内田樹という迷惑・不愉快なこと

内田氏が、「こんな日本でよかったね」という著書の中で、ものすごく気味悪いことを言っています。
イカフライ」氏が怒るはずだ、とあらためて思わせられました。
僕だって、むかついた。
他人を愚弄する、ものすごく差別的な発言です。
誰だって、つい口が滑る、ということはある。
僕も、つい、「このインポ野郎が」と言ってしまったりした。
だから、内田氏としても、本にするときはそういう部分を削除するはずで、していないということは、確信犯的に語っているということになる。
こういうことを平気で主張できるなんて、気味悪い人だ。
それとも、頭悪いのだろうか。
つまり、こういうことです。
この世の中はいわゆる「男社会」だから、多くの男たちが「いくばくかの<権力>や<財貨>や<情報>や<名声>や<文化資本>」を手にしている。
しかし、そういう「男であるだけで享受できるはずの特権」から疎外された男たちもいる。それはなぜかという理由を、内田氏はこう説明してくれています。
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それは、彼らには、どんなときもいつもそばで支えてくれる配偶者や家族や友人がおらず、引き立てる師匠や先輩がおらず、声援を送ってくれる弟子や期待をかけてくれるファンもなく、情報を提供してくれる協力者も、能力を発現する機会を探し出してくれるサポーターも、どれも持たなかったからだ。
どうしてそういうネットワークを形成できなかったかと言えば、それは彼らがコミュニケーションを通じて信頼関係を構築する能力を致命的なしかたで欠いているせいである。
人を信じることのできない人間を信じてくれる人間はいない。コミュニケーションへの深い信頼を持つことのできないものは、それが男であれ、女であれ、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する。
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まったく、厚顔無恥な差別主義者め。
じゃあ、この世の中は、「コミュニケーションへの深い信頼」を持っているものだけが「社会的リソースの分配機会」を得ているのか。
人を人とも思わないようないいかげんな人間でも、この社会で成功している人間はいくらでもいるじゃないか。孤独で貧しくても、ひといちばい清らかな人というのはいるでしょう。清らかで傷つきやすい心の持ち主であるがゆえにこの社会からこぼれていってしまう人というのは、いるでしょう。
ばかでぐうたらな人間でも、心にしみるような笑顔を持っていたりするじゃないですか。
多くの人に愛され、みずからも人恋しさに溢れているのにそうした分配機会にあずかれない人はいくらでもいる。
成功しなかった人間は、みんな人間のくずか。
成功すれば、それだけで人間としての誠実さを証明しているのか。
そんな図式が成り立つのなら、この世に愚劣な政治家などひとりもいない。
ようするに、内田氏自身がけっこう恵まれた「<権力>や<財貨>や<情報>や<名声>や<文化資本>」を手に入れたのは、ひといちばい「人を信じる」清らかな心を持っていたからだ、と言いたいのです。
「<権力>や<財貨>や<情報>や<名声>や<文化資本>」などたいしたことじゃない、私にとってはどうでもいいものだ、とつねづね言っておきながら、ここでは、人間の値打ちは、これらを持っているかどうかで決まる、と言っている。持っていないやつは、そういう人間としての資質を「致命的なしかたで欠いている」と言い立てている。
あきれるくらいえげつない差別意識だ。
そんな得手勝手な図式が成り立つはずがないだろう。
もしもそういう図式を探すなら、この場合の「コミュニケーションへの深い信頼」という言葉を「他人をたらしこむ能力と意欲」というふうに置き換えればよい。これなら、ほとんどまぎれはない。そういう人間は、おおむね成功する。
そりゃあもう、内田氏の「他人をたらしこもうとする意欲と能力」は、並大抵じゃない。
「コミュニケーションへの深い信頼」とは、「他人をたらしこもうとする意欲と能力」の別名なのだ。
人を信じる心とはべつに、「「他人をたらしこもうとする意欲と能力」を「致命的なしかたで欠いている」人は「それが男であれ、女であれ、組織的に社会的リソースの分配機会を逸する」場合が多い。
たとえば、着てゆく服が決まらないという理由でデートの約束の場所に行けなくなってしまう彼女のように。好きな女と一日中一緒に居たくて会社に行くのをやめてしまった若者のように。彼らは、「人を信じる心」がないのではない。その部分において、ひといちばいデリケートだったり熱っぽかったりしているだけだ。
人をたらしこむ能力を欠いちゃ生きてはいけないよ・・・・・・と言えばいいのだ。そしたらわれわれだって、そうですね、とうなずくしかない。
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内田さん、あなたがそこまで「社会的リソースの配分機会」を逸した者たちを差別するのなら、われわれだってこう言わせていただく。
あなただって、奥さんや娘に逃げられたじゃないか。それは、あなたが、奥さんや娘との「コミュニケーションを通じて信頼関係を構築する能力を致命的なしかたで欠いていた」からじゃないのか。
社会的な関係は、「人をたらしこもうとする意欲と能力」でなんとでもなる。しかし、男と女や夫婦や親子の切羽詰った直接的身体的な関係においては、それだけではすまない。
すなわちそれは、「すでにコミュニケーションが成立している関係」であり、コミュニケーションを解体してゆくことによって成り立っている関係なのだ。
コミュニケーションを解体してゆくことによって成り立つ「信頼関係(こんないやらしい言葉は使いたくないけど)」というものがある。その関係を維持する能力と誠実さにおいて、あなたは「致命的なしかたで欠いている」のではないのか。
まあ、欠いているのかいないのかわからないけど、そういう体験をしたからには「欠いているのかもしれない」という反省や含羞はあってもいい。
あなたは、どこか人間に対してニヒルなところがある。人を信じていないから、すぐ人をたらしこみにかかるのではないのか。そういう部分は、世間の人はごまかせても、家族という空間においてはごまかせない。
すくなくともあなたは「社会的リソースの配分機会」を逸した人たちを信じていない。彼らの「今ここ」にたいして、それじたいにおいて「イエス」という視線を持っていない。
しかしわれわれから見れば、他人をたらしこむことを断念した彼らのほうが、あなたよりずっと深くせつなく人間を信じている。
人間を信じすぎるから、だまされたりしてこぼれ落ちてしまう場合も多い。
内田さん、あなたはもうじゅうぶん社会の甘い汁を吸っているのだから、それ以上自分を正当化することもないじゃないですか。自分が社会的に恵まれているのは、どこか自分に欠落した部分があるのではないか、と思わないのですか。「受難」の中に身を置いている人間こそ神に近い存在だ、とレヴィナス先生はおっしゃっているのでしょう。だったら「社会的リソースの分配機会」から置き去りにされた人たちこそ「神に近い存在」なのではないのですか