内田樹という迷惑・「自分らしさ」という幻想

ブレンダン・ハンセンは、自分の身体能力という「自分らしさ」を追及した。
いっぽう北島康介は、「自分(の身体)」を忘れて「魚」になろうとした。
200メートル平泳ぎ決勝、最後の150メートルのターンをしたあとの水中姿勢で、まっすぐ伸びた北島の体は水面と平行になって、もっとも水の抵抗が少ない姿勢になっている。足先が尾びれの役目をして、なおも「魚」になりきっている。
しかし北島を追いかける他の選手たちは、足先が頭よりも沈んで、斜めの姿勢になっている。
おそらくこの時点で、勝負は決している。彼らにはもう、北島を抜き去る余力は残っていない。疲れて下半身が沈んでしまうことを制御できなくなっている。もはや「魚」になりきれなくなっている。
カツオやマグロやサンマなどの回遊魚は、つねに体がジャストフィットできる水深を保ってまっすぐ泳いでゆくことができる。いや、ほかの底魚だって、つねに水面と平行の姿勢を保って泳いでいる。彼らの体が斜めになるのは、死の直前だけだ。
水面と平行になることが、最も水の抵抗が少ない姿勢である。正確にいえば、進む方向と平行になって、頭だけしか抵抗を受けない姿勢。
水深10メートルで体がジャストフィットできる回遊魚が、気がついたら50メートルの深さを泳いでいた、というようなへまはぜったいしない。彼らは、10メートルより深くなっても浅くなっても、体に違和感をおぼえる。違和感として、体を意識してしまう。
10メートルの深さなら、違和感が発生しないから体を意識しない。彼らは、体を意識しない深さを泳ぎつづけてゆく。そのとき意識は、目の前の空間にまっすぐ伸びた「チューブ」を見ている。それは、水面と平行になっているみずからの姿勢をそのまま延長していったかたちでイメージされている。そういうイメージは、体を意識していないから見ることができる。
生き物が体を動かすことは、「身体意識」によってではなく、身体を逸脱した「空間意識」によって成り立っている。
「肉体=物質」としての身体ではなく、意識されない「非存在」としての身体。生き物は、そういう異次元の身体イメージを持っている。
ヴァレリーは、これを「第4の身体」といった。
そのときなおも魚になりきっている北島ひとりが、ゴールまで伸びるまっすぐの「チューブ」を描いていた。
体が斜めになってしまった他の選手たちのそれはもう、きっとたよりなくぼやけていたに違いない。
北島は、「自分らしさ」など求めなかった。「魚らしく」あろうとしたのだ。
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われわれが何を言おうと、内田氏のほうも、わるずれした学者言葉を次から次へと発信して人をたらしこみつづけているのだから、この流れはもう止まらない。そう思うと、悲しい。
べつに世の中の役に立ちたい気持などさらさらないが、そんな世の中に身を置いているのは、けっして愉快なことではない。
なんであんなゲス野郎が、のうのうとのさばりかえっているのだろう。
いい人ぶって、虎視眈々と人をたらしこもうと身構えてばかりいるだけじゃないか。
内田氏の言う「他者との一体感」なんてくだらない。J・ラカンの説を引用しながら、「<私の言葉>は<他者の言葉>である」という。そういう「一体感」ですね。そういう「一体感」につけ込んで、他者をたらしこみにかかる。ご立派なことだ。
しかし誰だって、自分の存在を忘れるくらい、他者の存在に驚きときめくことがある。そのとき自分なんか忘れているのだから、「一体感」など持ちようがない。
そこにコップがある、と認識する。そのとき意識は、コップだけを意識して、意識している自分のことなど忘れている。意識は同時に二つのことを意識することはできない。これ、心理学や哲学の常識です。他者を他者として認識することは、自分を認識することのできない状況において成り立っているのだ。
「私の言葉」は、「他者の言葉」に「反応」している言葉であって、「他者の言葉」それじたいではない。
「私」は「他者の言葉」を模倣する。それは、「模倣する私」の言葉なのだ。
なぜ模倣するかといえば、「他者の言葉」に「反応」しているとき、「私」など忘れているからだ。「私」など忘れている「私」がいる。それを「主体」という。
「他者の言葉」に気づくのは、「私」ではない。「私」を忘れた「主体」である。
「認識」するとは、「私」を忘れる体験のことだ。
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内田氏によれば、「自分らしさ」とは、「みんなと違う欲望を持つこと」なのだそうです。
「<私の言葉>は<他者の言葉>である」と言った人が、こんなことを言うかなあ。
われわれは、避けがたく他者と欲望を共有してしまう。「私」は、避けがたく他者の欲望を模倣してしまう。それはもう、しょうがないことです。
誰もが、同じ時代を生きている。
べつに内田氏だけが原始人のように熊の毛皮を着て町を歩いているわけでもなかろう。
Tシャツを着ていようと、スーツを着てネクタイをしていようと、同じ「現代人の服装」にすぎない。
内田樹など見向きもしないで徒然草を読んでいると言っても、どちらも「本を読む」という欲望の範疇だ。そんなことで、自分の欲望は他人の欲望とは違う、と言ってもせんないことだ。
「自分らしさ」などというものはない。あるいは、人と同じ欲望を持とうと持つまいと、自分が自分であることそれじたいが「自分らしさ」だ。
人と違う欲望を持っているから「自分らしさ」持っているなんて、そんな優越意識などくだらない。内田さん、あなただってみなと同じように「現代人の欲望」の範疇で生きているのですよ。
俺は他人とは違う、と思うことで「自分らしさ」を確認しようなんて、いやらしいスケベ根性だ。
「自分らしさ」は、この身体が他者の身体と分かたれているというそのことにある。
現代の若者は「自分らしさ」を追い求めながら、けっきょく人と同じ欲望を持つばかりでそれを見失っている、と内田氏は言う。そうして、「自分らしさ」は、私のように人と違う欲望を持つことにあるのだ、という御託宣を下す。
そうやって自慢しながら、若者を安く見積もって見下すと同時に、誰もが胸の奥に抱いている「俺は人とは違う」という意識をくすぐってゆく。
みごとな詐術だ。
しかし、たとえば、金が命だと思うことと、金よりもずっと大切なものがあると思うことと、そんな違いなど目くそ鼻くそなんだよ。この世に「大切なもの」なんか、あるのか。
その「大切なものがある」という執着心というかスケベ根性というか欲望というか、そんな観念をわれわれ現代人は共有してしまっている。
内田さん、他人をさげすんで自分を正当化しているひまがあったら、まずそのことを問えよ。
「自分らしさ」など、どうでもいいだろうが。
他人との違いを確認して「自分らしさ」に浸っているなんて、卑しいスケベ根性だ。
他人との違いは、この身体存在のありようにある。
「他者(の身体)と一体化する」とほざきながら、他者を見下して「自分らしさ」を確認してゆく。この世の中には、そうやって気の合う他者(の身体)と一体化したいと願いつつ気に食わない他者を見下して自分らしさを確認しようとしている人間がごまんといる。それが、現代人だ。そういう卑しい思い込みを正当化してくれる内田氏のスケベったらしい言説が受けるはずだ。
かないません。この流れは、いったいいつまで続くのでしょうかね。