女の性感帯は、隠された部分にある。
つまり、世界から「疎外」されている部分にある。
女の性器は、身体の構造からいってももっとも外界から遮断されたところにあり、まず太陽の光にあたることはない。そういう疎外感が、性的快感の水源になっている。
腋の下も、ほとんど日に当たらない部分です。だから、どうしても敏感になる。若い娘にとってそこはくすぐったいだけだが、セックスの経験を積むうちに、とくべつ感じる部分に変わってくる。
乳房のふくらみは、女の体でいちばん目立つ部分であると同時に、ブラジャーなどで厳重に隠されている部分でもある。目立つから、隠そうとする。
女の体は、世界との関係を拒絶している。より深く拒絶している部分で、より深い性的快感が生まれる。
おっぱいの大きい女はあんがいおっぱいを触られても感じない、小さめのおっぱいの方がむしろ敏感だ、とよく言われる。おっぱいの大きい女は半分見せつけている気分があり、その部分における「疎外感」がうすい。それにたいして小さい女は、コンプレックスがあるから、なお隠そうとする。そういうこだわりの強さが、その部分を敏感にしているのでしょう。
ペニスを拒絶しているからこそ、ペニスを入れてその部分を処罰しようとする。性感とは、処罰して消してしまうことの快感であろうと思えます。
おっぱいを触られることの快感は、おっぱいを消してしまうことにある。
おっぱいは、下半球に大きく重力の干渉を受けている。だから、その部分で強くその存在が意識され、羞恥心もそこにたまっている。上半球を見られることにはあんがい耐えられるものらしく、このごろは胸繰りの大きく開いたTシャツも着られるようになってきた。しかしそこにもはや羞恥心がないということは、そのぶん触られてとくに感じるということもない、ということを意味する。それだけ日本人も乳房が大きくなって上半球と下半球の羞恥心の落差が大きくなった、ということかもしれない。それに日本人の女は、西洋人の女よりもそのあたりの肌がずっときれいだ、ということもある。
女にとって身体は、外の世界からの「疎外」において、そのアイデンティティが確かめられている。そしてその「疎外」の状態を「処罰」することによって、快感が生まれる。
いやな男がそばに立っていれば、それだけで体じゅうの皮膚がざわざわする。それくらい彼女らは、身体の「疎外感=拒絶反応」が強い。みずからの身体が外の世界と関係することは、そのアイデンティティが侵害されることであり、みずからの身体を強く意識してしまう事態でもある。しかし、その侵害してくる対象(ペニス)に憑依していったとき、みずからの身体に対する意識は消えてゆく。彼女らにとっては、みずからの身体を意識しない状態こそが、みずからの身体のアイデンティティを確認している状態なのだ。
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内田氏の「女は何を欲望するか?」で語られている「テキストを読む」ということも、セックスをするということと、行為の本質においては同じでしょう。
ロラン・バルトは、「テキストは、ひとつの結論に向かって<読み解かれる>のではなく、多様な方向に<解きほぐされる>のだ」と言っています。
それを受けて内田氏は、テキストを読むことと「自分」という意識との関係をこう説明する。
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読者が自分は誰であるかを知り、自己を実現するのは、その読みを通じてである。読み以前には、彼は自分が誰であるあるかを知らないばかりか、彼はいまだ何ものでもない。読者は、読みつつ、存在し始めるのだ。
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こういう解釈こそ、フェミニにストの女性たちが嫌う「ヨーロッパ的ロゴス中心主義」というやつでしょう。
ロラン・バルトの言うように「多様な方向に解きほぐされる」のであれば、それによって「自己実現」して「自分が存在し始める」ことなんかできないでしょう。「結論はこれだ」と確信するのではなく、そんな自分を喪失して「言葉の海(カオス)」に投げ入れられてしまう。
「読む」という行為は、自分が消えてしまう体験であるはずです。そうやって夢中になれなければ、眠くなってきたりイライラしてきたりするだけです。眠くなるとは、言葉の世界に入ってゆけなくて「自分の存在」を持て余してしまうことです。
そりゃあう内田氏のような優等生は、ますます「自分」が張り切りだすのだろうが、僕なんかはおもしろければ自分を忘れてしまう。テキストの意味を読み解こうとするような意志など消えている。
「読者は、読みつつ、消えてゆく」のだ。
対自的な自分がいちいち言葉の読み方や意味を吟味しなくても、即自的な自分が勝手に言葉に「反応」していってくれる。言葉に憑依して「自分」を忘れているのが、「テキストを読む」という行為なのではないだろうか。
E・レヴィナスは、読むことには読者の「懇請」する意志が加わり、それが読みを深くしたりユニークにしたりしている、と言っているそうだが、そんな意志など消えて、ひたすら言葉に「反応」しつづける。「自分が生起する」のではなく、「自分が消えてゆく」のが、「読む」という行為なのだ。
そのとき「懇請」する意志が「処罰(消去)」され、意識が対象に憑依してしまっている。
「自分」などというものはないのです。ひたすら対象が存在するということがイメージされている。
