「ひとりでは生きられないのも芸のうち」か?29・雑感

内田樹ファンの友人から、僕が書くことは内田氏に似ていると言われました。それはとても心外なことで、正直言ってすくなからず傷つきました。
内田氏なんて、ただの知識オタクが観念で言葉をいじくりまわしているだけです。言っちゃなんだけど僕は、ひとりぼっちで自分の全存在と全人生をかけて問うている。世界中を敵にまわす覚悟で問うている。
内田氏は学問研究の成果として語っているが、僕は、自分がここまで生きてきたことだけをカードにして問うている。俺のほうがずっと「根源」を問うているという自信がなければ、こんな暑苦しい空騒ぎなんかしていない。僕が身を削るようにして問いつめたことが、どうしてあんな口先だけのたわごとと一緒にされなければならないのか。
たとえば内田氏はよく「他者はわからない存在であるからこそ愛することができるのだ」という。そのくせ、「他者の<承認>を得ることによって自己のアイデンティティが確認される」というようなことを言う。口先だけの脳みそしか持っていないから、こんな矛盾したことを平気でいえるのだ。
他者が「承認」してくれたかどうかなんてわかりようもないことです。人の心の中なんか、誰にもわからない。内田氏のような自惚れの強い人間は、いつも他者に「承認」されているという自覚を持つ体験をしているのだろうが、僕は、他者に「承認」されていると思ったことなんか一度もない。僕は誰も承認していないし、誰からも承認されていない。僕は他者を拒絶しているし、他者も僕を拒絶している。抱きしめあうとは、拒絶しあうことだ。他者の身体に対する「違和感」、そこから快楽が生まれる。拒絶する「違和感」があるからこそ、そのとき僕は他者の身体ばかりを感じてしまう。内田氏のいうように「一体化」するということは、他者の身体のことなんかそっちのけで、自分の身体が二倍になったことだけを感じているということですよ。そういう下品で程度の低い独我論で愛の本質や武道の極意を語られても、なんの説得力も僕は感じない。
つまり、内田氏の「他者のことはわからない」という言説は口先だけのことで、実はすっかりわかったような気になって生きているのですよ。そうしてあちこちでその馬脚を表している。
「他者のことはわからない」ということは、僕にとってはこの生の実感であるが、内田氏にとっては口先だけの知識に過ぎない。そこのところを一緒にされたくない。
内田氏は、「他者のことはわからない」と考えることのレベルが幼稚なのですよ。「わからない」というやつが、「他者の承認を得る」なんてことをいうなよ。「他者の承認を得る」ということがそんなに大事なら「わからない」という認識など全部否定するくらいの覚悟をしてみせろよ。
「他者のことはわからない」ということをつきつめて考えれば、人間は根源において他者を「拒絶」している、という認識にたどり着くほかないのですよ。そこにおいて「人間」という概念をどう立ち上げてゆくかがわれわれの思想の課題なのではないだろうか。
こんなこと、頭の薄っぺらな学者に言っても通じないでしょうね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は、学者よりも庶民の方がずっと「根源」を問うて生きているということを、内田氏をはじめとする学者連中に思い知らせてやりたい。われわれはそれを語る言葉においてハンディキャップを負っているだけのことだ。
べつに途方もないことを言っているのではない。明日死んでしまうかもしれない人は、僕よりもずっと深くこの生の「根源」を問うている。その人に比べたら、内田氏の問い方など、屁みたいなものです。
僕は、明日死んでしまうかもしれない人に寄り添ってものを考えたい。ニーチェだろうとレヴィナスだろうと内田樹だろうとメじゃない。
このレポートは、僕がちょっとだけ知っている明日死んでしまうかもしれない人の弔い合戦みたいな意味もあります。だから、容赦はしない。内田氏だろうと誰だろうとかかってこいよ、と思って書いている。
