雨夜の品定め・源氏物語の男と女3


雨の夜の退屈まぎれに貴族の男たちが集まって女談義をする。物語のはじまりのこの場面で作者は、最上層の貴族の女よりもその下の階層の女、すなわち「中の品」の女がいちばんだとある男に語らせています。そういう女のほうが、貴族のただおっとりしているだけの女よりも個性や豊かな心映えを持っている、というわけです。
そして若い光源氏は、なるほどそうかと思う。彼の実の母である桐壺更衣も、そういう階層の女でありながら父である天皇からもっとも深く寵愛された。
まあ、紫式部自身がそういう階層の女だったわけで、吉本隆明はこの「中の品」談義を紫式部の自己主張だといっているのだが、たぶんそういうことじゃない。
吉本は、この「中の品」談義には「作者の自己像や自己主張の礼賛が流れている」という。
ほんとに、どうしてこんな下品で卑しいものの見方をするのだろう。このていどの分析で人より深いところを読んでいるつもりなのだろうか。
紫式部は、ときの最高権力者である藤原道長の娘の教育係として宮廷内にいた女です。だったら貴族の男たちの声はいくらでも入ってきていたはずで、じっさいに「中の品」談義が交わされていて、その声を拾い上げただけでしょう。
狭い貴族の世界にいたら、貴族の女を相手にするのはなんだか近親相姦的で意欲がわかない、ということもあったのでしょう。庶民が、隣村の女のほうがそそられる、といっているのと一緒です。どこでもいつの時代でも男たちはそういう話をしていますよ。
現在の平成天皇も皇太子も、幼いころからの顔見知りである貴族・皇族の女ではなく、いわば「中の品」の階層の女を奥さんにしている。
たしかにそういう女のほうが話をして面白いし、いろんな興味深い情趣を持っているということもあるのでしょう。
男は、男を置き去りにしている女のあとを追いかける。
男を置き去りにしている部分を持っている女でないとつまらない。
ただの床の間の飾り物じゃないですからね。



光源氏天皇の子供なのだから「上の品」の階層の男です。それが「中の品」の女に寄ってゆくということは、近親相姦願望ではとうぜんないし、ひとまず「身分が違うから」と女から拒否されねばならないということです。この物語の出だしに登場してくる「中の品」の階層の女である「空蝉」も「夕顔」も、光源氏を拒否し怖がっている女として描かれている。
とにかく紫式部は、光源氏を、絶世の美男でありながら女から拒否される運命を背負った男として造形していった。まず、そこからこの物語がはじまっている。こういう男を拒否してこそ、男を拒否しようとする女の本性がより鮮やかに浮かび上がる。そしてそれをそれらしく書くためには、物語作者としてよほどの技量が必要になる。
そこで紫式部が描いているのはもう、女の性格とか情念というようなものではなく、そのようなものを失った(あるいは捨てた)女の深層なのでしょう。女は根源において男を拒否している、ということ。
吉本隆明が語っているのは、どこまでいってもしょせんは世間的通俗的な心理学の世界です。彼は、「中の品」の階層の女である「夕顔」や「空蝉」が源氏にたいして見せる拒否は、そういう身分の女の「倫理」だという。
そういうことじゃないんだなあ。
女は、根源においてこの生からはぐれてしまっている存在なのでしょう。だから、男のとりこになってこの生に閉じ込められることを本能的に怖がる。
これは、「もののあはれ」の問題でもあります。
「あはれ」という言葉は、源氏物語の中で1000回以上出てきます。それくらい作者にとっては身にしみついた言葉です。
もののあはれ」とは、ようするにこの生からはぐれてしまったところからこの世界のものごとを見ることによって生まれてくる感慨や認識のことです。
源氏物語の女たちはみな、この世界からはぐれて「もののあはれ」を見ている存在として描かれている。
もちろん光源氏だって、「もののあはれ」を知っている男です。しかし吉本隆明のように、いかにも現世的な「近親相姦願望にとりつかれた男」だと規定してしまったら、「あはれ」など語れるはずがありません。
源氏物語を読むことは、紫式部が語る「もの」と「あはれ」を読むことでもある。
「もの」とは、わが身にまとわりついてくる現世のものごとのこと。そして「あはれ」とは、それらを洗い流して消えてゆくこと。人の心はそのようにあやなして流れてゆくというところをこの物語は描いている。
源氏物語はひとまず風俗小説なのだけれど、ただの風俗小説ではすまない人間性の普遍に届いている。女は存在そのものにおいてすでに人間性の普遍に届いているし、男はそれをけんめいに追いかける。



