内田樹という迷惑・「母」などというものは存在しない

このブログにときどきコメントを寄せてくれるある人は、気が強そうな目の光を持った女が好きだという。
僕も、嫌いじゃない。
単純に生意気だとかそういうことではなく、これもやっぱり「孤立性」の問題だと思う。
内田氏は、社会という群れの中をすいすい泳いでゆける「生き延びる」能力を持った女がお好みであるらしいが、「孤立性」の女は、その対極にあるといえるのかもしれない。
女はみな「苦労人」だ。
「おだやかな母性こそ人間性の根源である」と内田氏はいうが、冗談じゃない。おだやかそうに微笑んでいる女だって、内面の起伏は、おそらく男よりずっと激しい。
それはもしかしたら、女が体質的に持っている体温の上下動の激しさと関係があるのかもしれない。それだけで、世界の感じ方が、男とはずいぶん違ったものになってしまうだろう。また女は、まいつき自分の身体にうんざりするという体験を繰り返して生きていかなければならない。
みずからの存在(身体性)や世界に対する悪意は、たぶん女のほうがずっと根深い。
その悪意が女の文学性としてあり、その悪意に対するとまどいや驚きが男の文学性になっている。
誰とは言わないが、イカフライ氏は、俺はへらへら笑っている男なんか文学者として認めない、と言っている。
いつもへらへら笑った顔写真で紹介されている小説家っているじゃないですか。誰とは言わないけど、カメラの前に立つと、いつも人を小ばかにしたようにへらへら笑っているのでしょうね。
笑顔がすてきとかかわいいとかと女に言われているのだろうか。
それに対して「桐野夏生」という女流小説家は、いつも怒ったようなちょっと怖い顔をして写っている。まあ美人だからそれでさまになるわけだけど、この人の目つきも、何か一筋縄ではいかないふしぎな光がある。彼女は、何かを監視している。男か、それとも人間全般か・・・・・・。
たぶんふだんは穏やかな表情をした人なのだろうけど、写真に写ると、とたんにこの人の怖さがあらわれる。
僕は、内田氏のように、女の中に「おだやかな母性」などというものを感じたことは一度もない。そんな母親ではなかったし、そんな女房ではないし、そんな恋人を持ったこともない。
それに、女の中に「おだやかな母性」を探そうとするのは、女に対して失礼なことだと思っている。
また女が「おだやかな母性」を自慢してきても、何言ってやがる、とも思う。そんなものは、信じない。
女が出産を決意し母になることは、母性に目覚めることではなく、惑乱することだと思う。自分の中の「悪意」と決着をつけようとする行為だと思う。
そういう「悪意」と「幻滅」を抱えているからこそ、それに決着をつけるように、献身的な子育てに没頭してゆくこともできる。
「おだやかな母性」だなんて、何言ってやがる。そんなものを先験的に抱えている人間なんか一人もいないのだ。
内田氏自身、女の中の「おだやかな母性」を当てにして痛い目に会っているはずなのに、まだ懲りていないらしい。というか、痛い目にあったからこそ、さらに意固地になってそんなものを信奉しようとするのだろうか。俺は正しかったのだ、と。
一種の強迫観念だな。
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桐野夏生氏の小説は、何冊か読んだ。その端正な文体とはうらはらに、女が持っている「悪意」の提出の仕方は、けっこう生々しく執拗である。たぶん、男じゃ書けない。そしてたぶん彼女の中に、「男はわかってくれない」という幻滅と哀しみがある。
まあ、そんなような小説なのではなろうか、と思う。
そして、この世の中でいちばん「わかってくれない」男が、「おだやかな母性」などとほざいている内田氏だ。
われわれが推理小説を好むのは、「生き延びる」ことの不可能性の中に置かれていることをどこかで自覚しているからだ。
生き延びることができないのが生き物なのだ。明日死のうと五十年後に死のうと同じことなのだ。そういう生き物としての与件の上に、推理小説の醍醐味が成り立っている。
推理小説は、生き延びることができない生き物の娯楽なのだ。
桐野夏生という人の小説の凄みと娯楽性は、そういうところで生成しているのかもしれない。
いや僕は、小説の批評がしたいのではない。
女というのは怖いよなあ、と言いたいだけです。
生き物として、われわれが見ていない何かを、すでに見てしまっている。
そうして女は、男に幻滅してしまっている。桐野夏生という人のあの目は、男に幻滅し、男を監視している目だ。監視することが女の愛なのかもしれない。
下司な勘繰りをすれば、桐野氏は、生理がものすごくひどくなるタイプの女性だったのかもしれない。僕の貧しい体験からすると、生理のひどい女は、ああいう目をしている。自分(の身体)に幻滅しているから、男にも深く幻滅するという体験してしまう。自分の身体も男も、幻滅しつつ、気になってしょうがない。
