「いい女」の怨霊・ここだけの女性論9


生き物になぜ雌雄があるのかということはよく考えます。
僕は、女を「メス」として見ているのかもしれません。
自分だってただの「オス」です。
人間は、アメーバのようなオスもメスもない生き物ではない。
雌雄を持つ生き物だからこそ、人と人は違うと思うし、生と死の別を考えるようにもなったのでしょう。
人間社会は、ひとつの価値やひとつの文化だけではすまない。だから流行という現象が生まれてくるのだろうし、世の中は変わってゆく。人の心だって変わってゆく。
人と人の関係だって変わってゆく。
雌雄の生き物になったことによって、変化とか差異というものに気づく意識が進化してきたのでしょう。
季節の移ろいに心が動くのも、美しいものにときめいて醜いものにうんざりするのも、雌雄の別がある生き物だからでしょう。
自分なんかうんざりだし、他者は自分ではないというそれだけですてきな存在だと思う。
生き物に雌雄の別があって、その雌雄がくっつくということは、たがいに自分が自分であることにうんざりしているからでしょう。自分が好きで自分が大事なら、他者なんか必要がない。
それとも、自分の値打ちを証明する存在として、自分を賞賛するる他者や自分より劣った他者が必要なのですか。そんな下品な心の動きを持ってしまうのも、雌雄の別がある生き物だからなのでしょうね。
この世の中にオスという存在があってメスという存在があるということは、それなりに味わい深いことだとも思うし、わずらわしくやっかいなことでもある。



今どきの女たちは、なぜ「自分をつくる」ということにそんなにもがんばるのか。
「いい女」になって自分を好きになりたい。「いい女」ではない自分は嫌いになってしまう。
好き嫌いなんかどうでもいい、自分なんかうんざりだし、自分のことなんか忘れてしまいたい、というのが雌雄の別を持った生き物の基本だと思うのですけどね。そうやって人間は、自分を忘れて、自分の外の世界や他者にときめき熱中してゆく。
人が「自分」というものに執着するのは、現代社会の病理だと思う。
自分をつくって成功したと自慢したがる女がたくさんいて、そんな女の女性論が氾濫し、不安を抱えた女たちは、そんな自意識過剰の女たちに扇動され追い詰められている。
そうして男たちは、やれやれ、と溜め息している。
そんなつくりものの自分や女を見せられても、男は引いてしまうだけです。女だって、安っぽいつくりものの男なんか相手にしてもときめかない。そうやって結婚しない世の中になってしまっている。
つくりものの自分を見せびらかして格下の男はつかまえられても、格上の男には逃げられてしまう。格上とか格下というとちょっと誤解されやすい表現だが、ようするにそれなりに男関係は華やかでも自分が本当につかまえたい男には手が届いていないのですよね。そんなふうにしていつのまにか独身のアラフォー女になってしまい、いまだに婚活でがんばっているという例は多いはずです。
独身のアラフォーでもけっこうなのだが、どうしてそんなふうに自分つくるという作為的なことばかりしているのか、それが問題です。
普通にいって、男は、そんなつくりものじみた女より、自然なままの女のほうに輝きや品性を感じることでしょう。
現代の婚活とは、「いい女」である自分にふさわしい男を設定し探しに出る、ということでしょうか、「いい女」であることも大変です。そうやって自分で自分を縛ってしまっている。
普通にいって、男にとっては、「いい女」であることを見せびらかしているだけの女よりも、人にときめくことのできる女の輝きのほうが魅力的であるに決まっています。
現代社会の女たちは、「いい女」であることや「幸せ」であることの「正義」に縛られて、心も表情も硬直してしまっている。



基本的に人間は自分を忘れたがっている存在だから、自分をつくろうとするのはとても不自然なことです。
自分をつくって「いい女」にならないと女どうしの競争に勝てない。現在のこの国の社会はそういう構造になってしまっている。それだけのことです。
まあそうならそうでそれはもう仕方がないことなのだが、それでもこの世の中のどこかに自然のままに体ごと世界や人に反応しときめきながら生きている女はやっぱりいるし、誰の中にもそういう自然はどこかしらで息づいている。
こんな女がいい女だというような基準などないのです。
あなたの反応は、あなただけのものです。どんなに反応すればいいかという基準などないし、反応の方法論なんかあるはずがない。あるとすれば、それはただのインチキ(捏造)です。
われわれはそのとき自分の心と出会うのであって、つくるのではない。
自分の心は自分のものではない。心は生まれるのであって、あらかじめ決めておいた通りの心を生み出すなんて、できるはずがないじゃないですか。人の心の動きは、種明かしのある手品じゃない。
逆にいえば、人を憎んでおいて、それはおまえが悪人だからだというのはお門違いなのです。自分の中に人を憎むようなしょうもない思想があるからでしょう。自分で自分の心をつくろうとばかりしている人は、そういうかたちで自分の心に裏切られる。
自分で人を愛する心をつくったってしょうがない。それは、自分の作為とは無縁のところで勝手に生まれてくるものでなければならない。ほんらい、そんな心はつくることができないのであり、勝手に生まれてくるのです。勝手に生まれてくる心まかせて生きることができる人が、輝いているのでしょう。勝手に生まれてくるときめきやかなしみが、その人の表情を輝かせるのでしょう。
つくったときめきやかなしみなどいずれメッキがはげるし、頭のいい人や敏感な人はちゃんと見透かすことができる。勝手に生まれてくるときめきやかなしみを持っている人の輝きには、永久に勝てない。それを「品性」というのでしょう。
ときめきやかなしみを自分でつくっていると、勝手に生まれてくるときめきやかなしみを封じ込めてしまう。
ここはときめかなくていいかなしまなくていい、ここはときめいたほうがいいかなしんだほうがいい……そうやってつくってばかりいる人の表情が輝いているんでしょうかね。そんなつくりものの「いい女」が生産され続けている。



