「タガメ女」だって?・ここだけの女性論10


専業主婦の座を狙って男をつかまえにかかる、いまどきの強欲な女のことを「タガメ女」だというのだそうです。
タガメとは、田んぼの蛙をつかまえて血を吸い尽くしてしまう黒くて大きな昆虫のことです。
いまや、大きな企業の独身男性や亭主たちが次々に「タガメ女」のえじきになったり吸い尽くされていったりしているのだとか。そうして中には、ノイローゼになったり自殺したりする男もいるのだとか。
そういう女たちにとって今どきの女性論は、いい教則本です。自分の見せびらかし方や男のたらしこみ方を微に入り細に入り教えてくれている。そして、つかまえたもの勝ちだという自己正当化の理屈というか思想もちゃんとフォローしてくれる。
まあ理屈や思想さえちゃんと確立できれば、中味の心の下品さなんか問題じゃない。他人がなんといおうと、自分自身が私はお上品な女だと思い込んでいるし、相手の男もそう見てくれている。それで問題は何もない。「品性」などというものは心の中味でも生まれつきのものでもない、彼女らはそれを作為的につくることができるものだと思っている。
男をだますことなんか、ちょろいものです。
女が本気になれば、たいていの男はだませる。
本気になれる女となれない女がいるだけです。
たぶん、女の自然は、そんな気にはなれない。自然を失って、そんな気になってゆく。才能なんでしょうね。なれる女は、最初からそういう下品な根性というか衝動を持っている。
下品なことも才能です。そういう下品な女を大量発生させる社会や時代の構造があるのでしょう。あんな下品な幸せ自慢やいい女自慢の女性論がはびこっている時代です。いいのか悪いのか、僕にはわかりません。とにかくご当人たちはお上品なつもりでいるのだから、つける薬もない。



タガメ女」になれる女と、なれない女がいる。それはもう、育ってきた家庭環境とか社会環境とか本人の資質とか、まあいろんな要素が総合されてゆくのでしょう。
へえ、そんな女がいるんだ……と思うだけです。
今どきの女たちのオピニオンリーダーである上野千鶴子林真理子タガメ女よりもお上品だというわけでもないですからね。
上品というのは、顔かたちと化粧とファッションで決まると思っている女はいっぱいいるのだろうし、会話や行動や思想(考え方)で決まるといったって同じです。ようするに、意図してつくることができるものだと思っている。じつは、それこそが下品なことなのだけれど。
自分をつくろうとすることの下品さがある。
普通の女だろうとインテリ女だろうと、主婦だろうと独身の腐女子だろうと、男だろうと女だろうと、自分をまさぐり自分をつくろうとすることそれ自体が下品なことだし、戦後社会は、日本人をそうやってどんどん下品にさせていった。
外見だろうと心の中味だろうと、つくろうとすることそれ自体が下品なことでしょう。
外見だろうと心の中味だろうと、つくろうとしなくても、生きていれば人や世界に反応していろいろとあらわれ変化してゆくものであるはずです。
べつに自分でつくろうとしなくても、生きてさえいれば自然状態においてつくられてゆく顔や心や行動がある。
べつにつくろうとしなければ顔つきやセンスや心が停滞してしまうわけではない。生きていれば、人の心は動いてゆくようにできている。