僕は、自分のちょっとした気まぐれで、彼女の最後の時間を見届けてやることができなかった。この喪失感は、見届けてやった人にはわからない。僕は、弔い合戦をしなければならない。このブログが炎上することなど、もとより覚悟の上です。
僕は、内田氏が得意然と語るような生きることの意味や意義などわからない、人がどう生きればいいかということなどわからない。なぜなら、僕にとっては、どう生きてゆけばいいのかという問題など存在しないからです。自分が「いま生きてある」ということ以上のことは、よくわからないからです。うまく実感できないからです。
僕は、自分がいま生きてあること、すなわちこの世界の「今ここ」を肯定することしかようしない。われわれには「今ここ」しかないのだから、この世界の「今ここ」をぜんぶ肯定してゆくしかないのだと思っている。そういうことを、明日死んでしまうかもしれないその人から教えられた。17歳の彼女はつねに「今ここ」をこの世界のすべてだと思い定めて全身で反応しながら生きていた。内田氏のごときのうてんきなあほとはわけがちがうのだ。
内田氏が、愛しているだの愛されているだのと自分は誰よりも正しく充実した生き方をしていると吹聴しまくるのを、うざったいとは思いませんか。僕は、自分以外の人間は誰もが自分より正しく充実した生き方をしていると思っているから、こんなグロテスクな人間は気味が悪くてしょうがない。まあそうやって彼は、自分の失われた青春(あるいは愛)を取り戻そうとしているのかもしれないけど、僕には「今ここ」しかないから、取り戻すべき青春も愛もない。過ぎてしまったことはなかったも同じだと思っている。
愛だとか幸せだとかいい人生だとかいい社会だとか、そういうものを得ないとちゃんと生きたことにならないかのような言い方ばかりして、内田さん、あなたの思想は恨みがましいのですよ。この世のもっとも不幸な人よりあなたの人生の方が正しく充実しているとは、僕はぜんぜん思わない。不幸な人にしか見えない真実や世界の輝きというのもあるのですよ。
あなたが不幸な人より深く他者に愛されているかどうかなんてわからないですよ。あなたにしたら、俺はひといちばい他者に愛されているといいたいのだろうが、ただちやほやされているだけで、誰もあなたのことを愛していないのかもしれないですよ。あなたみたいな立場の人は、他者との関係に余計な要素が混じりすぎて、愛しているとか愛されているとかという体験をすることは不可能なのです。つまりあなたに、他者を愛しているとか愛されていると言う資格はないのですよ。そういうことを純粋に体験できるのは、もっとも不幸な人だけなのです。わかりますか。わからないだろうな、その恨みがましい思考回路では。
それに、あなたは、あなたが思っているほど魅力的な人間ではないですよ。あなたのような立場の人はそれに気づくことは困難かもしれないが、われわれ庶民はそういう人間の法則をちゃんと自覚しているのですよ。
僕は、人を愛しているとか愛されているとか、そんな思い上がったことはとてもじゃないがよう言わないし、そんなことを言いたくなるほど恨みがましい気持もない。僕は、自分なんか愛していない、幻滅している。
僕は、自分に幻滅していない人間は、虫が好かない。
僕は、この世のもっとも不幸な人から順番に救われてゆくべきだと思っているから、自分も含めたマジョリティが救われる思想なんか、ぜんぜん興味がない。
明日死んでしまう人のことを思ったら、おめえが愛だのへったくれだのとほざくことなんか、ちゃんちゃらおかしいんだよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「今ここ」を肯定するとは、「今ここ」に幻滅することでもある。幻滅するくらい深く気づくことです。そこがやっかいなところで、「愛とは幻滅することだ」と言った哲学者がいるが、それは当たっているように思えます。
たとえば、通りで前から歩いてきた人とぶつかりそうになって、思わずよけた。それは、幻滅するくらい他者の身体に深く気づいたからです。ただぼんやりと気づいただけでは、よけたりはしない。ぶつかりたくないくらい幻滅したのです。無意識の自分が「身体の危機」を感じたのです。そしてその幻滅は愛でもある。それほどに他者の存在を確かに気づいたのです。そうして、結果的には、他者のために他者の前から消えようとした。
