女性論

真夜中の道端でやんきいの若者の男女が座り込み、しんみりと語り合っていた。 二人は、まるでこの世で最も不幸なものどうしのようにして何ごとかをなげきあっていた。 男は顔を伏せて泣いていた。 その向かいがわの女は、男の肩に手を置いたり頭を撫でたりし…

どんな行為にも、遊びの部分と労働の部分がある。 人生を労働としてつくり上げてゆく人もいれば、遊びのように成り行きまかせで生きている人もいる。 現代人のようにものごとをあくせく分析したり知識を収集したりすることは労働だが、無邪気にただ味わい尽…

40歳前後の年代のことを、アラ・フォー(アラウンド・ザ・フォーティ)というらしい。 そろそろ人生の秋風が吹き始めるころである。 自分の人生のかたちが、だいたい見えてくる。そこで、自分の人生はこれでよかったのだ、と思いたがるのはたいてい男で、多…

男をセックスの問題に引きずり込むこと、それが、「スカートの下の劇場」という本を書いた上野千鶴子氏がとったフェミニズム運動の戦略だったのかもしれない。 それは、正解だ。 何といっても、女は生まれながらにしてセックスや恋愛のプロフェッショナルだ…

現代人は「風雅」の伝統を失った、などとかっこつけてほざいていやがる。 内田氏のブログでの話です。 家事労働の中の「風雅」。廊下を拭き掃除するときの洗練された体の動きとか、隅々まできれいにできる心配りとか、そういう風雅を持った生活術を明治の文…

「ためらいの倫理学」の中で、内田氏は、こう言っています。 ______________ 世の中にはもっと大事なことがいくらでもある。暇さえあれば「セックス、セックス」と言い募っている人たちは、よほどそういうことが好きなのだろう。・・・・・・私は「そ…

内田樹氏の言説は、インポの論理だと僕は受け取っている。 いや、彼の性生活のことなんか知らないですよ。あくまでその言説が人をインポにしてしまうような論理だ、と言いたいのです。 それが具体的に表れている文章は、「ためらいの倫理学」にあります。 彼…

文学通を気取るなら、もうちょっとましなことが書けるだろう、と思う。 ドストエフスキーやフィッツジェラルドやロラン・バルトなどの固有名詞を出すことだけが文学批評でもなかろう。 内田樹氏にとっての「テキストを書く」という文学行為の本質は、いかに…

古代から近代合理主義に至る西洋の男社会の歴史のいびつなところは、日本列島の歴史との対比によって浮かび上がるのかもしれない。1万3千年前の氷河期明け以降、海に閉じ込められ孤立していった日本列島の歴史と、人の往来が活発になって戦争なども起きてき…

つまるところ社会の構造は、男と女の関係から生まれてくる。 日本列島と西洋では、そこのところで決定的に違っていた。 氷河期明けの約一万年前以降、西洋では、爆発的に人口が増えた。 一方日本列島では、縄文時代8千年のあいだほとんど増えていない。人口…

西洋の女の歴史と日本列島の女の歴史は、社会の構造と同じだけ違う。 西洋の共同体は、男たちがつくった。だから、男の論理で動いている。 たんなる「群れ」ではなく、法的な制度を持った「共同体」。西洋の「共同体」の歴史は、おそらく農耕牧畜が本格化し…

「愛する」なんて、いったいどんな行為なのか、どんな心の動きなのか、よくわかりません。 「ときめく」とか、抱きしめたいほど「いとしい」とか、一緒にいると「たのしい」とか「ほっとする」とか、とても「すてき」だと思うとか、あるいは青い空が「目にし…

人間の体毛はなぜ抜け落ちたのか、ということがよく議論されています。 水の中に住む猿だったったから、陸に上がったときは最初から毛がなかったのだ、という説があります。こんないいかげんな仮説を出されて本気で信じてしまっている人がけっこういるという…

人間が正常位でセックスをするようになったのはいつごろからだろうか。 たいていの人は、わりと新しいことだと思っている。 それは人間だけがすることだから、知能や文明が発達してからのことだと決めてかかっている。原始人は猿と同じ体位でやっていたと思…

内田樹氏は、「結婚はエンドレスの不快であるが、そんな他者と共生してゆくことにこそ意義がある。共生することは人間性の根源である」と言っています。 だったら彼は、今すぐにでも世界一のブスで根性悪(こんじょわる)の女とだって結婚できるはずです。相…

