内田氏の論理は、しょせん男根主義です。なにはさておいても「自分とは何者か」ということが気にかかっている人だから、けっきょく男を肯定して女を否定する論理になっている。自分を肯定しようとしているのだから、とうぜん男も肯定してゆく。男というのは、おおむねそういう人種です。
「男に生まれたかった」と言う女はけっこう多いが、「女に生まれたかった」と言う男はあまりいない。それは、男ばかりいい思いをしている社会だからというより、男は本性的にみずからを肯定し、女は自分を否定している、ということからもきているのではないかと思えます。
つまり男は、自分を見つめている「もうひとりの自分」の立場からものを言い、女は、そのような「もうひとりの自分」など捨てて、即時的な「自分」になって世界を見ている。
男は「自分」をまさぐり、女は「世界」を検閲する。
内田氏は、女のことをよくわかっているつもりでものを言う。女子大の教授という立場からか。そうじゃない。女を見くびっているからだ。それくらい、自分や男ということを肯定しているからだ。
女よりも、女と向き合っている自分に興味がある。そういう立場から「女」を語っている。
いや、何もかもわかっているつもりでいやがる。それは、ほんとに何もかもわかっているからではなく、何もかも見くびっているからだ。彼に興味があるのは、「何もかも」ではなく、「何もかもがわかっている自分」なのだ。
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しかし、これが学者かというようなちゃちなことばかり言ってやがる。
たとえば、こうです。
「人間は、商品ではなく、まず貨幣をつくり出した。貨幣のおかげで商品が発生し、交換が始まった」
であるのだそうです。
しかし、「商品」が存在しない世界の「貨幣」て、いったいなんなのですか。
数万年前の原初の人類は、小さな光る石ころやきれいな貝殻を集めるのが好きで、それをアクセサリーにしたりしていた。つまり、それじたいが「商品」として交換されたりしていたわけで、その「商品」としての石ころや貝殻が、やがて食い物などと交換する「貨幣」の役割を持つようになっていった。
このへんのところは、内田氏ていどの半端な想像力ではイメージできないことです。
そしてこれは、「言葉」の問題でもあります。
彼らは、「はじめに言葉ありき」のロゴス中心主義だから、言葉=貨幣もはじめから当たりまえの前提のように存在していたと安直に考えてしまう。
女の「きゃあ」とか「いや」とか「だめ」という言葉の発し方が教えてくれるとおり、はじめに世界(の意味)に対する「感慨」がなければ言葉など生まれてくるはずがないように、はじめに光る石ころやきれいな貝殻を「商品」として愛着する「感慨」がなければ、それらが「貨幣」の役割を持ってくることなどないのです。
「貨幣」もまた、「商品に対する感慨の表現」として生まれてきたのであり、このことは世界中の学者を敵に回しても言いたいことです。
まあ、男根主義者の薄っぺらな頭ではわからないことです。
原初の人類は、用もないのに二本の足で立っている生きものになった。そして、衣食住にはなんの関係もない「無用」の石ころや貝殻を愛着し、アクセサリーにしたりするようになった。
「無用」のものに対する愛着が、人間性の基礎です。わかりますか、内田さん。あなたたちのような「自分」というものの有用さにこだわる男根主義者にはわかるまい。
女は、男以上に生活に対してリアリストであるくせに、無用のアクセサリーやおしゃれにうつつをぬかす生きものでもある。それは、衣食住の「有用」さを超えるほどの「無用」で性的な「快楽」を知っているからです。
女は、「自分=有用」を処罰して「無用=快楽」に身をまかすことができる生きものであり、それこそが人間性の基礎なのです。
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男は「自己意識」が強くてつねに自分を語りたがるが、女はつねに「対象」が気になっている。女は、自分の身体でさえ、「私」というより「対象」として見ている。彼女らは、「私の身体」が「私」であることを許さない。女にとって「私の身体」は「無用」の存在として「処罰」するべき対象であり、「処罰」されて消えていったときにはじめて「私の身体」になる。そうやって「無用」であることそれじたいが輝く体験として、オルガスムスの瞬間がある。
つまり、女にとっての「私」とは「消えてゆく私」のことなのです。消えてゆくものが、女の言葉になる。