身体が消えることの恍惚がある。そのもっともヴィヴィッドな体験として、ペニスを膣の中に迎え入れているときのオルガスムスがある。われわれは、消えようとする衝動を持っている。それは、みずからの身体=生に幻滅するほどに深く気づいてしまっているからです。であれば、意識が身体=生から解き放たれることは、ひとつの快楽になる。それが「消える」という体験です。まあ、ややこしい問題だが、スポーツだろうと武道だろうと、この「消えようとする衝動」の上に成り立っている。このことを、内田氏はわかっていない。武道だけではなく、人間理解の問題としてわかっていない。
僕は武道なんか何も知らないが、武道の根源については、内田氏よりも僕のほうがよく知っている。僕は、あんなどん臭い運動オンチではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれの身体は、孤立して存在している。他者と一体化することなんか、誰にもできない。他者と抱きしめ合うことは、一体化することではない。自分の体(に対する意識)が消えて、相手の体ばかりを感じることです。それほど確かに感じるくらい他者の身体を拒絶しているのであり、拒絶してみずからの身体が消えてしまう。
抱きしめ合うことの恍惚は、他者の身体がより確かにあらわれることとみずからの身体が消えてゆくことのその落差のダイナミズムとしてもたらされる。
われわれの意識は、根源において他者の身体を拒絶している。拒絶するくらい確かに感じないと、みずからの身体(に対する意識)は消えてゆかない。すなわち素早く動くことはできない。素早くかわすとは、それほどヴィヴィッドに相手の身体に気づくということであって、素早く身体を動かすということではない。ヴィヴィッドに気づけば、体は勝手に動くのであり、ヴィヴィッドに気づいた度合のぶんだけ素早く動く。
相手の攻撃をかわすとは、身体を「今ここ」から消すことです。投げ飛ばすことだって、他者の身体に対する拒絶反応です。抱きしめ合うことの恍惚も武道も、他者の身体に対する拒絶反応とみずからの身体を消そうとする衝動の上に成り立っている。
拒絶するくらい他者の身体をヴィヴィッドに感じていなければ、みずからの身体に対する意識は消えてゆかない。抱きしめあったとき、身体はもっとも確かに消えてゆくことができる。生きることはみずからの身体を消して「今ここ」から立ち去ることであり、そのような身体が消える行為のダイナミズムとして、セックスや武道やスポーツがある。
われわれの身体は、拒絶反応によって他者の身体とつながっている。
身体が動くとは、身体が「今ここ」から消える(=立ち去る)、ということです。他者の身体と出会うことによって、はじめて消えようとする動きが生まれる。他者の身体とぶつかりそうになってよけることも、他者と抱きしめあうことも、他者の身体を「応力」として「今ここ」から消える(=立ち去る)行為にほかならない。生き物としての身体は、世界=他者と出会ったときの「拒絶反応」によってはじめて動くことができる。「動こうとする衝動」などというものがあるのではない。「拒絶反応」によって「今ここ」から消えようとするのだ。
内田氏の理論によれば、他者と抱きしめ合うことは他者と一体化して身体が二倍になったとイメージすることだ、ということになる。くだらないですよね。それは、おたがい他者のことなど忘れて自分の身体が二倍になったことだけを感じている、ということですよ。セックスの醍醐味は、みずからの身体が消えてゆくことにある。ヴァギナの中にペニスが入ってきているとき、ペニスばかりを感じて、ヴァギナに対する意識は消えてしまっている。そのとき意識は、ペニスを拒絶するほどにペニスをヴィヴィッドに感じている。ペニスをヴィヴィッドに感じるぶんだけヴァギナに対する意識が消えている。相手と一体化して二倍の身体になることであるという内田氏の説明など、ただのインポ的不感症的論理にすぎない。運動神経の鈍いやつのたわごとです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれは「今ここ」に幻滅するから明日に向かうことができるのであって、明日に希望があるからではない。明日は、希望が持てるほど確かな時間ではない。
