みさで人気作家になったのだが、作家と読者の関係ならそれが武器になっても、男女の親密な関係においては、そのなれなれしさは相手を鬱陶しがらせる。なれなれしくすればするほど相手の心は離れてゆく。
戦後の日本社会において欧米風の「男女交際」の習俗は盛んになったが、その思想や哲学は身につかなかった。
欧米では、子供のときから「男女交際」の作法をあれこれ学ばされる。「レディファースト」からスーツやドレスの着方やダンスのステップまで、そうやって「男女交際」の思想や哲学が知らず知らず身についてゆく。それは、同じ村や同じ家族や同じ職場や学校等々の「仲間内」の関係ではなく、「異質な他者」との関係の作法、つまり「都市的」な男と女の関係の文化だといえるのかもしれない。
「レディファースト」の文化は、おそらく男たちによる、セックスは女に「やらせてもらう」ものだという認識から生まれてきた。まあそれが欧米風の「男女交際」の基礎であり、男女平等でもなんでもないし、仲間内のなれなれしい関係でもない。夫婦でも毎日「アイ・ラブ・ユー」というといっても、そうやって基礎的な関係の遠さを埋めているのであって、なれなれしくしているのではない。彼らは、いつ別れることになるかもしれないという関係を生きているのであり、それがネアンデルタール人以来の「離合集散」の文化の伝統なのだ。
しかしこの国の戦後の「男女交際」や「家族関係」は、「村的」ななれなれしさを目指すような風潮があった。そうやってどんどん「ラブホテル」の商売が繁盛してゆき、高校生の処女率はどんどん下がってきた。家族だって一家団欒のなれなれしさを目指すことがスローガンになり、それによってかえって夫婦や親子の一対一の関係がどんどん不安定になっていった。そうやって「別れる」という体験に対する葛藤や混乱が大きくなってきた。「男女交際」の文化が成熟している欧米人はもっとすんなりスマートに別れることができるし、戦後の日本社会は欧米の「男女交際」の習俗だけを輸入して、その文化というか思想や哲学を身につけることはできなかった。
まあ内田樹のように、「三丁目の夕日」の一家団欒が理想だといっているあいだはだめさ。そうやってけっきょく日本列島の伝統の男と女の関係までも壊してしまった。
日本列島にだって「別れる」ことの「かなしみ」を美意識にまで昇華してゆく文化の伝統がある。「無常」ということ、そうやって「あはれ」や「はかなし」や「わび」や「さび」の文化を育ててきたのであり、それが人と人の関係の作法にもなってきた。
なのに現在のこの国における人と人の関係のなれなれしさにともなう「別れる」ということに対する耐えられなさとその思想や哲学の貧困ぶりはいったいなんなのか。
何が「絶好調に機能」しているものか。なれなれしくじゃれ合っていればいいというものでもない。それはそうやって意地汚く支配し合っていることでもある。そうやって戦後の男と女の関係は衰弱してきた。