源氏物語の女たちはみな、最初に男から言い寄られたときは必ず拒否したり怖がったりします。それを吉本は「妻問い婚や招婿婚の時代の女性たちの情動」あるいは「作者個人の男性に抱いていた情念を象徴するもの」だといっているのだが、どちらも違うのですよね。
こういうステレオタイプで薄っぺらな解釈しかできないところが吉本の限界です。
そしてそれを口当たりよく解説されてよろこび安心してゆくのが、吉本シンパの生理というか生態でしょうか。教祖様だけの問題じゃない、たぶん、自意識がむやみに肥大化してゆく戦後社会の問題でもある。彼らにとっては自意識の安定がいちばんだから、自意識が揺らぐような解釈はけっしてしないし、受け入れない。教祖様をはじめとしてどいつもこいつもプライドだけはひといちばい高いくせに、考えていることの基礎はみなステレオタイプなのです。実験的で危ない論理に分け入ってゆく思考力や想像力など彼らにはない。
しかしまあ、なんと安っぽい解釈だろうか。
べつにそんな婚姻制度以前に、生き物のメスはオスを拒否する本能を持っている、という普遍性の問題がある。メスが拒否する存在だからこそ、オスにはメスに寄ってゆこうとする衝動がはたらく。そういう関係によって生き物のオスとメスの世界が成り立っている。そうやって生き物の雌雄の関係が進化してきた。人類がその進化の頂点にいるのなら、人間の女こそもっともラディカルに男を拒否している存在のはずです。
吉本のようなナルシストは女にも男に寄ってゆこうとする衝動があると思い込んでいるらしいが、そんな予定調和の関係があるのなら、男の寄ってゆこうとする衝動はそれほど強くなくてもかまわない。
光源氏ほどの美貌の貴公子なら、もういくらでも女が寄ってきて、女に寄ってゆこうとする意欲なんか湧いてこない。しかし実際には、いつだっていやがる女にけんめいに擦り寄っていっていたのです。
生き物の雌雄には、先験的にたがいに寄ってゆこうとする衝動がはたらいているのか。そうじゃない。オスが一方的に寄ってゆくことの上に成り立っている。精子がけんめいに卵子にむかって泳いでゆくように、です。
男のペニスが女の膣の中に入ってゆくためには、ペニスは勃起はしなくていけない。より他愛なくダイナミックに勃起してゆくためには、一方的にオスが寄ってゆくという関係になっているほうが有効です。
人間は猿と違って一年中発情している存在です。それはつまり、人間の女は猿のメスよりももっと深くラディカルに男を拒否しているということを意味するのです。そうしないと男の他愛ない勃起が育たないというか、そうだったから男の他愛ない勃起が育ってきた。
女も寄ってゆけば男と女の関係は豊かになるとか、そんな単純なものじゃない。
そして人間の女は、心が生きてあることからはぐれて非日常の世界に入り込んでしまう傾向を持っている。これはもう、いつの時代の女もそうなのであり、そういう心が日常世界をうろうろしている男を拒否する。つまり女が男を拒否するのは、女の原初的な生態であると同時に女としての究極の知性や感性でもある、ということです。
女は、男を拒否することによって男を引き寄せている。そこに、女の羞恥と困惑と嫌悪と狂おしさがある。紫式部はもう、そういう女の心の襞を微細に鮮やかに描いて見せた。