女の性感帯は、隠された部分にある。 つまり、世界から「疎外」されている部分にある。 女の性器は、身体の構造からいってももっとも外界から遮断されたところにあり、まず太陽の光にあたることはない。そういう疎外感が、性的快感の水源になっている。 腋の…

内田樹氏が結婚の意味だか意義だかを得意になって語っていることに対する感想を、も少し付け加えておきます。 しかし、皮肉なものです。結婚に意味も意義もあるものかという僕が30年ものんべんだらりとそういう関係を続けてきて、意味や意義を深く認識してい…

僕の知り合いの男の愛人は、まるで教養のない女で、さっぱり話が通じないし、おとなしい女でもあるのだが、スケベな話をするとけっこう乗ってきて、ときにはっとするような気のきいたことも言うのだそうです。 ふだんの暮らしでは何もかもとろいくせに、男に…

英語では「私」のことを「アイ」と言う。 「あ」という発声を音韻的に考えるなら、「あっとおどろく」の「あ」です。この感慨においては、日本人も西洋人も、同じ人間なのだから、そう変わりはないはずです。人は、何かにはっきり気づかされたとき、「あ」と…

ヨーロッパの男たちは、長いあいだ女を怖れて生きてきた。怖れながら女を支配してきた。 おそらく彼らの怖れには、母親のヒステリー気質が影を落としている。彼らは女の性器を見るとき、自分はここから生まれてきたのだと母親を連想する。 「ヴァギナ」とい…

日本人がみずからのアイデンティティを確かめようとするならもっと縄文時代のことを考えるべきであるように、ヨーロッパ人もまた、彼らのアイデンティティの根源がネアンデルタールにあることに気づくべきであろう、と僕は考えています。 ヨーロッパの女のヒ…

ヨーロッパの女のヒステリーは、半端じゃない。その歴史について考えてみたいと思います。 人類が寒い北ヨーロッパに住みついたのが、約五十万年前。ヒステリーの歴史は、そこから始まっているのだろうと思えます。 いちおう古人類学では、ヨーロッパの人類…

西洋では、女性器のことを「ヴァギナ」という。 やまとことばでは「ほと」。 同じものとは思えないくらい音感が違う。 「ほと」とは、不安とか停滞という意味。とらえどころのない不安で世界と向き合っているさまを表現している。「ほとほと困り果てる」とい…

欧米では、言葉の機能と構造じたいが、すでに男という存在の観念や生態に沿うようなかたちになっている。 フェミニストの女たちの異議申し立ては、そうした言葉そのものに対する違和感からも来ているのではないかと思えます。 欧米の言葉は、男言葉です。「…

内田樹氏が言っていることは、この社会のいわば「メインカルチャー」です。だから、多くの人に読まれている。みんな、おおよそ彼のように考えている。 それに対して僕が言ってることは、サブカルチャーあるいはカウンターカルチャーです。表面的には誰もそん…

この世界は男社会だといっても、その男は女から生まれ、女に育てられたのだから、つまるところ男社会は女(=母)がつくったともいえる。 よく働く男や、権力欲の強い男ほどマザコンの傾向がある。 森鴎外も田中角栄も、みんなマザコンだ。 社会に有用な男は…

内田氏の論理は、しょせん男根主義です。なにはさておいても「自分とは何者か」ということが気にかかっている人だから、けっきょく男を肯定して女を否定する論理になっている。自分を肯定しようとしているのだから、とうぜん男も肯定してゆく。男というのは…

この世の中には明日死んでしまうかもしれない人がたくさんいるというのに、「ひとりでは生きられないのも芸のうち」という著書の中で内田樹氏は、「あなたなしでは生きてゆけない」というのはこの世で最も純度の高い愛の言葉である、などと薄気味悪いことを…

まったく、「女性の品格」がどうとかと言われているさなかにこんなことを書こうなんて、時代錯誤もいいとこです。 内田樹氏は、フェミニズムの問題を、どうやら女の「自己意識の確立」という問題としてとらえておられるらしい。 女だけでなく、たぶんそれこ…

女は、男を処罰したがっている。男に難癖をつける、それが、女の愛でもある。そんなところにもフェミニズムの一面はあるのではないかと思います。 フェミニズム運動は終わったのではない、定着して一般化し、いまや一部の知的な女だけの主張ではなくなってき…