内田樹という迷惑・彼女の文学的素養

文学表現について学ぶ内田教授のゼミに入るのは三、四倍の競争率で、内田氏自身が面接試験をするのだそうです。
そのときの基準として、「いじけない」「よく笑う」「こだわらない」というコミュニケーション能力を重視するのだとか。
文学的素養とは、コミュニケーション能力のことなんだってさ。
だから、すぐいじけたり、笑わなかったり、妙なこだわりを持って内田氏の言うことに反応してこなかったり反抗的になったりする生徒は、文学の素養がない、と判断され、ゼミに入れてもらえないのだそうです。
しかしねえ、文学とはそのような「コミュニケーション能力」を持った人のものでしょうか。
すぐいじけるのは、それだけ人間に対して敏感だからかもしれない。
笑わないのは、おじさんギャグのていどの低さを知っているからかもしれない。つまり、言葉の表現性を吟味できる能力がある。だからこそ彼女はそこで反応することができなくて黙りこくってしまう。
彼女には、こだわりがあって、うまく生きてゆけない。人とうまくなじめない。そういうものがあるからこそ文学を志す、という場合はあるでしょう。
彼女こそ、豊かな文学的素養の持ち主かもしれない。小説なんか一冊も読んだことがなくても、教え方しだいでその資質が大きく開花するかもしれない。
いや、開花しなくても、そうやって「表現する」ということを覚えれば、彼女がこのさき生きてゆくことの支えにはなる。
「表現する」ということは、生きてゆくのが上手な者にそなわった能力なのではなく、生きてゆくことのできないものが生きてゆくためにおぼえてゆく能力のことではないだろうか。
「いじけない」「よく笑う」「こだわらない」というかたちですでに生きてゆくための能力を備えているものは、いまさら文学によって「表現する」ということをする必要がない。
もしかしたら「表現する」という芸術的な行為は、「いじける」「笑えない」「こだわってしまう」感性から生まれてくるのかもしれない。
内田氏は「生き延びる」能力こそ文学的素養だというが、文学とか芸術というのは、生き延びることができない感性から生まれてくるのではないだろうか。
内田さん、あなたに文学的な才能がないのは、人をたらしこんで上手に生きてゆく能力があるからですよ。
そういう能力がないものによって言葉は磨かれてゆくのだ。
言葉を使いこなす能力と、言葉を磨く能力は、また別のものなのですよ。口が達者な営業マンや結婚詐欺師が豊かな文学的素養の持ち主だともいえないでしょう。彼らは、「いじけない」「よく笑う」「こだわらない」という資質だけは、感心するくらい豊かですよ。
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コミュニケーションできないもどかしさによって、言葉は磨かれてゆくのだ。
そして、「いじける」「笑わない」「こだわる」生徒は、教師にとっては、とても扱いにくい。そう簡単に洗脳してしまうことができない。
彼女には、彼女の「こころざし」がある。それが、文学になる。
逆に有能な営業マンとは、会社や社会に洗脳されてしまっている人間です。もともと「こころざし」なんかないから、すぐ洗脳されて、営業マンになりきってしまうことができる。「生き延びる」能力を持った人間ほど洗脳しやすい。そういうことを、人をたらしこむことに勤勉な内田氏は、本能的に知っているのですね。
だからもう、彼のゼミは、カルト教団顔負けの洗脳の場になっているらしい。
内田氏は、日ごろから「働くことは金のためではなく他者の承認を得るためにすることだ」と言っているわけだが、あるときゼミの生徒にそのようなテーマのレポートを書かせたら、全員がそういう意味のことを書いてきたのだとか。
内田氏はこのことを大いに自慢しているのだが、怖いですよ。
そう書いておけばいい点がもらえると思った生徒が大半だとしても、その時点ですでにその気になってしまっているのですよね。そうは思わないけどそう書いておこうと思ったのではない。すでにその気になってしまっているのです。その気になれるのが、「生き延びる」ことが上手な人たちの特性です。そうやってその気になれる生徒ばかりを集めたのだもの、とうぜんそうなりますよ。
内田氏には、生徒から学ぼうとする意志など、これっぽっちもない。生徒は、たらしこむ(洗脳する)ためだけの対象だ。そうして、生徒からただ情報を収集するだけの行為で、生徒から学んでいるというポーズをとっている。
自分に反抗的な生徒を抱えていることは、ある意味で教師の勲章なのですけどね。「えっ、そんなことを書いてくるか?」という驚きがなければ、ゼミをやっている醍醐味も半分しかないでしょう。
弟子に反抗されるとき、教師は神に試されている・・・・・・レヴィナス先生なら、そういうのかもしれない。そういう「受難」があってこその生きるという行為でしょう。
違いますか、内田先生。
生徒がみんな同じことを書いてきたなんて、教師として恥さらしなんだよ。あなたは、ほんとうに生徒たちの「文学的素養」伸ばしてやっているのだろうか。もしかしたら、人をたらしこむのを上手にしてやっているだけじゃないの?もともと上手な生徒を集めてさ。
文学的素養とは、「こころざし」のことだ。桐野夏生には、桐野夏生の「こころざし」がある。