内田樹という迷惑・オリンピックと雑感

「誰もがスピード社の水着で結果を出しているわけではない」と北島康介は言った。
その通りだ。今回のオリンピックで最大のライバルであったハンセンは、スピード社の水着をつけてのぞんだ本国での選考会の200メートルで後半失速し、出場権を失った。
イマジネーションで泳ぐ北島に対してハンセンは、自分の体と対話しながら力で泳ぎきるタイプの選手だ。
スピード社の水着は、体を締め付けて身体感覚を消してしまう。
しかしハンセンは、体への負荷のかけ方をあんばいしながら泳ぎをつくってゆく。だからそのとき、スピード社の水着をつけて身体感覚があいまいになっているために、体への負荷のかけ方に混乱が生じてしまった。
「こんなはずじゃない」と彼の頭は、パニックに陥ってしまった。そうして信じられないほどの失速のしかたで、後続の選手につぎつぎに追い抜かれていった。
一部のマスコミでは、それを、彼の「精神的な弱さである」と評したが、僕は純粋に技術的な問題だろうと思っている。
イメージで泳ぐか、身体感覚で泳ぐか、多分そういう問題なのだ。
ある水泳競技の関係者は、北島の泳ぎに対して「こんなに余分な力の抜けた泳ぎは今まで見たことがない」と語っている。
それくらい、イマジネーション豊かに泳いでいる。イマジネーションだけで泳いでいる。
身体を忘れさせてくれるスピード社の水着は、イマジネーションだけで泳ぎきることを可能にした。それは、北島にはうってつけの水着であったはずです。
もともと北島は、ぷよぷよの柔らかそうな筋肉の体型をしている。
ハンセンは、ギリシア彫刻みたいだ。
筋肉の柔らかい選手はイメージでプレーし、強靭な筋肉を持った選手は、身体感覚をたのむ。そういう傾向がある。
かつてのテニスのマッケンローとボルグの対比は、その典型です。小野伸二中田英寿のちがいも、そういうことがいえそうな気がする。
スポーツの好勝負というのは、おおむねそういうタイプの違うライバル同士によって演じられてきた。
北島は魚になろうとし、ハンセンは人間の身体の栄光を証明しようとした。
北島は自分の身体を忘れ、ハンセンの意識は身体と「一体化」しようとした。
身体感覚の時代からイマジネーションの時代へ、そういう潮流は、すでにはじまっているのかもしれない。これは、スポーツの世界だけのことではない。

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内田氏のように口からでまかせを無反省にたれながして「複数のボイスは美しい」などといってすましていられたら、そりゃあ気楽かもしれません。
言ったもんが勝ち、ということことでしょうか。内田氏の言う「コミュニケーションに対する信頼」とは、ようするに、そういうことです。そうやってコミュニケーションを信頼することは、人間を信じてしていないということでもある。
信じているなら、言う必要なんかない。信じている者は、「愛しています」なんて言わない。「愛してください」とも言わない。
小津安二郎の映画では、若い男と女が、晴れた空を見上げながらよくこんなせりふを交換する。
「いい天気だなあ」
「ほんと、いいお天気」
観客はこれだけでもう、この二人が愛を交換していることがわかる。
ここでは、「愛を語り合う」という「コミュニケーション」が解体されている。愛のことなんか何も言わないで、天気のことだけを言っている。
それでも彼らは、たがいに相手を信じようとしている。
「人を信じる」とはこういうことであって、たがいの愛を告白して「コミュニケーション」の有効性を信じあうことではない。
そこには、「コミュニケーションに対する信頼」などという制度的な身振りはない。
コミュニケーションが「解体」されている。
抱きしめ合えば、相手の姿は見えない。キスをすれば、話はもうできない。そうやってわれわれは、コミュニケーションを「解体」する関係に入ってゆく。
「いい天気だなあ」というせりふは、ものすごくエロチック(官能的)なせりふなのです。
キスをすることは、言葉を交わしあうコミュニケーションの有効性を無化することであると同時に、相手の言葉に直接ふれようとする行為でもある。
そのとき「言葉」は、「コミュニケーションの道具」としてではなく、「心」そのものとして信憑されている。言葉が心であるのではなく、心が言葉である、と信憑されている。
「社会から落ちこぼれた男たちは、コミュニケーションに対する信頼も能力も喪失しただめ人間である」と内田氏は言う。そう言ってコミュニケーションに対する信頼も能力も豊かなみずからの清らかさと優秀さを自慢してくる。
しかしねえ、「コミュニケーション」とは「他人をたらしこむ」ことでもあるのですよ。「他人をたらしこむ」ことに対する愛着と執着が強いことが、そんなに清らかなことですかねえ。自分じゃあ「人間を信じている」つもりらしいが、「他人をたらしこむコミュニケーション」を信じているだけであり、それは「人間を信じていない」ことと同義なのだ。
この低脳で品性下劣な大学教授は、「コミュニケーションを解体する」という人間のより深い関係や言葉の本質のことが、何もわかっていない。
コミュニケーションを喪失=解体して落ちこぼれてゆく人間のほうが、ときに「神」に近い存在であるのだ。
「人を信じていない」のは、内田さん、あなたのほうなのですよ。
人が人を信じようとするとき、コミュニケーションが解体されている。
家族や男女の関係は、コミュニケーションを解体する。
男と女は、コミュニケーションを解体して抱きしめ合い、キスを交わす。
内田氏には、コミュニケーションを解体するほどの人間に対する信憑がない。
愛の言葉を交し合うコミュニケーションと、抱きしめキスをするという言葉を交わし合うことの不可能性の中に身を置く行為と、あなたはどちらを選ぶのか。
そういうコミュニケーションを解体する行為に入ってゆくだけの人間に対する信憑がないから、女房子供に逃げられるのだ。
男と女のあいだでは、「愛し合う」ことよりも、「セックスする」ことのほうが大事なのだ。
そうやって「愛し合う」という「コミュニケーション=一体感」を解体しつつ、他者の身体の「孤立性」に驚きときめくことがセックスの快楽(浄化作用)なのだ。
べつにセックスしなくてもいいのだけれど、とにかく「人を信じる」ということは、相手と自分との一体感を確認することではなく、自分を忘れて相手(の身体)ばかりを感じてしまうことにある。
そういうタッチが、内田さん、あなたにはないのですよ。
だから、鈍くさい運動オンチなのですよ。