もののけ・源氏物語の男と女4


源氏物語の女たちはもう、男も世の中も何より自分が生きてあるということそれ自体を拒否するように衰弱していった。
それはたぶん、世界中の女の普遍的な無意識であるはずです。
しかし、なぜそんなにもかんたんに心と体が連動するようにして衰弱してゆかねばならないのか。
ただの物語だけの話じゃない。「病は気から」というが、平安時代の宮廷の人間たちはみな、そうやって体ごと衰弱していってしまう不安を抱えていたのでしょう。それほどに過敏な心に覆われた世界だった。
「もの」とは、「まとわりつく」というニュアンスの言葉です。
男たちの政争の場においては、屠り去ったはずの政敵の悪霊・怨霊(=もののけ)にとりつかれて病気になるという話はすでに古代からはじまっていたはずです。それは、そうやって病気になっていった権力者たちの自意識と、まわりの宗教者(祈祷者)の妄想世界がつくり上げたものでしょう。
四方を荒海に囲まれた日本列島は、異民族との軋轢のない歴史を歩んできた。そんな風土から生まれてきた権力社会が軍隊を持てばもう、民衆を異民族の脅威から守るという義務がないまま一方的に民衆を支配し搾取してゆくことができた。
大和朝廷内の権力闘争は、発生当初からもう、民衆を置き去りにして好き勝手にやりたい放題やってきたのです。聖徳太子が十七条の憲法で「和をもって尊しとなす」などといっても、権力社会ではそういわないといけないくらい好き勝手な権力闘争ばかりしていたからでしょう。民衆は字なんか読めなかったのだから、それは民衆に向かって発せられたのではなく、権力社会の秩序をつくろうとして発せられたのでしょう
大化の改新壬申の乱しかり、彼らはもう、権力を争って殺し合うことばかりしていた。次期天皇候補なんか、次々に殺されていった。そんな社会であったのなら、政敵の怨霊(もののけ)にまとわりつかれるということなど、大和朝廷の歴史のはじめからの伝統だったのです。そうしてその強迫観念が、平安時代の貴族社会で極まっていった。そこではもう、男も女も「もののけ」の気配にまとわりつかれていた。



そういう自意識の妄想にまとわりつかれて精神が衰弱し、それとともに体も衰弱してしてゆく。あるいは、病気になったことをもののけのせいだということに解釈してますます心身が衰弱してゆく。平安時代はもう、どんどんその悪循環に陥ってゆき、わが世の春を謳歌していたはずの藤原道長でさえもののけに悩まされていた。
であれば、そうした騒ぎのそばにいた女たちの神経だって、どんどん過敏になっていったはずです。
もののけ」といったって、平安時代になればもう、男たちの世界の政敵だけのことではすまなかった。とうぜん男女のあいだの三角関係の場においても意識されるようになってゆく。女たちだって、「もののけ」から無縁でいられるはずがない。
何はともあれ「もの」というやまとことばがあったということは、日本人はもともと何かにまとわりつかれることに対して過敏だったということを意味します。
「もの」とは、「まとわりつく」というニュアンスの言葉です。
平安時代はもう、「物憂し」とか「ものうらめし」とか「物忌み」とか「ものくるほし」とか「ものつつまし」とか「ものまめやか」とか、もう無数の「もの」がつく言葉が交わされていた。「憂し」という心にまとわりつかれているから「物憂し」という。ほかの言葉もすべて「もの=まとわりつく」というニュアンスの上に成り立っている。
宮廷の女たちは、体に穢れがまとわりついてきたからしばらくお寺に籠ってくるとか、そのまま出家してしまうとか、そういうことは少しも珍しいことではなかった。
そういう時代に源氏物語が書かれたわけで、紫式部はこの「もの」という言葉の使い方もじつに多彩だった。