自分をつくりまくっている内田樹上野千鶴子の思考やセンスや行動や表情が深くて確かで上品で美しいというわけでもない。思考やセンスや行動や表情をつくろうとすること自体が下品なのでしょう。そんなものはすべて、生きていれば自然にあらわれてくるし、変化してゆくものでしょう。
生きていればいい、何をつくる必要があろうか。生きていれば、何かが生まれ、何かが起こる。
いいかえれば、われわれ現代人は、生きてあるというそれだけで豊かな何かが生まれてくるような存在感(=品性と輝き)をすでに失っている、ということでしょうか。
だから、自分をつくらないといけなくなるし、自分をつくろうとばかりしているから、そういう自然な生の豊かさや美しさを失ってしまう。
自分をつくるなんて、下品なことだし、みすぼらしい生のはたらきです。そんなところからは、美しく豊かな表情やセンス(=品性と輝き)も、深く確かな思考も生まれてこない。
「つくる」ということは、この生やこの世界に豊かに反応するという人間であることの「自然」を失い「品性」を失うということなのですよね。
べつにインテリやセレブだからどうというわけでもないが、下品なインテリやセレブはいっぱいいる。知性だろうと感性だろうと表情だろうと行動だろうと生き方だろうと、つくりものじみているのは下品でみすぼらしい。
人の心は、ラグジュアリー(豪華・贅沢)を目指すだけではすまない。つくりものじみたラグジュアリーの下品さとみすぼらしさがある。
人の心や表情というか存在感の品性や輝きというのは、それだけではすまない。まあ現代社会においては、そういう品性や輝きよりもつくりもののラグジュアリーが価値になってしまっているのだけれど、人間であればどうしてもそれだけではすまない。
人間の歴史は、つくりもののラグジュアリーすなわち政治や経済だけで動いてきたのではない。それだけではすまない、というところで動いてきた。
下品というのは、いやなものです。人間は、避けがたく下品なものに幻滅してしまう。鈍感になればつくりものの思考や行動や人生を生きることができるのだが、鈍感であり続けるのも、それはそれでしんどいことでしょう。年をとれば取るほどつくる能力が衰えてゆくのだから。



アメリカ人がどんなにラグジュアリーな暮らしを手に入れても、どこかでヨーロッパ人にコンプレックスを抱いているし、ヨーロッパ人もまたアメリカ人を軽蔑するところがある。
歴史と伝統が持つ品性の輝きというのがあるのでしょうか。
アメリカは、いったんヨーロッパの歴史と伝統をかなぐり捨てて国をつくってゆき、ラグジュアリー(経済繁栄)を手に入れた。たしかにラグジュアリーなのだけれど、どこか下品です。
なんだかそれは、「タガメ女」が大量増殖してきたこの国の戦後社会とそっくりです。
もしも日本の女ならではの品性と輝きというのがあるとすれば、日本列島の歴史と伝統の上に成り立っているのでしょう。
日本列島の男と女の関係の歴史は、一部のフェミニストの女がいうような、父権主義の男尊女卑の歴史だったのではない。
日本列島の男には、ほかの国の男以上に「女のあとを追いかける」という心の動きを持っている。結論だけをいってしまえば、「あはれ」とか「はかなし」とか「わび・さび」という文化は、女の感性にリードされながら生まれ育ってきたのです。日本人はそこに、品性の輝きを見ている。どんなにつくりもののラグジュアリーな思想や人格や暮らしを手に入れてもどこかみすぼらしい、生きてあることそれ自体があはれではかないものではないか、という思いがある。
日本人は、ラグジュアリーな経済繁栄を手に入れても、心のどこかで「あはれ」や「はかなし」や「わび・さび」を見ている。それが、この国の美意識や世界観や生命観の基本になっている。
この国の男たちは、女のどこに品性や輝きを見ているかといえば、まあそういうこととも関係があるのでしょう。アメリカでは「タガメ女」になってラグジュアリーを手に入れたら勝ちだということですんでいる部分も多いのだけれど、この国ではそれだけではすまない歴史と伝統がある。誰もが「タガメ女」になれるわけではない社会の構造があるし、「タガメ女」になることだけを目指せるようなメンタリティの歴史と伝統にもなっていない。
まあ、上野千鶴子林真理子も、その方法がなんであれ、思想的にはただの「タガメ女」ですよ。ラグジュアリーを手に入れれば勝ちだと思い、そうやって「いい女」だの「幸せ」だのを欲しがっているだけです。人間としても女としても、彼女らのどこに品性と輝きがあるのでしょうか。
「いい女」も「幸せ」もどうでもいい。日本列島の女は、生きてあることそれ自体からはぐれていってしまう。それが「あはれ」や「はかなし」や「わび・さび」の感性であり、日本列島の女はそこから生きはじめる。
とにかくこのシリーズの結論は、「この生からはぐれてしまっているところに女の品性と輝きがある」ということなのですが、僕の文章力がそこにたどり着くのは大変です。あまり自信はない。とにかく、そういうことです。
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