古代のやまとことばでは、「私」のことを、「吾=わ」と言っていた。「わ」という発声には、口をあけて息も体の力もぜんぶ外に出てしまうような感覚がともなっている。「わあ」と言って驚き、体の力が抜けてゆくときの「わ」です。つまり、この国の古代人にとっての「私」は、「私」が消えてゆくことだった。他者や世界(対象)に心を奪われて「私」を忘れているのが「私」だった。
ちなみに、「あなた」のことは「汝=な」と言っていた。「なあ」と呼びかけ「なに?」と問いかけるときの「な」です。こちらも口をあけて発声するが、息が抜けてしまわない。むしろ体じゅうに息がみなぎるような感覚がある。「あなた=な」と向き合っているときの空っぽの身体こそ充実した「私」の身体である、と彼らは自覚していた。
もうひとつちなみに、やまとことばの「はら」は、「空っぽ」とか「空疎」という意味です。つまり、われわれの身体の中心である「腹=はら」は、空腹のときにもっと強く意識させられる、ということです。
人間は、不可避的に「無用」の存在を意識し愛着してしまう存在なのです。
「私」を問うことのたよりなさ、「あなた」を問うことの確かさ、それがやまとことばの「わ」と「な」だった。
現在でも、「わ=私」「な=あなた」という言い方が流通している地方があります。
それに対して英語の「I=アイ」は、「ああ」と納得し「いのいちばん」と認識しているわけで、「私」を確信している言葉です。つまりそれは、男の「自己意識」を表現している言葉だ、ということです。
言い換えれば、やまとことばの「わ=私」は言葉を発する「即自的な私」であり、英語の「アイ=私」は、言葉を聞いている「対自的な私」ということになる。だから西洋人は、言葉が私の「主人」であるといい、言葉を発する「即自的な私」を勘定に入れない。もしかしたらそれは、女のアイデンティティを否定しているのかもしれない。
西洋の女たちは、どこかしらに「アイ」という言葉に対する違和感を抱えているらしい。
「われ思うゆえにわれあり」というデカルトの言葉に代表されるように、西洋では「われあり」という認識こそが「私」のアイデンティティであると信じられてきた。
しかしこの国の古代では、「私」が消えてゆくことこそ「私」であることのアイデンティティであると感じていた。
「われ思うわれ」は、「対自的な私」です。
「消えてゆく」ということは、「消えてゆくものがある」ということです。何もなければ、消えてゆくということもない。消えてゆくときにこそ、たしかに「私」を感じる。この国では男もそんなふうに感じていたということは、それはたんなる女のオルガスムスだけの感覚ではなく、もともと人間はそんなふうにして存在しているのだということかもしれない。
この国には、西洋のような対自的な「私」にこだわる「自己意識」の伝統はない。
日本人はかつて「無用」の輝きを知っていたが、西洋の歴史は、つねに「対自的な私」の「有用さ」にこだわる男根主義に支配されてきたのであり、そういう土壌の上に「近代」がつくられ、「フェミニズム」運動が起こってきたのです。
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リュス・イリガライというフェミニストは、次のように言っています。これは、なんでもないようでいて、根源的な意味を持っている。
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動くことは私の住まい方なのです。可動性の中でしか、私は休息できません。屋根を押し付けられると、私は涸(か)れてしまいます。
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内田氏はこのことを、「あなた=私」「支配=被支配」「定住=彷徨」「拘束=自由」といった二項対立図式を反復したものにすぎないのであり、ようするにイリガライが標的としているヨーロッパの「ロゴス中心主義と呼ばれる全体主義的原理」に自分もまたはまり込んでいるだけのことだ、と批判しています。
何いってるんだか、という感じです。つまり内田氏自身が「ロゴス中心主義的と呼ばれる全体主義的原理」でしかものを考えられないことをさらけ出しているだけです。言葉の上っ面をなぞっているだけの、けちくさい言いがかりです。
イリガライのこういう言い方と出会うと僕は、女ってすごいなあ、と思ってしまう。
これは、とても身体的な表現でしょう。「可動性の中でしか休息できない」というのは、人間的身体の根源的なあり方です。
人間にとって、じっと立っていることは、とてもしんどいことです。小学校の朝礼では子供たちがばたばた倒れていくし、電車に乗れば誰だってできれば座りたい。もともと四足歩行であった生き物が二本の足で立っているのだから、それはとても不安定で身体に苦痛を強いる姿勢なのです。だから、猿などはその姿勢をとろうと思えばいつでも取れるが、けっしてそのままではいない。