貴族の女が、寄ってくる貴族の男をおっとりと構えて受け容れる。それだけの関係ではつまらない。男が寄ってくるということに対して深く豊かに反応できる女が面白い。「雨夜の品定め」での貴族の男たちはそう語り合い、そんな噂を耳にしていた紫式部は、それを物語に取り入れつつ、そこに男と女の関係の根源的な不条理をにじませていった。しかも、思春期の少女の読者にもわかるかたちで。
そんな並外れた才能の物語作者を生み出すような時代の情況があったのだろうが、男たちのその「中の品」に向かう趣味は、吉本のいうような「妻問い婚の女系社会だったから」というだけのことではない。妻問い婚なんか、縄文以来何千年も続いたこの国の習俗だったのです。何も平安時代前期固有の情況だったのではない。
その「中の品」談義は「受領層の出身である紫式部の自己主張でもある」などというゲスの根性丸出しのことをもしも紫式部にいったら、鼻でせせら笑われるだけでしょう。
この本の中で吉本は、終始「妻問い婚の母系社会だったから」という言い方を繰り返しています。そういう通俗的な思考しかできないくせに人間通を気取って悦に入ってやがる。
いや僕は、それほど大それたことをいっているのではない。紫式部の気持ちになってみる、という態度はこのナルシストにはできないし、なったつもりでもじつは作者を自分の観念世界の中に収めて納得しているだけだ、といいたいのです。そういう虫のいい予定調和の思考を、吉本と吉本シンパが共有しながらひとつのコミュニティをつくっている。こんな薄っぺらで通俗的なコミュニティが自然消滅しないかぎり、戦後は終わらない。
たぶん、源氏物語がにじませている男と女の関係の不条理は、思春期の少女がいちばんよくわかるのでしょうね。彼女らは、その越えるに越えがたい川の前で立ち止まり、途方に暮れている。そしてそれでも女は、やがてその川を越えてゆく。
なんにしても、まめな自己撞着が習性の大人のおっさんにわかる世界ではない。彼らは、女がこの生からもはぐれてどこかに行ってしまうということがどうしてもわからない。そんなことがあるとすれば妻問い婚の制度のせいだ、というていどにしか理解できない。女は母のような慈愛を男に対して抱いてるはずだ、と思いたがっている。そうでなければ男と女の関係など成り立たない、という。
だいいち、妻問い婚であるということは、招婿婚すなわち女が男を招き入れる、ということでもあるのですよ。しかし源氏物語の女たちは、そういう「招き入れる」というようなことはいっさいせず、つねに拒否したり怖がったりしていたのです。もともとそうならない制度として妻問い婚・招婿婚が生まれ機能してきたのだが、平安時代の宮廷の女たちはもう、どんどん敏感になってゆき、そうした制度を置き去りにした心模様になっていった。
まあ、制度が疲弊して男と女の関係の本質が露出してきた、というべき情況だった。
女は「途方に暮れる」というかたちで男を受け容れている。それが、根源的なオスとメスの関係であり、究極の男と女の関係でもある。たぶん源氏物語の世界観や人間観はそういう振幅を持っているのであり、それが平安時代から際立ってきた「無常」のかたちなのだろうと思えます。
べつに制度の上に成り立った男と女の関係を描いているのではない。紫式部はもう、もっと根源的普遍的な男と女の関係の不条理を描いて見せたのです。



まあ平安時代の貴族の世界なのだから、「中の品」談義は、女に不自由している男たちの会話ではありません。男と女の関係に退屈している男たちなのです。妻問いしていって拒否されたり怖がられたりするくらいの方が面白いし、そういう女を嫁にするほうが退屈しないですむ、といっているのです。
そのころの宮廷世界の男と女の関係はもう、すっかり退屈なものになっていた、ということでしょうか。権力がほんの少数の人間たちだけで占有され、その姻戚関係づくりの結果として男と女の関係もどんどん近親相姦的になっていった。彼らは、そういう予定調和の関係に倦んでいた。
だから、「中の品」がいいということにもなっていった。
そして女たちの心は、男からも世の中からも自分が生きてあるということからもはぐれていった。
もはや、万葉集のような古代のおおらかさはなかった。
そして時代から負った傷は、女たちの方がもっと深かった。
おそらく紫式部は、そのような時代の空気を誰よりも鋭敏にとらえながらこの物語を書いていったのでしょう。
男も女も、越えられない川を越えようとして焦ったり受け容れたりしている。「雨夜の品定め」はさりげなく挿入されたエピソードに過ぎないが、そのとき作者はもう男と女の関係の深淵を見通していた。
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