腹が減って鬱陶しいと感じることは、「今ここ」に幻滅することでしょう。痛いとか痒いとか、暑いとか寒いとか、すべて「今ここ」を幻滅するというかたちで気づくことです。腹が減れば飯を食うように、寒ければセーターを着るように、そうやって「今ここ」から逃れようとすることが生きるいとなみになっている。この生は、そういう力学の上に成り立っている。生きる=動くということには、何かしらの「応力」がはたらいている。生きたいから生きる、動きたいから動くのではない。
われわれはすでに「応力」を受けて生きてしまっている。そのことに驚いたりときめいたり身悶えしたりしながら生きている。
「応力」が生まれる契機は、「世界に気づく」という体験にある。けちな「自己意識」で生きようとか動こうとかしているのではない。ちんちんは立たせようと思うから立つのですか。「世界=女の体」に深く気づけば、勝手に立ってしまうでしょう。そんなようなことです。生きようとする「自己意識」が「本能」だなんて、世間の学者連中は、インポテンツの論理で生き物を規定している。アメーバは、空間にたいする身体の反応として動いているのであって、動こうとする「自己意識」で動いているのではない。
内田氏によれば、そういうけちな「自己意識」こそが「人間性の基礎」なのだそうです。まったく、笑わせてくれる。そうやって人がどう生きていけばいいのかとか、この社会がどうなればいいのかというようなことを知ったかぶりして吹聴してばかりいやがる。内田氏のそういう言説は、この社会にEDが蔓延していることに加担している。だって、インポの論理なんだもの。
人間性の基礎は、どんな生き物よりも深く世界に気づいてしまうことにある。「幻滅する=愛する」くらい深く気づいてしまうことにある。この資質によって人間は、一年中発情している生き物になったのだ。
ともあれ、他人の人生を指図する資格など誰にもないでしょう。いったい誰に時代を背負う能力があるというのか。時代のことは、時代が決める。人間が時代をつくっているのではない、時代が人間をつくっているのだ。われわれは時代に反応して生きているのであって、時代をつくって生きているのではない。
また、「未来のことはわからないから生きるに値するのだ」と言っておきながら、その一方では、正義づらして他人の未来や時代の未来に干渉するようなことばかり言い立ててくる。そのようなみずからの思考態度になんの反省もない底の浅さには、いいかげんうんざりさせられる。
他人がそういう意見を欲しがっているから言ってあげているのだと言い、それが誠実な態度だと思っていやがる。そうやっていつの間にか未来がわかっているつもりになり、未来を語ることが正義だと信じ込んでゆく。自分のその俗物根性が、愛だとか正義だと言って居直ってくる。だから内田氏の思考は、どこまでいっても「根源」に届かない。もっともらしく聞こえることも、けっきょくは口先だけなのだ。
こんなことは言いたくなかったけど、17歳のちょいと気の強い不運な娘に、ああそうだよね、と共感してもらえるようなことが内田氏に書けますか。彼の書くことなんか、この国のお気楽でいくぶんか知的なマジョリティに自己正当化の論理を与えてやっているだけじゃないですか。言っちゃなんだけど、僕と内田氏とでは、思想の格が違うのですよ。もちろんこのブログに興味を示してくれる知的な立場の人だって、いないわけではない。
学者よりも、庶民の方が思想の格が上なのですよ。この世の中には自分よりも深く世界に気づいている人がたくさんいるということを、内田氏はなんにもわかっていない。自分がいちばんだと思っていやがる。学者なんかそれくらい脳みそが薄っぺらだということです。薄っぺらな脳みそに知識をためこんでいるだけじゃないか。そんな「こそ泥の風呂敷包み」みたいな脳みそを、誰が尊敬するものか。