内田樹氏が結婚の意味だか意義だかを得意になって語っていることに対する感想を、も少し付け加えておきます。
しかし、皮肉なものです。結婚に意味も意義もあるものかという僕が30年ものんべんだらりとそういう関係を続けてきて、意味や意義を深く認識しているはずの内田氏がすでに離婚してしまっている。
内田氏によれば、人間が結婚するのは結婚することに意義があるからであり、結婚することはその意義に殉じることなのだとか。その意義をちゃんと認識していれば、どんな苦労や不快にも耐えられるのだとか。
僕は、こういうものの言い方は嫌いです。人間は、「意味や意義」に殉じて生きてゆく存在ですか。「意味や意義」がなかったら、生きるに値しないのですか。「意味や意義」を信じていれば、ほんとうにどんな苦労や不快にも耐えられるのですか。
いやなものはいやでしょう。僕は、「意味や意義」のために生きてゆくことなんかようしない。
「結婚はするに値するのだ」という言い方は、「この戦争はするに値するのだ」と言っているのと同じ論理ですよ。ファシズムと同じですよ。戦争の意義だろうと結婚の意義だろうと人間の尊厳だろうと、そうやって「意味や意義」を掲げて生きてゆく人種というのはいるのですよね。いまどきの大人たちは、たいていの人がそうかもしれない。そして僕のように「そんなもの、おら知らん」というだらしない人間は世の中の動きから振り落とされなければならない。
しかし冷静に考えれば、内田氏はそういう「意味や意義」がないと生きてゆけない強迫観念を負っている、ということかもしれない。かっこつけたって、ちっとも自由じゃない。バーバリーのコートを着ていないとナイスな「ちょいわるオヤジ」になれないと思い込んでいるダサイお父さんとちっとも変わりゃしない。
つまり「原理主義」というやつです。現在の団塊世代から40歳くらいまでの戦後世代の大人たちは、誰もが少なからずそういう傾向を持っている。戦争をしたがるのも、ちょいわるオヤジになりたがるのも、結婚の意義を言い立てるのも、けっきょくは原理主義です。
内田氏はようするに、別れた奥さんは「結婚の意義」を深く理解できなかった、と言いたいのだろうか。そして、その意義を深く理解している俺に落ち度はなかった、と。
そんな恨みがましいことを言っていいのでしょうかね。いや、言いたければ言えばいいんですけどね。しかしもしかしたら、奥さんだってそんな「意義」くらいじゅうぶん深く認識していたのかもしれない。それでもいやだった、いやなものはいやだった、「意義」などというものにしばられて生きたくなかった、「意義」を押し付けられることなんかごめんだった、「意義」で生きているこの人とは一緒に暮らせない、しょせん別の人種だ、生まれた星が違うのだ、と思ったのかもしれない。
まあ、他人の結婚生活のことなどわかりようもないのだけれど、内田氏の言い方には、自分を正当化しようとする強迫観念をどうしても僕は感じてしまう。原理主義者は、自分を正当化するのです。
もし僕の女房が明日僕を捨てて逃げていったら、僕は、彼女の選択は正しい、といいますよ。結婚などというものに意義も意味もないのだから、いやならさっさと逃げていけばいいだけです。そして逃げられたのは、僕がしょうもない男だったからだ。それだけのことだと認めますよ。
内田氏は「一度結婚した以上この人と生涯添い遂げるのだという不退転の決意を持って結婚に臨めば、誰も離婚しない」というようなことを言います。こういう言い方はステレオタイプです。みんなそのつもりで結婚するのですよ。しかし世の中の人は、内田氏ほど「原理」や「決意」の価値にしがみついて生きているわけではないのですね。
「いやなものはいやだ」という気持を、内田氏はぜったい認めようとしない。そこがこの人の怖いところです。われわれ凡人は、こうすればいいとわかっていてもできないときがある。でも内田氏は、そんなへまは絶対しない。人間は、こうすればいいとわかっていれば必ずそうするはずだと、あたりまえのように思っている。そりゃあそうするにこしたことはないが、そうもいかないのが人間社会でしょう。世の中は、内田氏みたいな人間ばかりで構成されているわけではない。
それに、あやまちを犯すことにも、それなりの味わいがある。あやまちを犯さないほうがいいとは、かならずしもいえない。
結婚なんて、ただの「あやまち」かもしれない。
僕なんか、寒かったから結婚しただけです。結婚の意義なんか、なあんも考えなかった。
「いやならやめてもいいのだ」というということを前提にして結婚するから離婚する羽目になるのだ、とも内田氏はいうのだが、ずいぶん人をばかにした見方だというか、考えることが安直過ぎる。たとえ「不退転の決意」で臨んだとしても、長く一緒に暮らしていれば、そのうちにはDVとか経済破綻だとかアル中だとか不倫の三角関係だとか、人それぞれいろんな事情が生まれてくるでしょう。亭主がくちゃくちゃ音を立てて飯を食うのが耐えられない、ということだって、立派な理由だと僕は思う。いやなものはいやなのです。