人間だけが、用がないときでもずっとその姿勢でいるということをはじめたのです。直立二足歩行の起源は、ここのところを問うべきなのです。それによって手を使えるようになったとか、人類学者たちは、そういう「有用さ」のことばかりを問う。そんなことは、猿でも知っていることです。しかし人間は、立っている必要もないときでも立っているようになったのであり、この選択において猿であることから訣別したのです。
なぜそういう選択をしたかは、ひとまず置いておきます。とにかく立っていることの苦痛から逃れるためには、「動いているしかない」とイリガライはいったのです。そしてこれは、身体論的に正しい。
歩き出せば、身体のことは忘れてしまう。足が勝手に歩いてくれる。体重をほんの少し前にかけるだけで、勝手に足も前に出てゆく。じっと立っていることの不安定や苦痛は、歩いてゆくことによって解消される。
人間は、歩くことによって休息する。哲学者はそのとき初めて身体のことを忘れ、考えることに没頭できる。われわれだって、歩きながらまわりの景色を楽しんでいる。
「動くことは私の住まい方なのです」なんて、誰にでもいえる言葉じゃない。内田氏のいうような「彷徨」がどうとかというようなレベルの表現ではないのです。女の身体感覚なのだ。
「歩く」とは、身体を「無用」の存在として処罰することであり、その無用性それじたいを止揚してゆく行為です。
内田氏は、その「動く」とか「住まい方」という言葉を国語辞典のレベルでしか解釈できなかったが、そんなことじゃない。イリガライは、内田氏ほど想像力が貧困な人間ではない。これは「暗喩(メタファー)」なのだ。
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女は「自然」だとか「動物的」だとかよくいわれるが、そうじゃない。自然=動物から離脱して「人間」になったときのことを無意識として記憶している存在なのだ、と僕は思う。
男たちのいわゆる「ロゴス中心主義と呼ばれる全体主義的原理」の観念的傾向の方がむしろ、「自然=動物」の世界を模倣している。動物の群れは、全体主義的的原理の「秩序」によって成立しているのです。チンパンジーの群れやシマウマの群れがめざすのと、男たちが政治や社会をどうするのこうするのと言っていることは、ようするに「秩序」をめざすということにおいて同じ次元のことなのです。
「自己意識」は、「社会秩序」によって保証される。
たぶん、根っからの社会秩序の信奉者である内田氏は、「動く」という言葉が気に入らなかったのでしょうね。
しかし女たちは「動く」ことの「カオス」の中に身を置こうとしている。
たとえば内田氏は、自己確認の「充足=有用性」にみずからの生のアイデンティティを見出すが、女たちは、世界が輝いて見えることの「ときめき=無用性」の中で生きた心地=快楽を汲み上げている。この違いです。
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もうひとり、内田氏が「勘違いしているフェミニスト」としてとくにあからさまに批判しているのが、ジュディス・フェッタリーです。
彼女は、男や男社会に対する悪意を隠そうとしない。
しかしこれもなにげなく言い放っただけのような言葉であるが、根源に届いている。
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アメリカ人であることは男であることを意味する。そしてもっとも重要なアメリカ的経験は、女に裏切られることである。
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アメリカの歴史は、「近代人として」アメリカを開拓してゆくことから始まった。
近代とは、「貨幣という規範」による「秩序」がつくられていった時代のことです。アメリカ人とは、「規範」によって「秩序」をつくってゆく人びとであり、それこそが男の属性でもある。
したがって彼女の言っていることは、たしかにそうだとうなずける話です。
男は、「規範=有用性」によって女を支配しようとする。「金と力と正義」、これが、男が女を支配してゆくときの「規範」であり、この300年アメリカが一貫して追及してきたものだった。
「金と力と正義」を「規範」としているかぎり、フェッタリーの言う通り「アメリカ人であることは男であることを意味する」のです。
そしてアメリカの男はそういう「規範=有用性」で女を支配しようとするから、女に裏切られる。捨てられるのでも逃げられるのでもない、「裏切られる」のだ。
