天才や英雄が歴史をつくるのではない・神道と天皇(61)

西部邁という人は、現在の右翼というか保守の論壇においては結構人気があるのだろうが、その一方で、上から目線で大衆をなじることばかりしているから不愉快だ、というような評価もあるらしい。何様だ、ということだろうか。この人もまあ、自分を見せびらかそうとする自意識が過剰なのだろう。
どんなに人格者ぶっても、その品性の卑しさは顔つきにあらわれる。
その言説をどうこういう以前に、あの薄笑いを浮かべた下品な顔つきはいったいなんなのだろうと思ってしまう。あれでは、福田恒存にも小林秀雄にもなれないだろう。
まあ右と左の立場の違いはあってもキャラクター的には内田樹と一緒で、口ではなんとでもいえるし、かんたんに洗脳されてしまう人が少なくないのが世の常だ。
人は、洗脳されてしまう生きものだ。
人をたらしこもうとする意欲の強さと偏差値の高さがあれば、人気者の知識人になれる。
彼らは特別な人をたらしこむ芸を持っているのだろうが、その言説が正しいかどうかと問う以前に、あの下品な顔つきが好きになれない。
おそらく二人ともいちいちごもっともなことをいっているわけで、そりゃあ多くのプチインテリが洗脳されてしまうのだろう。いちいちごもっともなことを「これで決まりだ」というような言い方をする。読者は、自分もうっすら考えていることを言葉に表してもらったのだから、大いに納得するし、それでもうその先は考えなくてもすむ。いう方も聞く方も、その先を考えるつもりはないし、考える能力もない。「これで決まりだ」と合意し、合唱してゆく。そうやってひとつの安定(=停滞)した言説空間が形成されてゆく。
彼らのいっていることなどわかりきったことで、わかりきったことだから「これで決まりだ」と合意できる。内田樹西部邁も、その思考の限界を世のプチインテリの読者たちと共有している。限界でとどまっている方が人気者になれる世の中なのだろうか。
とはいえ福田恒存小林秀雄も、そこにとどまることなくつねにその先を考えていた。だからあなたは、福田恒存にも小林秀雄にもなれない。
福田も小林も、戦後左翼の全盛期でその運動家たちに殺されるかもしれないという立場を生きてきた。しかし現在の状況なら、どんなに保守的右翼的でも殺される心配はほとんどなく、かえって読者を集めるのに有利だったりする。そういう危機感がないから、その先に分け入って思考を進めてゆくという覚悟が持てないのかもしれない。そんな覚悟も能力もないからそこで居直っているのだろう。
まあ、いいんだけどね。僕は西部邁の言説を批判できるほど、彼の本をたくさん読んでいるわけではない。ただ、なんであんな卑しい顔つきをしているのだろう、と思っているだけだ。
ただ、ひとことだけいわせていただくなら、終戦直後の民衆が「ギブミーチョコレート」といってアメリカ兵にすり寄っていったのは日本的な精神の荒廃だ、というのは、ずいぶん安っぽくステレオタイプな批判だと思う。そのときのひとりひとりの心情がなんであれ、全体の現象としては、そこにこそ日本列島の伝統(=歴史の無意識)である「進取の気性」や「無常観」がはたらいているのだ。あのときそういう付和雷同が起きてしまうこともまた日本人としての避けがたい運命だったのであり、そういう民衆の行動や感慨に宿っている歴史の無意識は、西部邁の知性や感性なんかよりも、じつはずっと深く高度なのだ。

衆愚政治はよくないといっても、知識人や権力者による衆愚を洗脳しようとすることの愚かさという問題もある。民衆は、洗脳を受け入れる。しかし、「拒否反応」とともに受け入れている。洗脳されるが、洗脳されない。けっきょくは洗脳するものたちの思う通りにはならない。
古代の権力者たちは仏教で民衆を洗脳してしまおうとしたが、そのためにそこから神道が生まれてきてしまった。そうして仏教それ自体も、その中心的なコンセプトである呪術や戒律がどんどん有名無実化していった。まあその結果として、江戸時代になって四国巡礼という民衆の習俗が生まれてきたのだ。それはもともと真言宗の僧侶の修業としてなされていたのであり、民衆の習俗になることによって、宗教を超えた旅の文化として完成されていった。そしてそのお接待を基礎とした旅人と地元住民とのかかわりは、縄文時代以来の伝統でもあった。
民衆は、洗脳されつつ、そこを超えてゆく。
なんのかのといっても歴史は、民衆の無意識とともに流れてゆくのだ。
太平洋戦争の惨状も戦後のアメリカナイズ化も日本列島の歴史の避けがたい運命だったのだし、日本人が日本人でなかった時代などというものは何処にもない。
日本列島の民衆は洗脳される。洗脳されたらいけないといってもせんないことだ。そこにこそ「進取の気性」がはたらいているのだし。進取の気性は必ず受けた洗脳を超えてゆく。
師匠に洗脳された弟子じゃなければ師匠を超えてゆくことはできない。それと同じことで、いつまでも師匠のあとを追いかけているのは師匠に追いついていないからであり、洗脳されていないからだ。
日本列島の住民は、洗脳されることを怖れない。洗脳されながら超えてゆく。
洗脳されるとは、ようするに深く感動するということ。生きていればそういう体験をしないですむはずがない。自分を捨てていれば、いやでも他愛なく感動してしまう。
そして自分を捨てる(忘れる)ことは自分に対する拒否反応であり、人は拒否反応とともに感動してゆく。拒否反応がはたらいていない感動などないのであり、それ以前の意識のはたらきそのものが、ひとつの拒否反応の上に起きているともいえる。