台所にゴキブリが出たのを見たとたん、結婚に対する気持がすっかり覚めてしまった、と言った奥さんがいます。その気持は、なんとなくわからなくもない。
別れてもいいと思っているから別れるのだ、という内田氏の言い草なんて、勘ぐれば、たんなる個人的な別れた奥さんに対する恨み節かもしれない。そんなことを離婚の普遍的なかたちとして規定してしまおうなんて、まったく世の中をなめている。
結婚なんか、なんの意義も意味もないのだから、別れたっていいのです。いちいち内田氏に裁かれるいわれはない。
言い換えればですよ。なんの意義も意味もないのだから、かんたんにできるだろうということです。いちいち意義や意味を詮索するから結婚できなくなったり、マリッジ・ブルーになったりするのでしょう。結婚なんて、ただの「あやまち」です。「あやまち」を犯すことのできないその強迫観念こそ現代の病理だと僕は思う。いやならやめればいいのです。しかし、子供ができるとか、めんどくさいとか、いろんな事情で別れられなくなる夫婦も生まれてくる。それでいいんじゃないのですか。
結婚の意義がどうとかこうとか言い立てて人を脅迫するより、夫婦はどうして別れられなくなるか、ということを考えたほうが、僕はよっぽど建設的だと思う。
いちばんの理由は、めんどくさいからでしょう。その理由がなかったら、僕のような夫婦は何千回も別れていた。
いいかげんなくっ付き方をするから必ず別れるともかぎらない。
僕なんか、同棲からずるずる婚姻関係に移行していっただけだから、結婚式も上げていない。女房は不満かもしれないが、僕は、結婚式を挙げた夫婦がうらやましいと思ったことなんか一度もない。だって、結婚なんか意義も意味もないんだもの。どうして結婚式をしなきゃいけないのですか。
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内田氏が結婚の意義として力説しているのは、「人間を人間たらしめている決定的な資質とは<他者と共生する能力>である」ということです。くだらない。何を薄っぺらなことほざいてやがる。「共生」することくらい猿でもペンギンでもしてるって。「共生」するだけなら、猿やペンギンの方が上手かもしれない。
「人間の資質」というのなら、「他者に幻滅する」ということのほうがずっと人間的でしょう。「幻滅する」なんて、猿やペンギンにはできないですよ。人間はそういう能力を持っているから、離婚することは仕方がないのです。
夫婦はたがいに幻滅しあいながら、それでも一緒に暮らしている。それはなぜなのだろう。「共生」なんかしたくないのに、それでも結果的に一緒に暮らしている。
それは、「共生」していないからです。たがいに「拒絶」しているからです。人間は、「拒絶」する相手を必要としているからです。他者を拒絶していないと、自分にばかりこだわって落ち着かなくなってしまうからです。他者を拒絶しているときだけは、自分のことを忘れていられる。抱きしめあうとは、拒絶しあうということです。拒絶して相手の体ばかり感じている。
「共生」している状態なんか、快感でもなんでもない。自分が消えている状態こそ快感なのです。セックスしているときはもちろん、料理やアイロンがけをしているときだって、自分を忘れている。
人間には、やりたいことよりも、やらされていること、やるよりしょうがないことが必要なのです。それは、自分の意志でしていることではない、自分を消してしていることです。
「共生」する場ではなく、「自分を消す」場が必要なのです。
いつも自分と向き合っていたら、そりゃあしんどいですよ。そういうことから逃れようとして、人は結婚するのだろうと思います。
「あなた汗臭いから、すぐお風呂に入りなさいよ」と言うとき、彼女は、「共生」することを拒絶している。夫の身体を拒絶している。夫に幻滅している。しかしそれによって彼女は、自分と向き合うことから解放されている。社会には「幻滅」を表現できる場がない。それくらいあからさまに「幻滅」を表現できるのは、家庭だけです。そしてそういう体験は、男よりも女のほうがより必要としている。したがって、幻滅(拒絶)できる隙を見せない男と一緒に暮らすと息がつまる。
「共生」することは息がつまることなのです。「共生」することが結婚することの意義だなんて言っている内田氏と一緒に暮らす奥さんは、きっと大変だろうと思いますよ。
家庭とは、もっとも安心して他者を拒絶できる場なのです。
としをとれば、妻の顔も体型もだんだん崩れてゆく。性格だって、横着になるばかりです。まあ、おたがいさまですけどね。たぶんそれでいいのでしょう。なぜなら、おたがいに幻滅の対象として存在しているのだから、べつにパートナーが美しい必要など何もない。自分以外の人間がそばに存在しているということは、それはそれで貴重なことかもしれない。「共生」する必要はないが、「共生」を拒絶することは必要なのです。「共生」を拒絶することこそ「人間を人間たらしめている決定的な資質」なのです。ひとりぼっちでは拒絶できないし、拒絶してひとりぼっちになろう(自分を消そう)とするのが人間なのだろうと思います。そしてそのとき人は、パートナーの顔かたちや心(人格)ではなく、「存在」そのものと向き合っている。
