文学通を気取るなら、もうちょっとましなことが書けるだろう、と思う。
ドストエフスキーフィッツジェラルドロラン・バルトなどの固有名詞を出すことだけが文学批評でもなかろう。
内田樹氏にとっての「テキストを書く」という文学行為の本質は、いかにして読者をたらしこむかという技術にあるのだそうだ。じっさい、そうやって生徒に教えているらしい。文章術、というやつですね。
しかし何をどう書くかという前に、何をどう見るか、どう体験するか、どう生きるか、という問題がまずあるはずです。内田氏は、そこのところを考える(体験する)センスを持っていないから、「文章術」が真っ先にきてしまうのでしょう。
むかし開高健芥川賞の選考委員をやっていたとき、何を基準に判断するか、と問われて、「きらっと光るひとことがあるかどうか、それがすべてだ」と答えていた。おそらく文学とは、そういうものなのだろうと思う。文章術なんか、二の次三の次の問題なのだ。というか、そんなものは、システム化して教えることではなく、百人百通りで、それぞれがそれぞれに身につけていけばいいだけのことでしょう。稚拙な悪文の文学もあれば、巧緻で格調高い文章なのに文学になっていない、という小説や批評もある。
文学を体験したことの証しとして言葉が刻み付けられる。その「文学」とは何かといえば、文章術なんかではないはずです。たぶん「体験」なのだ。「文学という体験」・・・・・・文学オンチの僕としては、そこまでしかいえないのだけれど。
  ・・・・・<内田樹氏の離婚論に対する私的批判>・・・・・・・
________________
1・みんな離婚したいと思っている
________________
いわゆる「街場」の些事を語っても、文学的な切り口をちゃんと持っているかどうか、むしろそこにおいてこそ内田氏の文学性が試されている。
もちろん、思想哲学の大学教授であるその哲学性も。
結婚や離婚という問題は、「街場の思想家」を自認する内田氏にとっては、恰好のテーマであるにちがいない。
では彼が、このテーマを語っていったどれほどの文学通であることの資質を見せてくれたかといえば、大いに疑問です。
結婚くらいなら、僕だってしている。しかし「離婚」はしたことがない。それに対して実際に離婚経験があるらしい内田氏なら、僕などが考えるよりもはるかに深く示唆に富んだ「離婚」に対する考察をみせてくれるはずだ。
で、本人もそのつもりらしく、「街場の現代思想」では、自信たっぷりにその知見を披瀝している。
しかしねえ、彼が示してくれたこの結論に、いったいどれほどの人間に対する洞察があるのでしょうか。ようするにある種の精神(文学性)の麻痺があらわになっているだけです。それはもう、ちょっと不気味なくらい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
内田氏が分析する、人はなぜ離婚をするのかということについてのまず第一の結論は、
「最初から離婚してもいいという前提を持っている人間は、かならずそのカードを使いたくなる」
のだそうです。
ばかばかしい、と思う。もしかしたらこの人は、この事態に人間の「精神」というものを見るまいとしているのかもしれない。たんなる図式として処理しようとしているのだ。
だって、たいていの夫婦は、そのカードを使いたくてうずうずしながら一緒に暮らしているのですよ。それは、夫と妻の二人ともの場合もあれば、どちらか一方だけの場合もある。たぶんほとんどの人が一生添い遂げるつもりで結婚式を挙げ、やがては誰もがそのカードを使いたい気持と使いたくない気持のあいだを揺れながら暮らしてゆくようになる。使いたくなればかならず使ってしまうなんて、そんな単純なものではないでしょう。
安直で、おそろしくニヒルな意見だと思いませんか。
「離婚というカードを使いたい」それだけのために、つまり離婚のために離婚するなどという人がいったいどれだけいるでしょうか。
内田氏がいうには、離婚したいために不倫をするのだそうです。心理学オタクの言いそうなせりふです。それが人間の深層心理である、なあんて。
離婚したいということは、相手に幻滅した、ということでしょう。こんなやつと一緒に暮らしていたくない、と思ったからでしょう。そこのところをなにも問題にしないで、ただ離婚したいからする、離婚したいから嫌いになった、なんて、いうことがさかさまなのですよ。子供だましのただの言葉遊びじゃないか。
ようするに内田氏は、別れた奥さんはただ離婚したかっただけで、俺に幻滅したわけじゃない、と思いたいのでしょう。そういうことにしておきたいのでしょう。
「嫌いになったわけじゃないの」
頭のいい女なら、それくらいのいいわけは言いますよ。
しかし、この男とはもう一緒に暮らせない、と思われたことも事実です。その理由が「離婚したかったから」ですか。それだけですむのですか。人間なんて、そのていどのものですか。あなたは、そんな結論で自分を満足させることによって、逃げていった奥さんの絶望や苦悩やあなたに対する幻滅や怒りや憎しみや、そういう思いのいっさいを無視し、否定しているのですよ。
そんな荒廃し麻痺しきった精神をひけらかして、君たちに教えてあげる、なんていばっていやがる。ようするにあなたは、自分が他人から幻滅されるということを、ぜったいに認めたくないのでしょう。女から幻滅されるなんて、あなたのプライドが許さないのでしょう。
女に逃げられたということは、女に幻滅された、ということさ。それは何も恥ずべきことではないが、それを認めようとしないのは、あなたの卑しさであり、あなたの思考の底の浅さなのだ。
あなたは、奥さんから幻滅され逃げられたのですよ。そしてそれは、この世のすべての亭主に明日起きるかもしれないことなのだ。
離婚というカードを切りたかったからだとか、そんなことは大した問題じゃない。どうでもいいことだ。離婚してもいいという前提など、誰でも持っている。
___________
2・幻滅するということ
___________
僕なんかまだ離婚していないけど、すでに完璧に女房から幻滅されている。というか、僕のことを幻滅しない女なんかこの世にいない、と思っている。
死んだ母親だって、僕に幻滅していた。
母親が倒れて僕が病室に見舞いに行ったら、彼女は何と言ったと思います?