それは、セックスをしているときの女と一緒でしょう。われわれが人を抱きしめているときと同じでしょう。ひたすら相手の体だけを感じている。「自分」なんか存在していない。消えているのだ。
それが「テキストを読む」という行為なのではないのですか。
女と抱きしめ合って、ああおっぱいのふくらみがたしかにふたつある、と感じること、それは、他者の身体というテキストの意味を「解きほぐす」体験でしょう。
内田氏の研究やがり勉野郎の受験勉強じゃあるまいし、「テキストを読む」という行為に「懇請」という作用や「対自的な自分」などはたらいていない。「自分が生起する」ことなど、なんの快楽でもないのです。そんな鬱陶しい認識は、「自分」をまさぐることばかりしているインポ野郎の観念の中だけで起こることだ。「自分が生起する」のではなく、自分が消えて「世界が生起する」のだ。
「即自的な自分」だけになってテキストに「反応」してゆくこと、それが「読む」という行為でしょう。
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人間は、根源的に他者を拒絶している。だから、いやな男がそばに来ると、体じゅうの皮膚がざわざわしてしまう。身体は、隠されてあることによって、そのアイデンティティが確認されている。
で、そういう自分を「処罰」してアイデンティティを消してゆくことが、生きるいとなみになっている。
人間は、他者を拒絶しているから、群れ集まろうとするのだ。人間性の基礎は、他者を拒絶する自分を処罰することの快楽の上に成り立っている。
原初の人類は、密集した群れにおいて他者の身体とぶつかり合うことが、しんそこ鬱陶しかったのです。そしてそんな自分を「処罰」して、二本の足で立ち上がった。立ち上がって他者とのあいだの「空間」を獲得することによって、ますます他者を拒絶し、なんとかその「空間」を保とうとするようになった。他者を拒絶することが「空間」を保つことだった。
女は、膣の中に入っているペニスを拒絶している。拒絶しているから、その行為が自己処罰になっている。だから、ペニスを怖がって暴れる。ペニスにも暴れさせようとする。そうやって女は、みずからの身体を「処罰」している。そのときペニスと膣のあいだには「根源的な疎外」が横たわっている。
レイプがなぜ不自然かというと、そのとき女の「自己処罰の衝動」と「ペニスを処罰しようとする衝動」をともなっていないからです。それは、処罰したいペニスではない。人間は、根源的には他者を「拒絶」する生きものです。レイプは、そうした衝動の両方を奪われて、他者を拒絶するという根源の意識だけを肥大化させてしまうからです。
人間は、根源的に他者を拒絶している生きものだから、女はレイプによって壊れてしまうのだ。
内田氏が言うように、女が、他者の「愛」だの「承認」だの「欲望」だのを感じてそれをみずからのアイデンティとするような存在だったら、レイプによって壊れることはないですよ。なぜならそこには、他者の「愛」も「承認」も「欲望」もあるからです。レイプ犯は、勝手に彼女を「愛」し、彼女を女として「承認」し、勝手に「欲望」を募らせている。そして彼女は、体じゅうでそれを拒んでいる。そのとき彼女の人間性は、そういうことをすべて拒絶したところに成り立っている。すべて拒絶しながら、なお相手の身体に憑依してゆくのが女のセックスの流儀であり、ふだんのセックスそのものが壊れることと紙一重のきわめてあやうい行為なのだ。男の身体を拒絶しつつその身体に憑依してゆくのか、憑依できなくてみずからの身体(の痛み)や、それを自覚する「自己意識」ばかりに浸されながら壊れてゆくのか、それは紙一重でしょう。すなわち「自分が生起する」ことによって、女は壊れてしまうのです。
オルガスムスとは「恐怖する自分が闇の中に消えてゆくこと」であり、レイプされることは、「恐怖する自分が闇の中に浮かび上がること」なのだろうと思います。
自己意識に執着する内田氏なんか、自分じゃ常識人のつもりだろうが、ある意味でそうとう不気味な人間ですよ。女は自己意識で壊れてしまうが、内田氏は、それをアイデンティティとして生きてゆける。彼のフェミニズム批判も、ようするにそういうスタンスです。レイプされることは、「自分が生起する」ことだからめでたいじゃないか、と言って批判しているのです。
女は、自己処罰の衝動を誘発してくる男にひかれる。それは、レイプと紙一重のところにある。レイプされると、女は壊れる。しかしみずからの自己処罰しようとする衝動を誘発してくるペニスを膣に入れると、深い快楽と浄化作用(カタルシス)がもたらされる。
女はほんとにややこしくて、僕にはさっぱりわからない。
女には、いきなり顎を持ち上げて唇を奪われてみたいと思う瞬間があるそうだが、その瞬間を逃すと、永久にやらせてくれない。
こんな不可解で残酷なことも、人間は根源的に他者を拒絶しているからだろうと思えます。
いずれにせよ女は「男にやられている」のではないということ、自分で自分を「処罰」し、ペニスを処罰しようとする衝動の上にセックスが成り立っている。
女は、「受身」であるのではないのです。ほんとに受身であるのなら、レイプで壊されるということもない。
われわれは、彼女らの自己処罰の衝動とペニスを処罰しようとする衝動なしにちんちんを入れさせてもらうことはできないのです。
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