で、吉本隆明は、「(源氏物語における)物の怪そのものに対する理解、その類型についても、同時代の識知をはるかに超えるものだった」と語っています。
僕はもう、こういう言い方をされると、ものすごく胸くそ悪くなります。
紫式部は、「同時代の識知」の上に書いていっただけです。だからこそ同時代の子女に受け入れられていった。
まったく吉本は、何をくだらないことをいっているのだろう。この人はすぐこういう言い方をしたがる。ようするに「俺のオリジナルの言説が時代をリードしている」というぬぼれというか自意識満々だから、なんでかんでも「世の中はリーダーに煽動・先導されて動いている」と解釈したがるわけです。たとえばミニスカートの流行はひとりのデザイナーのオリジナルな発想によってつくられたとか、そんなこともいっています。そんなもの、ミニスカートが流行るような時代の情況があったわけじゃないですか。
内田樹にしてもそうだが、こういう連中は、何もかもオピニオンリーダーである自分の自我の安定や満足に向かって解釈したがる。もう無意識のうちに、そんなことばかりしている。いつだっておのれのナルシズムを満足させようとする書きざまばかりしてくる。ほんとにむかつくし、下品で薄汚いやつらだと思います。
女が追いつめられてゆくさまは妻問い・招婿婚のせいだとかたづけて、こういうことだけは「すぐれた洞察」だ評価する。そういう洞察以上に、女が追いつめられてゆく心のあやを紫式部が文章として物語としてどう表現していったかということを考えてみることこそ大切なのに、やつらときたら、ナルシズムを満足させようとして勝手な解釈ばかりしている。つまり、紫式部の身になってものを考えるということができない。いい気になって「俺様の分析」ばかり吹きまくっていやがる。



女の追いつめられてゆく心は「あはれ」の感慨にある。
吉本は、源氏物語を「宮廷世界の裏面についた男女のあいだの<あわれ>を緻密に描きだした物語」だと規定しているのだが、そうやって男と女が別れたり死んでいったりすることはこの物語のあくまで表層的な道具立てであって、作者が描きだしたいちばんのものは「あわれ」を思う心模様だった。
吉本のように白々しく「男女のあいだのあわれ」と品定めして眺めていられるなら気楽だが、少なくと同時代の宮廷の子女たちはもう、そこに描かれた女たちの「あはれを思う心」がひたひたと胸にしみてくるのを感じるながら読んでいたはずです。
源氏物語にそういう新しいもののけの概念が提出されているのだとすれば、少なくとも女たちはすでにそういう意識になっていたということでしょう。坊主や男たちはなんでもかんでも政争の悪霊や怨霊をイメージしてしまうが、女たちはみずからの世界の衰弱を感じていた。それを、紫式部が物語的に掬い上げて見せた。
そりゃあ、天皇のまわりの世界を歴史文書として記述するときの憑依的な衰弱の話はどうしても政争に結びつけて解釈されてゆくのだろうが、そのまわりの生活世界では、源氏物語に出てくるようなもののけ話はいくらでもあったはずです。ただ、そうしたエピソードを物語として昇華してゆくことは紫式部以外の誰もできなかったということでしょう。
紫式部にしたら、そういう世の中になっていたからそう書いただけですよ。源氏物語の中の「もののけ」の話は、べつに彼女のオリジナルな発想でも、物語の中だけのことでもない。そういう情況がすでにあったからこそ、多くの女の共感を呼んだのです。たとえば、男に捨てられた女が自殺したその同じ時間に女の亡霊が男の枕元にあらわれたとか、そんな話はもうごまんとあったのです。ごまんとあったからこそ、それを美しく普遍性を持った話として物語に中に定着させるということは並みの手腕ではできない。ありふれたどこかで聞いたようなもののけ騒ぎではつまらないし、ありえない話であってもつまらない。虚実の皮膜というのか、それを物語として昇華してゆこうとする紫式部には、吉本のようなくそあつかましい自己撞着なんかなかった。ただの作り話だといわれようと、じっさいにあった話を借りてきたといわれようと、どちらでもよかった。
とにかくそこに、その時代を生きた宮廷人の心模様が鮮やかに描写されている。
物語り作者としての紫式部の真骨頂は、オリジナルを見せびらかすことではなく、時代のさまを人間の普遍性に向かって美しく鮮やかに浮かび上がらせることにあった。
平安時代の宮廷では、政争の世界だけでなく、色恋の世界であろうと、もののけにおびえながら心身を衰弱させてゆく時代のさまがあった。しかし誰も、紫式部ほどには、生きてあることもできなくなってしまうくらいの「あはれ」の感慨を美しく普遍的に表現してみせることはできなかった。