「ふん、人が死んでゆこうとしているときに、余は満足じゃ、という顔をしくさって」
そういう言葉を僕に投げつけて彼女は死んでいったのです。そして僕は、そのとき彼女をきゅっと抱きしめて上げなかったことを、今ものすごく後悔している。してやりたかったけど、できなかった。なぜなら、そうすれば彼女は、それまでけんめいに看病してきた弟や妹のことを忘れて、僕との思い出だけに浸って死んでゆくことになる。すくなくとも弟や妹は、そう解釈してしまう。あとからのこのこやってきて、おいしいとこは全部持っていきやがる、あんたはいつもそうだったじゃないか、と。そういう兄弟間の微妙な愛の問題があった。
僕は小学生時代を、両親から離れて祖母に預けられて育った。だから父も母も。僕に対してはなにか特別の感慨があったらしい。彼らは二人とも私生児として生まれ育った。そして僕にも同じような体験をさせてしまった、という後ろめたさのようなものがあったらしい。僕はべつに、自分の小学生時代が不幸だったなんて、ぜんぜん思っていないのだけれど。だって、あのころの僕にとって世界は輝いていたし、そういう光景のいくつもが懐かしい記憶として残っている。だから今、お付き合いのカラオケなんかでも、小学生のころに聞いたことのある歌謡曲ばかり歌う。青春時代の歌なんか、ぜんぜん懐かしいとも思わない。
言い換えれば、人が青春時代を懐かしむのは、そのころ親のもとから心が離れて孤立した存在として世界と出会うという体験をするからでしょう。そうやってはじめて世界の輝きを体験するのだ。
幸か不幸か僕は、そういう体験を小学生時代にしてしまった。そして逆に、そのころに「家族」の鬱陶しさを体験していないから、他愛ないホームドラマにかんたんにしてやられてしまうところがある。
両親の「不在」は、僕に「世界は輝いている」という体験をもたらしてくれた。僕は、その「不在」とともに両親をせつなく思っている。「不在」において、人は愛される。つまりわれわれは、「拒絶反応=幻滅」とともに人を愛している、ということです。幻滅するとは、相手を「不在」にし、みずからもまた「不在」になって向き合っている状態のことです。われわれは、「不在性」として他者を愛する。「不在性」として、他者の存在をありありと感じている。それが「幻滅する」という心の動きであり、ややこしい問題なのです。意識の根源の問題です。
女は、男を拒絶し幻滅している。それが愛情であるか憎しみであるかは、紙一重のことです。
・・・・・・・・・・・・・
そして内田氏のいうもうひとつの結論は、こうです。
「人間の本性として、相手の振る舞いをかならず悪いほうに誤解し、それが取り返しのつかない亀裂になる」
これだって、離婚とは大して関係のない男と女の日常じゃないですか。
パートナーが自分の知らない異性と話しているのを目撃し、きっと浮気をしていると思うとか、ずいぶん仲良さそうで自分よりきっとあの人のほうが好きなのだと思うとか、こんなことは誰だって経験していることです。一生連れ添った夫婦だって、そんな思い出の三つや四つは持っていますよ。そんな誤解を10も20も抱えていながら離婚しない夫婦はいくらでもある。
この説明だって、内田氏としては、別れた奥さんは彼を誤解しただけで、彼の人格に幻滅したわけじゃない、ということに何がなんでもしておきたいのでしょう。そういう自己正当化のスケベ根性からひねくりだしているだけの結論なのだ。
人間なんだもの、いろんな誤解はしますよ。一生別れない夫婦だって、いろんな誤解し合いながら暮らしてきたのだ。離婚する夫婦だけが体験することじゃない。離婚の原因をそんなことにして納得しようなんて、考えることがあさましすぎるし、ちっとも文学的じゃない。
そして、鼻づらつき合せて一緒に暮らしているのだもの、相手の気持がわかった気にもなりますよ。それでも別れない夫婦は別れないし、別れることの原因がそんなことにあるのでもない。
内田氏によれば、相手の気持がわかった気になってしまうから別れるのだというのだけれど、それは、一緒に暮らしていれば避けられない感情なのですよ。そこのところを、この人はなんにもわかっていない。男と女が一緒に暮らすなら、それはもう引き受けるしかない感情なのだ。
わかった気にならないから別れないのではなく、わかった気になってしまうことを引き受けているから別れないのだ。