自分の外の世界の存在に「気づく(認識する)」ことは、みずからの身体存在に対する意識が消えている体験であり、生きものは根源においてこの世界の「異物」として存在しているから、避けがたく世界に気づいてしまう。「異物」としてこの世界から「消えてゆく」しゆく宿命を負っているのであり、世界に「気づく(認識する)」ことは、この世界から「消えてゆく」体験なのだ。
この世界から「消えてゆく」体験として、意識が発生する。この世界から「消えてゆく」体験として、われわれは感動し洗脳されてしまう。しかしわれわれはこの世界の「異物」なのだから、この世界に対する拒否反応も持っている。
「私=自分」という意識は、この身体とこの世界に対する拒否反応の上に成り立っている。根源的には、この身体でもこの世界でもないのが「私=自分」なのだ。まあ「意識」は、この身体(=脳)でもこの世界でもない「異次元の世界」で生成している。「異次元の世界」に消えてゆくように意識が発生し感動が起きる。
洗脳されるというその他愛なさは、そのまま知性や感性の貧しさを意味するのではない。むしろその他愛なさこそが知性や感性の深さや豊かさにほかならない。
一般的にいわれるカルト宗教等の「洗脳」は、目の前にニンジンをぶら下げられて追いかけ続けているのと同じで、洗脳されることができないで洗脳されようとする欲望のとりこになっているだけの状態にすぎない。洗脳されてしまったら、心はもう、その向こうに分け入ってゆく。
宗教は、死とは何かとか死んだらどうなるかということなどわかるはずもないのに、まるでわかっているかのように確信してその答えを提出してくる。そうして提出されたものたちは、その答えを追いかけ続けることをやめられなくなる。そこは、どんなにがんばってもたどり着けないゴールなのだ。彼らには、ほんとうの意味での洗脳されることすなわち「他愛なくときめいてゆく」ことができる資質に欠けている。どんな原因であれ、心を病んでそういう資質を欠いたときに、そのような欲望の永久運動にはまり込んでしまう。それは、洗脳されているのではない、洗脳されようとし続けているだけなのだ。したがってその病理は、「他愛なくときめいてゆく」心の動きを回復しないかぎり、けっして治癒されることはない。
現在の情報化社会においては、「目の前に答えがある」という情況を生かされてしまっている。だけど、死んだらどうなるかということなど誰にもわからないのであり、その「わからない=目の前に答えはない」という荒野に分け入ってゆくことが生きるいとなみであり、そこに立ってこそ「予期せぬ出来事」としての「感動する=ときめく」という体験がなされるのだし、感動してしまえば目の前には荒野が広がっているだけなのだ。そのとき、「もう死んでもいい」とか「もう何もいらない」と思うだろう。それが、げんみつな意味での「洗脳される」という体験なのだ。
「感動する=ときめく」という体験は「予期せぬ出来事」としてやってくる。だからわれわれは「サプライズ!」を演出しようとする。
目の前にニンジンをぶら下げられて追いかけ続けていることなんか、げんみつには「洗脳されている=ときめいている」とはいえない。宗教のやっかいさというか、たちの悪さ罪深さは、そういうところにある。
そして日本列島には、そういう宗教の罪深さを超えてゆく文化風土がある。
空海が偉いんじゃない。空海を慕っていった民衆の他愛ないときめきのほうがもっと本格的な知性や感性を宿しているのだ。
答を提出するというそのことにこそ、知性や感性の限界がある。
目の前のニンジンを追いかけ続けることなんかごめんだという思いとともに神道が生まれてきた。