内田さん、あんただって幻滅されているんだよ。幻滅されたじゃないか。「おだやかな母性」などと言っている場合じゃないだろう。
平和な世の中だからこそ、女の悪意と幻滅はよりラディカルに尖ってくる。
くだけて言えば、平和な世の中だからこそ、女の男に対する感じかたは、より敏感になり、より本質的になる。
「おだやかな母性」などという幻想にまどろむことが許されるのは戦場の兵士だけであって、われわれにその資格はない。
われわれがそんなものにまどろもうとすれば、それは、ただの「ままごと」になってしまう。「ままごと」は、金や制度で約束することができる。約束したい、と多くのものたちが思っている。
みんなで「おだやかな母性」の「ままごと」をして生きていきましょう、と。
しかし・・・・・・
そうはいかない、と平和な世の中の推理小説家である桐野夏生氏は言っている。
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われわれはかつて、母親の胎内でまどろみ充足して生きていたか。
たぶん、違う。そこには、不安や恐れもない代わりに、まどろみや充足もなかったのだ。
厳密に言えば、かすかな不安や恐れとかすかなまどろみや充足の「命の鼓動」があっただけのことだ。
たぶんわれわれは、そこで「人間」になるためのトレーニングをしていたのだ。
そうして、「人間になる」決定的な体験は、母親の体から切り離されてこの世界の「空間」に投げ出されたことにある。
サルトル流に言えば、そこで、「存在と無」という二つの認識に引き裂かれたのだ。
たぶん、その体験だけが決定的なのだ。
僕は、母親の胎内にいるまどろみや充足も、生後の母子関係のまどろみや充足も、たいした問題じゃないと思っている。
この世界の「空間」に投げ出されためくるめく体験だけが決定的なのだと思う。
その、何もない「空間」を認識するという体験こそ、決定的なのだ。
だから、「代理出産」だろうと、人工のたとえばプラスチックの胎内だろうと、たいした問題じゃないと思っている。
人口の胎内から生まれてきた子供が非人間的な生き物になるなんて思わない。賭けてもいい。
また、生後にあかの他人から育てられたって、ぜんぜん問題じゃない。
僕は、「母」などというものは存在しない、と思っている。したがって「おだやかな母性」なる人間性も存在しない。
「母」なんて、ただの制度的な言葉なのですよ。
「母」であることの誇りや充足なんて、くだらないと思う。
われわれには、「母」などというものはいない。
僕が生まれた直後に出会ったのは、一人の「女」であり、一人の「人間」なのだ。それはもう、実感的にそう思う。
「母」などという体験は存在しないのだ。「母」という制度的な言葉がこの社会で機能している、というだけのことだ。
胎内は、ただの胎内さ。ヌルヌルしたお水の足も伸ばせないような狭苦しい小部屋のことだ。それだけのことさ。そんなもの、「母」という体験でもなんでもない。女が勝手に「母」と自覚しているだけのことさ。
胎児にとっては、ただの小部屋さ。それだけさ。
そして、生まれたばかりの赤ん坊にとっては、哺乳瓶だろうとぷよぷよのおっぱいだろうと、どちらでもいいのさ。
そりゃあ、育ててもらったという一宿一飯の恩義はあるさ。しかしそれは、血がつながっていようといまいと関係ないことだ。
問題は、実の親に育てられないと、親なんか関係ない、と思うことが困難な状況に置かれてしまうことにある。否定しようにも、否定の対象を知らない。「母」を体験したことのないものは、「母は存在しない」と思う体験もまたしたことがない。
不在の対象は、存在する、と認識される。どこかに存在する、と。
ぼくの親は二人とも私生児で孤児育ちだったから、せつないくらい血のつながりにこだわっていた。しかしその子供である僕が、「この世に<母(あるいは親)>などというものは存在しない」という実感しか持てなかった。
それは、つまるところ彼らが、私生児で孤児育ちだったからだ。
僕は、彼らが僕の親であるということよりも、彼らが私生児で孤児育ちであるという事実を肯定する。
僕にとって彼らが僕の親であることは「存在の対象」であるが、彼らが私生児で孤児育ちであるという事実は「不在の対象」なのだ。「不在の対象」だからこそ、その「存在」を確信することから逃れられない。
早い話が、僕は、彼らが親であるという事実にいつもうんざりしていたが、彼らが僕よりもずっとすてきな人間であることはいつも認めていたし、死んでしまった今はなお深くそう思っている。
彼らがすてきである部分、すなわち彼等の能力も人間としての清らかさも、彼らが私生児で孤児育ちであるという事実からきていた。それは、僕にはないものだった。そのことに僕はいらだった。いつもいらだっていた。
僕がその不条理な関係を克服するためには、この世に「母」などというものは存在しない、と認識することしかなかった。そしてじっさい、「母」などというものは存在しないのだ。