僕は、基本的に女には憎しみというようなものはないと思っています。それはたぶん、人間の自然な感情ではない。社会の制度性によってつくりだされる感情です。文明によって、というか、文明社会の発生以降に生まれ育ってきた感情なのでしょう。
もちろん誰しも文明的制度的な「憎む」という感情を体験するのだが、人間としての自然においてそんな感情はないように思えます。その感情はおそらく、もっとも文明的制度的な権力争いをしている人たちがいちばんあからさまに体験しているのでしょう。歴史的に怨霊に悩まされるのはいつだって権力争いをしている王侯貴族だったのであり、言い換えれば男と女だって権力争いみたいな関係になってしまったら、憎んだの憎まれただのということになる。
四谷怪談」などのような女の嫉妬が憎しみに変わってやがて怨霊になるという話は、女の本性とか自然というより、文明社会の男と女の関係にはそういう要素もある、というだけのことで、男と女の関係の自然においてはありえないことなのでしょう。ありえないことだからこそ、それは怖い。


憎むとは、「自分は正しい、相手は間違っている」と思うことでしょう。権力争いだけじゃなく、この文明社会の「競争」ということ自体が、そういう思い込みの上に成り立っている。「自分は正しい」という「正義」を掲げて、相手を振り落としてゆく。
女どうしが、幸せであることやいい女であることを競争している時代です。主婦と独身のキャリアウーマンだって、「勝ち組(犬)、負け組(犬)」などといって、たがいに「自分は正しい、相手は間違っている」という思いで競争している。
もちろん男どうしだって競争しているし、男と女だって学校や職場で競争している。そして夫婦や恋人どうしだって、たがいに相手を支配し合い、主導権争いの競争をしている。
みんなが、「自分は正しい、相手は間違っている」という思いを尖らせて生きている時代です。
なぜ「自分は正しい」と思い込めるかというと、つくり上げた自分だからでしょう。人生をかけてそういう自分をつくり上げてきた。だから、そんな正しい自分はもう変更できない。「正しい」という正義のもとにつくり上げてきた自分です。自分が間違っていることなんかありえないし、間違っているなら人生を最初からやり直さないといけない。自分は正しいに決まっている。「自分は正しい」という思い込みで生きてきた。自分の人生に「自分は間違っている」という認識などない。
人間なんてそういう「正しい自分」だけで生きているわけではないが、そういう傾向が強い人と弱い人はいるでしょう。
自慢話ばかりしたがるのは、「正しい自分」を確認したがっていることであると同時に、「自分は間違っている」という立場に立つことができない不安のあらわれでもあるのですよね。そういう人は、そういう場に置かれることに対する不安がものすごく強くて、そういう場に置かれると激しく心が混乱してしまう。だから、何がなんでも「正しい自分」を掲げて生きてゆこうとする。それは、「相手は間違っている」という怨霊を自分の中に抱えているということです。現代社会は、そういう「怨霊」を抱えた人がたくさんいる。
そういう「怨霊=憎しみ」は、文明社会の制度性によってもたらされたものであって、人間の自然でもなんでもない。
この競争社会の「怨霊=憎しみ」が、男と女の恋や結婚が生まれてきにくい状況をつくり出している。



男も女も、おたがいに相手を支配しようとしているのでしょうね。相手を支配するとは、「自分は正しい、相手は間違っている」という関係になることです。現代社会の男と女は、どうしてもそういう関係になりたがってしまう。そうなればもう、というか、そういう関係になりそうになるのなら、恋も結婚もできないですよ。
まあ男が女を支配しにかかっていけば、女だって支配し返してくることでしょう。フェミニストの女たちが、男が私たち女を支配している、といって支配し返そうとしていったように。彼女らは、男に対する憎しみを持っているのでしょうか。そして女を支配しようとしていた男たちはその怨霊を怖がったのでしょうか。文明社会では、とうぜんそのような関係が起きてくる。
フェミニストの女たちは、男が女を支配したがる生き物だと決めてかかっており、その思い込みによって男に対する怨霊の火を消さないようにしている。何がなんでも「自分は正しい、相手は間違っている」という場に立とうとする。そこからはじまって、いろんなかたちの女どうしの競争が生まれてきた。専業主婦とキャリアウーマンの幸せ自慢競争とか、大人の女が若い娘よりも優位に立ちたがるとか、いろいろと重層的ですよね。
とにかくフェミニストの女の多くは、現代の競争社会の中でそういう自分をつくって生きてきて、何がなんでもそういう自分を手離したくないらしい。そうして現代の女たちの心が、そういう一部の女にに引っ掻き回されている。
自分をつくって生きている女は、自分の中に怨霊を抱えているし、他人の怨霊もつねに意識している。そういう男と女の関係はしんどい。
やっぱり男も女も、おたがい怨霊を持っていそうな相手とは恋も結婚もできなくなってしまいますよ。きっとそういう世の中になっているのでしょう。