今どきの日本人は猫も杓子もアメリカナイズしてしまっている、と批判することはたやすいが、戦後の日本列島の歴史は、つねにアメリカナイズしたところからどう生きてゆくかという問題をはらんでいたのであり、アメリカナイズしたところがゴールであるのなら、今ごろは伝統芸能も伝統工芸も伝統的な気質も習俗もとっくに滅んでいる。
それでも日本人は日本人なのだ。
終戦直後の「ギブミーチョコレート」といったり「パンパン」や「オンリー」としてアメリカ兵にすり寄ってゆくなんて敗戦による精神の荒廃だった、などとえらそぶって批判する知識人もいるが、民衆(とくに女子供)のそうやってかんたんに洗脳されてしまう他愛なさにこそ、もっとも日本的で本格的な「進取の気性」も「無常観」もあるわけで、そんな知識人は「鎌倉時代のなま女房ほどにも無常ということがわかっていない」のだ。
青い空が青く見えることは、身体と世界との関係に意識が「洗脳」されることであり、ただのモノクロームにしか見えない生きものがいたとしても、その意識が間違っているともいえないだろう。
意識のはたらきとは洗脳されることだ。そういう意識のはたらきの根源のところから人間的な知性や感性が育ってくる。究極の知性や感性は、意識のはたらきの根源に遡行することができる。そうやって「哲学」というものが生まれてきたのだろう。
民衆の無意識は、意識のはたらきの根源に遡行する。そうやって他愛なく洗脳されつつ、知識人や権力者を超えてゆく。歴史は、そういうことを教えてくれる。
ともあれ神道は、他愛なく仏教に洗脳されていった民衆の無意識が仏教を超えてゆくようにして生まれてきたのであり、その後の神仏習合によって仏教は神道的になり、神道は仏教的になっていった。
歴史は、英雄や偉人がつくるのではない、歴史の推移には、つねに民衆の無意識が作用している。それは、民衆が多数派だからというのではない、民衆の知性や感性がすでに英雄や偉人のそれを超えているからだ。
空海がどんなに天才だといっても、本気で加持祈祷を信じていったところにその知性や感性の限界があったわけで、民衆はそれに洗脳されつつも、そうした観念世界以前の無意識に遡行することができるし、それを超えてゆくこともできる。空海は加持祈祷の観念世界を超えることはできなかったが、民衆は超えていって見せた。

この世には、政治や経済や宗教でも救うことができない人がいる。救うというなら、その人こそ真っ先に救われるべきであり、そういう「生きられないこの世のもっとも弱いもの」を意識していない思想なんか僕は信じないし、そういうものにこそこの世でもっとも深く高度な知性や感性が宿っているのだ。
いや、この世は救われない人間ばかりで、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」だけがすでに救われている、というべきだろうか。
べつに大学者や大文豪や偉人や英雄がいちばん深く豊かな知性や感性をそなえているわけではない。彼らだって、この世のもっと深く豊かな知性や感性はどこにあるかと問うてゆくことができるだけなのだ。
たとえば……筋萎縮症が極限まで進行して瞬きすることしかできなくなってしまった人がいる。まわりの人たちはやがて、その瞬きで会話をすることができるようになった。その人はこういった。「自分にはもう、生きたいという望みも死にたいという望みもない、だから、いつ生命維持装置を外してくれてもかまないし、外さなくてもかまわない」と。
人はどんな不幸も受け入れることができるし、その不幸を受け入れることができるのはその人以外にいない。その人以上に深く高度な知性や感性を持った人間なんかどこにもいない。悟りだとかなんとかといっても、その純粋で透明で深く高度な知性や感性をわれわれは想像することができるだけで、持つことはできない。「生きられないこの世のもっとも弱いもの」にならなければもつことはできない。観念思考とか体感とかでどんなにがんばってもだめなのだ。それはもう「才能」の問題なのだから、どんな天才だろうとどうにもならない。天才の才能なんか、たかが知れているのだ。
それはつまり、人類の歴史の無意識の問題でもあり、誰もが生まれながらに宿している人類の歴史の無意識は、天才よりももっと天才なのだ。そして民衆派というか、生まれたばかりの子供は、天才よりももっと深く豊かに人類の歴史の無意識を心に宿している。
今を生きている知識人のことを引き合いに出すことはやめておくが、三島由紀夫にしろ折口信夫にしろ、その美しく巧緻な文章を読みながら、それでもどうしようもなく陳腐だなあと思ってしまうときがないではない。僕はそこに清浄な心映えというようなものを感じない。彼らよりも、生まれたばかりの子供のほうがずっと深く豊かで清浄な知性や感性をそなえている。
何はともあれ、日本列島の歴史に神道が生まれてきたことは仏教伝来と関連付けて考えるべきだし、それはまた、仏教を超えた日本列島の歴史の無意識について考えることではないかと思える。
歴史の無意識は天才の知性や感性を超えているのであり、それはまあ女子供にはかなわないということで、ことに日本列島の歴史は、女子供の知性や感性がつくってきたのだ。