男を拒絶する・源氏物語の男と女2

メールのページがうまく開けなくなってしまいました。
とりあえず、ここのコメント欄に返信を書かせていただきます。ごめんなさい。

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源氏物語に登場してくる女たちはみな男を拒否しようとする傾向を持っていて、男を受け入れた瞬間から女は衰弱してゆく、というパターンになっています。
男と女のあいだには「断絶」があり、女が男を拒否する存在だからこそ、男はけんめいに寄ってゆこうとする。そこに男と女の関係の普遍的な真実があるのかもしれない。
近親相姦願望などという近代意識なんか、ひとまずどうでもいいのですよ。
藤壷だって、母親としてというより、女として光源氏を拒んでいた。べつに血がつながった母と子であったわけではないのだし。そして妊娠させられたことによって、自分の前世からの罪業の深さのようなものを意識するようになっていった。
源氏物語の登場人物を追いつめるのはいつだってこのような「オカルト=もののけ」であり、それはつねに愛欲の結果のことであって、最初の段階で男を拒む女の心のあやというのは、もっと本質的なところで描かれているはずです。
光源氏だって、藤壷を女として見ているのであって、母親を慕うような気持ちで言い寄っていったのではない。「こんな完璧な女はいない」というような言い方をしています。ひとまず彼にとっての理想の女だったらしい。べつに母親だからではない。光源氏はもう、藤壷の顔かたちだけでなく、そのたたずまいの美しさみたいなものに惹かれていったらしい。それが、平安時代の美意識だったのでしょうね。
母親に女を見たのではなく、美しい女がたまたま母親として存在していたというだけのこと、母親だから好きになったのじゃない。
男は女のどこに惹かれるのかといえば、男を拒否し男を置き去りにしている気配に惹かれる。光源氏にとっての藤壷は、そういう気配をどの女よりも鮮やかに漂わせていた。そして彼は、そういう気配に誰よりも敏感な男だったのであり、そこに彼の色好みの悲劇性があった。
源氏物語の舞台は宮廷内の狭い世界のことだからとうぜん近親相姦的な関係にもなるのだが、それ忘れて色事に及んでゆく世界でもあった。近親相姦願望でエロスの衝動が発現するわけではない。紫式部は、吉本が考えるよりももっと深い男と女の関係の深淵を見ていた。平安時代の宮廷社会は、女がそういう深淵を見てしまう世界だった。



戦後社会は、核家族化が進んだこともあって、母子関係が近くなってゆきました。
子供の心が母親に囲い込まれてしまっている状態、それもひとつの近親相姦願望のかたちでしょうか。
吉本隆明にとっての奥さんは、母親のような存在だったのでしょうか。だから、もっとも本質的普遍的な男と女の関係を含んでいる、といいいたいのでしょうか。女に愛される満足、近親相姦願望の男が欲望している果実はそのことのはずです。母親は自分を愛してくれる、だから自分も母親を愛してその関係にまどろんでゆきたい。一種のナルシズム(自己撞着)なのでしょうね。
戦後社会は、男たちにナルシズムと近親相姦願望の無意識を植えつけていった。そして今、なんだか男たちの性衝動が衰弱してきている。
ナルシズムの強い男は、自分は女に愛されるはずだ、女は男を愛する存在であるはずだ、という思い込みが強い。その思いを延長していって近親相姦願望にたどり着く。まあこれが吉本の女性観で、一方紫式部は、女はそんな生き物ではない、女は男を拒否している、という。源氏物語は、男を拒否しながら衰弱してゆく女を描いている。
たぶん普遍的な男と女の関係においては、「そんなにやりたいのならやらせてあげるけど、女に愛されることなんか当てにしてくれるな」という気持ちが女にはあるのでしょうね。
吉本は、この物語は光源氏の華麗な恋模様としてはじまっている、というが、そうじゃない。この物語は最初から男と出会った女の受難を描いている。そして同時代の宮廷の子女たちに熱烈に愛読されたというのなら、読者はそこに引き寄せられていったのでしょう。
まあ思春期の少女は「いつかはやらせてあげるしかない」という思いを抱えているし、大人の女は、やらせてあげることによって生じるややこしい問題をいろいろと抱えて生きている。
女にセックスがしたい気持ちがないとはいわないが、この世にセックスの関係がなければどんなにさっぱりすることだろう、という思いはどの女の中にもあるはずです。
だから紫式部は、光源氏のエロス(性衝動)に不吉な影を負わせた。男のエロス(性衝動)の根源は、近親相姦願望という、愛し愛される予定調和の物語として発動するのではない。そんな調和の不可能性を飛び越えようとする衝動として発動する。



吉本と違って光源氏は、女に愛されることなんか当てにしていない。まあその時代の宮廷社会においては、男がいつもけんめいに言い寄ってゆき、女は困惑して身を堅くする、という関係だったらしい。
近親相姦願望は、反エロスというのか、ひとつのインポテンツなのでしょう。ようするに共生願望という病気なのだというか、そういう共生状態の中でまどろんでいようとするというのか、つまり「断絶」を飛び越えてゆくときめき=衝動を失っている状態でしょう。
吉本の批評には、この世界やテキストを自分の観念世界の範囲内に収めてしまおうとする視線で書かれている。そうやって予定調和の世界にまどろんでゆこうとするのが近親相姦願望なのだが、はたして男と女の関係は、吉本のいうような「たがいに惹かれあう」予定調和の世界だろうか。
紫式部は、最初から光源氏を、男と女の関係に挫折し続ける男として描いている。生まれてすぐに母親と死別するということが、すでにもう挫折のはじまりだった。近親相姦願望の男を描きたかったのではない。女から拒否される運命の男を描きたかった。
源氏物語の主人公はとうぜん光源氏であるのだろうが、紫式部としては女の受難を書きたかったのであり、女は根源において男を拒否している存在であるというところを書きたかった。吉本はそのことをプライドの高い未亡人である紫式部の自尊心や自己主張や意地だというのだが、それだけだったらこの物語が宮廷の子女の多くに歓迎され、現代まで愛読され続けてくることもなかったでしょう。



女は、男が希望的観測を膨らませるほどには、男なんか愛していない。母性も持っていない。女の愛や母性を当てにしている男が近親相姦願望を持つのでしょう。そんなものは、エロス=性衝動とは何の関係もないし、むしろそれを衰弱させる要因になる。
光源氏は、つねに女に拒否される色好みの男であり、生まれてすぐに母親と死別した、ということ自体が、すでに女に拒否されている体験のはずです。母性なんか知らない男なのです。そうして深くかかわった女はみな、さっさと死んでしまうか出家したりしてしまう。彼は、あれこれたくさんの女をものにして生きてきたが、それでもつねに運命的に女から拒否されてきた。拒否されてきたからこそ、女に寄ってゆこうとする衝動を募らせていった。
平安時代は、都が奈良盆地から京都に移ったこともあって、ひとまず古代のおおらかさが失われていった時代だった。
この物語は光源氏とその息子たちという二世代の男たちの色模様を書いているのだけれど、誰も野放図な色好みとしては生きられなかったのです。
とにかく物語の起伏はいろいろあろうと、紫式部としては、女はもう避けがたく男すらも置き去りにしながらこの生からはぐれていってしまう存在である、ということを一貫して書いているのだと思えます。おそらくそこに、この物語の普遍性があるのでしょう。
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