いい女になろうと努力する。幸せになろうと努力する。そういう「自分をつくる」努力こそが正義の世の中になっている。
「努力する」といえば聞こえはいいが、それは、自分が自分を支配することでしょう。その支配欲が、怨霊の火種になっている。自分を支配し、相手も支配しようとする。
そんなつくりものの自分が、どうして輝いているといえるでしょう。
自分なんか忘れて他愛なくときめいてゆき、他愛なくかなしんで涙してゆけばいいだけじゃないですか。ときめいたりかなしんだりすることを出し惜しみすることもないでしょう。出し惜しみしながら自分をつくってゆくことが、そんな立派なことですか。
どんなに自分をつくり上げても、出し惜しみしない人の輝きには負けてしまうのですよ。
一部の自分をつくり上げて成功した女の向こうに、自分をつくりすぎて人に嫌われたり精神を病んでしまったりしている無数の女たちがうごめいている。成功した女だって、すでに精神を病み、「怨霊」を抱えてしまっているのかもしれない。
ほんとに輝いているのは、どこにでもいる女の「あなた」であって、一部の成功した女であるのではない。



輝いている女にとっての「自分」は幻滅の対象であり、だから「自分」を忘れてこの世界や他者にときめいてゆくことができる。彼女にとっての「自分」はそのつど生まれて消えてゆくものだから、「自分は正しい」という意識など持ちようがないし、「おまえは間違っている」といわれたら「ああそうか」と思う。すでに消えてしまっている自分の「正しさ」も「間違い」も、どうでもいい。そのときはそう思ってそう行動した、というだけのことです。
「自分」なんか幻滅している対象だから、できるならかかわりたくない。自分が消えているときこそ、もっと生きた心地がする。
人間なんて、男であれ女であれ、もともと「自分は正しい」などと思う存在ではない。
そして、少なくとも自然な男と女の関係における女の感情は、「憎しみ」よりも深い「幻滅」があるだけなのでしょう。
女はもう、男に対してだけでなく、自分の体や自分が生きてあること自体に深い幻滅を抱いている。
だから、自然としての女は、自分をつくろうとはしない。そのつくろうとはしないところに、女の品性や輝きがある。つくらなくてもちゃんと憎しみなどというものは持たないのが女の品性なのでしょう。
自分をつくろうと必死に努力している女より、自分なんか忘れて夢中になっていける女のほうが輝いている。
「いい女」になる必要なんか何もない。「今ここ」のあなたが輝いているかどうかということが問題なのでしょう。
あなたが幸せかどうかとかいい女かどうかということよりも大切なのはきっと、あなたが輝いているかどうかということでしょう。
いい女や幸せな女が輝いているのではない。いい女にも幸せな女にもなれなくて途方に暮れている「あなた」こそが輝いているのです。途方に暮れている存在だからこそ、この世界や他者に他愛なくときめいてゆくことができる。そこでこそ、女が輝いている。
輝いている女は、「途方に暮れている」というそのことを生きている。そして現代人はそれができなくていい女や幸せになろうとがんばる。
女は本質において女であることにも生きてあることにも幻滅している存在だから、「自分」をつくろうとする衝動をもてなくて「途方に暮れている」のです。そしてそこにおいて、女が輝くのです。
まあ、輝いている女は、自然にそういうタッチをそなえている。きざな言い方だけど、「途方に暮れている女」は、そういうピュアな輝きを持っている。女の本性を生きれば女は輝いているし、その輝きが人類の歴史をリードしてきた。男は、その輝きを追いかけ続けてきた。
いい女や幸せになろうとする努力は現代社会の正義であるのかもしれないが、それが女の本質であるとはいえない。いい女や幸せになることを追求する女性論は、すでに「人間とは何か」とか「女とは何か」という問いを失っている。
ようするに、競争に勝つための「正義」を追求しているだけなんですよね。そんなものは、じつは女性論でもなんでもない。
まあ、今どきの女が書く女性論に対しては、「おまえらなんぞに女とは何かということを教えられたかないよ、おまえらなんぞに女の何がわかっているのか」という思いはありますよ。
現在の女たちは、主婦であろうと独身のキャリアウーマンだろうと、「いい女」であることや「幸せ」であることをすでに手に入れているのでしょう。彼女らはそういう「正義」を手に入れ、その代償として、女であることの「輝き」を失っている。そうやって現代社会の恋やセックスや結婚が不調になっている。
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