法律もスポーツの記録も、破られるためにある。「規範」で女を支配しようとする男も、女から裏切られる。すべての有用なものを処罰して「無用」のものにしてしまう。人間にはそういう衝動があり、そうやって時代や社会は動いてきたのだ。流行とは、「現在」の有用なのものを無用にしてしまおうとする運動です。そうして、あらためて「無用」の存在の輝きが止揚されてゆく。その「無用」の存在は、「有用」になることによって役目を終える。誰もがミニスカートをはくようになれば、ミニスカートの流行は終わる。
ペニスの「有用性」を止揚する男根主義者ほど、インポになりやすい。このようなことです。男根主義者は、ペニス自体からも、女からも、いずれ裏切られなければならない。
逆にいえば、「規範」で女を支配しようとしない男は、女に捨てられるか逃げられるかするだけで、裏切られることはない。
自慢じゃないけど僕は、女に捨てられたり逃げられたりしたことはいくらでもあるが、裏切られたことは一度もない。他人から見たら裏切られたように見えることでも、裏切られたとは思わない。自分に魅力がなくて逃げられただけだ、と思う。
また、女に裏切られたといって泣く男にも、いっさい同情しない。おまえに魅力がなかっただけさ、と言ってやる。
アメリカの女は、男を裏切る。それは、「金と力と正義」の「有用性」で支配されているからだ。そしてアメリカの男たちは「金と力と正義」で支配しているから、女に裏切られた、と思う。自分に魅力がなかっただけなのに。
アメリカの男たちは、「女に裏切られた」と思う歴史を共有している。女を「金と力と正義」で支配することとして始まったアメリカの歴史には、それしかない。逃げられたり捨てられたという歴史はない。
アメリカの男たちは、「裏切る女」に対する「憎悪」を共有している、とフェッタリーは言う。たしかに、その通りかもしれない。
何しろ「レイプ」と「ドメスティック・バイオレンス(DV)」がいちばんさかんな国なのだもの。
女に逃げられた男は自分を情けないと思うだけだが、女に裏切られた男は女を憎悪する。男に憎悪されていると思いながら男と一緒に生きている国の女の気持ちというのは、そりゃあ、けっこうしんどいものがあるでしょうね。
フェッタリーは、とにもかくにもそういうしんどさの上に立って発言しているのだ。
内田氏はフェッタリーを容赦なくコケにしているけど、まったく彼女はいいことを言ってくれているのだ。
お気楽な国の薄っぺらな脳みその哲学者が、なにをあつかましいことをほざいていやがる。
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直立二足歩行をはじめた原初の人類の女は、もう猿のように後ろからずぶりとペニスを突き立てられることがなくなった。そうして、メスがオスの庇護のもとに生きてゆくという動物的な群れの「秩序」が壊れてしまった。
「金と力と正義」で女を支配しようとすることは、猿のように後ろからずぶりと突き立てようとすることです。レイプやDVも、まあそのような衝動かもしれない。
「近代」とは、共同体に、猿の群れの「秩序」を復活させることだ。もともと人類の群れはそういう「秩序」の不可能性の上に成り立ち、その「カオス=無用性」から快楽を汲み上げていったのだが、「貨幣という規範」が定着したことによって、「秩序=有用性」のほうが価値を持つ社会になってきた。
「善と悪」「価値と無価値」「生と死」、そのような二項対立の思考は、この世界に「秩序」をもたらすものとして、近代になってからの貨幣経済の定着とともに確立された。
人類史のはじめからあった思考のかたちではない。
しかし「近代」の歴史しか持たないアメリカでは、男と女もまた「支配=被支配」という関係で「秩序」をつくっていこうとする傾向が強い。
アメリカの男たちは、男と女の関係が「カオス」であることを好まない。「秩序」であらねばならないと思っている。それが、もっとも高度な人間的な関係だと思っている。しかしそれは、猿の世界を模倣することなのだ。
だから、ジュディス・バトラーもフェッタリーも、そんなものはくだらないという。
内田氏は、現代社会において「性秩序は絶好調に機能している」という。しかしそんな「秩序」は、猿の世界にしかないのだ。
男と女の関係において「人間の歴史」を生きるということは、「愛される」だの「尊敬される」だのという「秩序=有用性」にあるのではないのですよ、内田さん。女にののしられ捨てられる「カオス=無用性」を引き受けることのほうが、人間として多くの快楽を汲み上げてゆくことができる場合もあるのですよ。
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