平安時代の宮廷人は、はなぜそんなにももののけに追いつめられていたのか。
迷信深かったといえばまあそういうことだが、そんなシェークスピアの「リア王」や「マクベス」のような物語が日本列島ではすでに1000年前に生まれていたということは、何を意味するのでしょう。
古代人は迷信深かったというのは嘘で、シェークスピアの物語は、近代人のほうがずっと迷信深いということを証明している。厳密にいえば、いつの時代も権力社会はとても迷信深い、ということでしょう。その迷信深さが民衆の世界にも下りてきて、はじめてシェークスピアが説得力を持ってくる。
源氏物語も、はじめは宮廷世界だけで読まれていたが、近世になると庶民の子女も読むようになっていった。
源氏物語もののけの話はひどく仏教的なのだが、仏教伝以来からたった4、5百年しか経っていないのです。日本人はそれほどに他愛なく信じ込みやすい民族で、宮廷人はもう、すっかり迷信にはまり込んでいた。都が、広々として空気が乾いた奈良盆地から狭く湿潤な空気の京都に移って、その迷信深さはいっそう加速した。
そんなすっかり迷信に追いつめられてしまっている男たちをそばで眺めている女たちは、どんな気持ちだったでしょう。自分たちも政争に参加しようと思うはずがない。男たちのそういう世界とは別の、花鳥風月の自然と親しむ歌の世界に入ってゆき、そのためのかな文字も生まれてきた。それは、男の世界に対する拒否反応でもあったはずです。
しかしそれでも、男たちの迷信深さが伝染してくることから逃れることはできなかった。けっきょく男と女の世界なのだから。
そして女は、男よりもずっと生きてあることに対する嘆きを深く抱えている存在だから、いっそうラディカルに追いつめられ衰弱していってしまう。政治のことには無縁でも、男と女の関係の世界で追いつめられてしまう。
平安時代の宮廷の女たちほど男の世界から逃れようとしていた存在もいないのに、彼女たちほど男の世界の病理を強くこうむったものたちもいなかった。
女たちはどんどん追いつめられ衰弱していった。十二単というファッションが生まれてきたのも、それほどに深く心身ともに追いつめられていたからでしょう。
源氏物語は、そういう世界を描いている。



もののけとは心にまとわりついてくるもののことであり、人の心がもののけに追いつめられることはいつの時代にも起きていることです。「悩む」とは、心が何かにまとわりつかれている現象です。そして「意志」とか「欲望」を持って「努力」するということもまた、何かにまとわりつきまとわりつかれている状態であり、そこから心が病んでいったり知性や感性が鈍磨していったりする場合も多い。言い換えれば、そうやって心が衰弱し鈍磨しているから「意志」や「欲望」をたぎらせようとする。現代人もまた、平安時代の宮廷の男たちのように心が病んでいる。
人は、心が病むと、体も衰弱してくる。平安時代の宮廷では、そういうことがなぜかあからさまに起きていて、その迷信を信じやすい心模様は、現代社会を先取りするものだったともいえる。
まとわりつく「もの」と、消えてゆく「あはれ」、源氏物語ほど「もの」や「あはれ」という言葉を豊かに表現しえた文学はないし、それはそのまま平安時代の宮廷の女たちの感性でもあった。
女たちは、まとわりつく「もの」に追いつめられていたし、それゆえ「消えてゆく」ことに対する意識も切実だった。
女にとって男は、まとわりつく「もの」です。これは、男が一年中発情している人類普遍の男と女の関係の無意識だろうと思えます。そしてそこから逃れて消えてゆこうとする衝動もまた女の普遍性=自然としてそなわっており、それが「あはれ」の意識です。
平安時代の女たちは、男に言い寄られることだけでなく、それにともなって「迷信=もののけ」に追いつめられる男たちの意識にもまとわりつかれていた。男たちの政争とは無縁でいても、男と女が関係を結ぶ世界であるかぎり、その意識からは逃れられなかった。
平安時代の宮廷は、「もののけ」にまとわりつかれている世界だった。その空気に浸されながら女たちは、「あはれ」の意識も深くしていった。まあ、男も女も「あはれ=無常」の意識を持つことによってしかその世界を生きるすべはなかったはずだが、男たちはそうした意識が薄く、なおも政争にのめりこんだまま右往左往していた。だから紫式部は、「もののあはれ」を知らない男をどこかで軽蔑していた。そういう下心がふと顔をのぞかせる書きざまはいたるところにあらわれているし、それはもうそのころの女たちが共有している意識でもあった。
とくに思春期の少女たちは、大人の男たちのそうした通俗性に対する拒否反応を強く持っていた。そしてこれは、今どきのギャルの「オヤジはウザイ」という感性と同じのはずです。
とにかく、平安時代の宮廷の女たちにとっては男そのものが「もののけ」だったともいえる。だから、源氏物語の女たちは、最初に男に寄ってこられたとき、例外なく拒否したり怖がったりするという反応を示した。
いやたぶん、普遍的に女にとっての男は「もののけ」なのでしょう。
断っておくが、僕はべつにひといちばいぶさいくな顔かたちをしているわけでもなんでもないですよ。それでも、自分が女にとっての「もののけ」だという意識はいつもありました。たいていの男は、どこかしらでそれを意識している。光源氏だって、それを意識するほかない存在として描かれている。
吉本隆明内田樹のような自己撞着の強い男だけが、自分は女から愛されてしかるべき存在だと思いたがっている。
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