内田さん、あなたのいう結婚とか離婚とかの説明は、ただのままごとの論理なのですよ。あなただって女房に幻滅されたんだよ。あなたも哲学者のはしくれなら、文学通を気取るのなら、それは認めるべきだ。「人間とは何か」ということをちゃんと見つめろよ。自分を正当化して気取ってばかりいるから、そんな薄っぺらな結論を臆面もなく提出できるのだ。
______________
3・「ままごと」ではすまない
______________
で、内田氏の離婚論の締めくくりは、こうです。
<「私にはこの人がよくわからない(でも好き)」という涼しい諦念のうちに踏みとどまることのできる人だけが愛の主体になりうるのである。>
だから、それが「ままごと」だというのですよ。
踏みとどまることができるのなら、やってみろ。あなただってできなかったんだぞ。誰だって、「愛されている」と確認したいだろうが。「愛している」だの「愛されている」だのと「承認」しあうことが他者との関係の基礎であると、あなたはいつも言っているじゃないか。あなたこそ、誰よりもその「涼しい諦念」に踏みとどまることのできない人間なのだ。口先だけでかっこばかりつけてんじゃないよ。
一緒に暮らせば誰だって相手の気持ちがわかった気になってしまうからこそ、むかっときたり傷ついたり思い悩んだりということを何度でも(もしかしたら無限に)させられるのだ。
それでも別れないのは、ただ「愛している」とか「愛されている」とか、そんなことだけじゃない。男の経済力を手放したくないためだったり、子供のためだったり、この男(女)を自由の身にさせたくないという憎しみや嫉妬だったり、まあ人さまざまな事情で相手の気持ちがわかった気になってしまうことを引き受けているからでしょう。
夫は、私をただ女中代わりだけに使って、外で浮気しまくっている・・・・・・「私はこの人がわからない(でも好き)」という彼女は、「愛の主体」なのですか。「涼しい諦念のうちに踏みとどまる」などということは、こういうケースにおいてはじめて成り立つのだ。
「私はこの人がわからない」と思ってもらいたければ、相手に関心があるような身振りをいっさい示さないことだ。ただしそれで、「でも好き」と思ってもらえるかどうかは保証のかぎりではないが。
内田さん、あなたがどんなに聡明なお方であろうと、あなたと一緒になった女は、たとえ知能指数が限りなくゼロに近い女であっても、あなたに関心があるかぎり、あなたのことがわかったつもりになってしまうのですよ。何が「涼しい諦念」だ。何が「愛の主体」だ。そんなままごとは、あなたの妄想の中だけでやってくれ。
われわれにできることは、「どうして自分はこんなふうに思ってしまうのだろう」と身悶えすることだけであり、そういう人はそうかんたんに「離婚」という結論には至らないだろう、といえるだけです。
あなたは、相手の気持ちが「わかる」ということも「わからない」ということも、わかっていない。なぜならあなたは、「自分」にしか興味がないからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
わかるはずがないのに、わかった気になってしまう。わからないとすましているのではなく、わかった気になる自分に深く幻滅すること、その上にしか「一緒に暮らす」という日々は成り立たない。
わかった気になって幻滅してしまうことは避けられないことだし、女は、すでに存在そのものにおいて男に幻滅している。幻滅しているからわかった気になってしまう。幻滅してわかった気になってしまうくらい、相手に対する深い感慨を持ってしまう。それが、人間でしょう。
女が男に幻滅しないで生きていけるなんて、とてもじゃないが信じられないし、そんな気味悪い女なんかこちらから願い下げです。
言い換えれば、人が失恋してもまだ未練を残していられるのは、誰もがどこかしらで人間としての「幻滅する」という心の動きを肯定しているからでしょう。
ましてや僕なんかろくでもない男なのだから、幻滅されてとうぜんです。幻滅されないなんて、そんな居心地の悪い状態には耐えられない。内田氏のような自己愛の強いお方にはそれこそが指定席なのかもしれないが、女にとって幻滅しないことは「無関心」であるのと同じなのだ。いや、男にとっても。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