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人と人は、相手の気持がわかったような気になってよろこんだりいらだったりする。その一方でわからなくて途方に暮れたりもする。そこで内田氏は、こう言う。
「結婚は、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである」と。
どうしてこんな人を見くびったことばかり言うのだろう。他者の気持ちがわからないということくらい、あんたに言われなくても誰だってわかっているさ。結婚なんかしなくても、生きていれば自然におぼえていくことじゃないですか。学校の教室でも会社のオフィスでも、みんなそうやって共生しているのだ。
相手の気持がわかるとかわからないということなんか、どうでもいいのです。そんなことくらい、誰でも知っている。夫婦は、そんなことで別れたりくっ付いたりしているのじゃない。
別れる夫婦は、それなりにやむにやまれぬ事情があるのだし、わからないから尊敬するとかうんざりするとか、そんなことはどうでもいい。顔かたちや心(人格)とは関係なく、もっと根源的に相手の存在そのものに対する感慨がある。そこでどんな感慨を持つかというところで、別れたり別れなかったりするのだ。そういう「関係の機微」というものがある。相手のことを理解できるとかできないとか、理解されているとかいないとか、そんなレベルで人は別れたりくっ付いたりしているのではない。
「他者はわからないからリスペクトできるのだ」なんて、内田さん、言うことが安直過ぎます。尊敬はしているけどもうときめかないから別れる、という夫婦はいくらでもある。リスペクトで夫婦がつながっていることができるなんて、そんなものはたんなる制度的幻想なのだ。夫婦はリスペクトし合わなければならないなんて、あんたに決められたくはないんだよ。リスペクトなんて、どうでもいいんだよ。尊敬されているのに女房に逃げられた男はいくらでもいるのだ。
そんなことではなく、相手の「存在」そのものに対する感慨がある。これは、ややこしい問題なのですよ、内田さん。あなたの頭じゃわからない。もちろん僕にもわからないが、そういう問題があるということだけは承知している。あなたのように、夫婦(あるいは男と女)のことが人格の問題だけで片付くとは思っていない。
「存在」そのものの問題においては、拒絶するためにこそ他者は必要なのです。
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男と女が一日一緒に暮らせば「事件」でしょう。十年続けば、「奇跡」でしょう。そのことにおどろけばいいだけでしょう。一緒に暮らせるはずのない男と女が一緒に暮らしているのです。
いや、この世界に「奇跡」でない出来事など何もない。誰もが、「私」と「あなた」が今日から一緒に暮らすことは「事件」であり「奇跡」である、と思って結婚生活をはじめる。それは、そのとおりなのです。「あなた」がすてきであることも、「あなた」を愛していることも、結婚に「意義」があることも、すべてはどうでもいいことです。「あなた」と「私」が一緒に暮らすということそれじたいが「奇跡」なのです。この地球の歴史のたった一回きりの出来事です。そのことに、無邪気に喜べばいいだけでしょう。結婚の意義がどうとかこうとか、そんな薄っぺらな猿知恵なんかどうでもいい。人間は猿と違って、どうでもいいことを無邪気に感激したりする感性を持っているのです。
内田氏は、「婚姻は人類の歴史と同じだけ古い制度である」というのだが、そうじゃないのです。人類700万年の歴史の、たった7千年ほどのことです。日本列島では、縄文時代が終わってからのたった2千年の歴史しかないのです。もともと「家族」は、女と子供だけの空間だったのです。そこに、共同体の発生とともに「男=父」が挿入されただけのことです。家族における「男=父」は、ほんらいよけいな存在なのだから、「女=母」に捨てられても仕方がないのです。
つまり、たかが結婚するくらいのことに、うそくさい「意味」だとか「意義」などというものを持ち込まないでくれ、ということです。服を着替えるように、かんたんに別れて何度でもすりゃいいじゃないですか。「意味」や「意義」を信奉して生きるなどという内田氏の、その原理主義という強迫観念を他人にまで押し付けることはないでしょう。
「共生することこそ人間性の基礎である」なんて、そんな、女に捨てられた男の恨み節みたいなせりふなんぞ、聞きたくもない。
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