内田樹という迷惑・女の中の拒絶反応

人は、みずからの生を拒絶している。
この生に幻滅している。
この生を拒絶して、自己処罰する。そこから「快楽」が生まれる。
セックスのときに女が汲み上げる快楽の深さは、自己処罰の衝動によってもたらされる。
快楽のない生は、貧しい。自己処罰のない愛は、卑しい。自己処罰のないところから、他者に対する関心は生まれてこない。
人は、自分を愛するように他者を愛する、というようなことはできない。
なぜなら他者は、「自分ではない」からだ。自分のように愛するのではなく、自分ではないということそれじたいに深い関心を寄せることができなければならない。
そういう関心は、自分に幻滅しているところからしか生まれてこない。
自分を処罰して自分を忘れているときに、はじめて他者の姿があらわれる。
意識は、自分と他者を同時に認識することはできない。
そして、他者に気づくとは、他者を拒絶することだ。意識は、拒絶するというかたち(違和感)でしか認識することはできない。
拒絶することが、愛することだ。
拒絶することなしに快楽が生まれてくることはない。
この生を拒絶すること、そこに快楽がある。
自殺することが死という希望に向かって跳躍してゆくことだとすれば、われわれは、この生に対する幻滅それじたいを生きるほかない。
幻滅は、快楽を保証する。自己に対する幻滅は、世界の輝きを保証する。
「死にたい」という「希望」なんか持っちゃいけない。
いっさいの「希望」を拒絶すること。われわれが何かに感動したり、われを忘れて何かに夢中になっているとき、この生のいっさいの「希望」を拒絶(喪失)している。じつは、そういう状態を、誰もが体験している。
コップをコップと認識すること、見上げた空が青いと認識すること、それじたいがこの生のいっさいの「希望」を拒絶(喪失)した意識の上に成り立っているのだ。
他者の存在は、「希望」ではない。なぜなら、他者は「私」が生起する前に「すでに存在している」からだ。他者に気づくことが「私」が生起することである。したがって、「私」の意識が他者に向かうことは起こりえない。「私」の意識は、他者(=世界)を認識したところからはじまっている。
他者に気づいてときめくとき、「私」は他者の存在を拒絶するほどに、その現前にとらわれてしまっている。「私ではない」ということ、それが、他者が他者であることの証しなのだ。
「・・・・・・ではない」という認識、それは「拒絶反応」である。そしてわれわれがそういう認識の仕方をするのは、この生を拒絶しているからだ。
この生を拒絶することが、この生を肯定することなのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根源的には、この世界はなにもない「空間」である。われわれは、「空間」に存在している。生きものとしてのわれわれは、「空間が」がなければ、動くことはできない。「世界」の根源は「空間」である。言い換えれば、関心のない対象は、「空間」と同じなのだ。
しかし他者は、その何もないはずの「空間」に、「空間ではない」存在としてあらわれている。その「違和感=拒絶反応」がときめきなのだ。他者は、何もない「空間」ではないという驚き、それが「ときめき」なのだ。そしてそのときみずからの身体存在が消失して「空間」になっていることの浄化作用(カタルシス)がもたらされる。
その浄化作用(カタルシス)を「ときめき」という。
意識は、自己と他者を同時に意識することはできない。他者を意識しているとき、自己(の身体)にたいする意識は消えている。
この生に幻滅しているものは、自己の身体の消失に浄化作用(カタルシス)を覚える。たぶん誰でも、そうやって浄化作用(カタルシス)を体験している。
たぶん誰でも、どこかしらでこの生に幻滅している。
幻滅しているから、浄化作用(カタルシス)という感動や快楽を体験するのだ。
この身体に幻滅していないのなら、ペニスなんか勃起しない。膣の中にペニスを招き入れても、快感なんかなんにも生まれない。痛いだけだ。痛いことはこの身体に対する関心であり、快感は他者の身体に対する関心である。
女がなぜ「痛み」に強いかといえば、みずからの「この身体」に対する幻滅が深く、愛着としての関心が薄いからだ。
女は、みずからの身体を「幻滅」というかたちで関心を寄せている。だから、みずからの身体を容赦しない。そうやって、子を産む。
女は、みずからの身体に幻滅しているから、みずからの身体が消失してゆく浄化作用(カタルシス)を深く体験することができる。そうして、深く他者の身体(ペニス)に気づくことができる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「愛」というなら、これが原点だろう。他者を愛することではなく、他者に気づくこと。内田先生、この違いがわかりますか。前者はみずからの身体を拠点とし、後者の身体は消失している。
「愛する」とは、「愛している自分」を表現する言葉だ。しかしわれわれが「他者に気づく」とき、「自分」は消失している。したがって「愛する」ことは、根源的に不可能なのです。「他者の存在」に気づくことを前提にするなら、「私」は存在できないのです。存在できないことのときめきが、他者を認識するという行為です。
「私」から他者に向かうことはできない。だから、「愛する」ことはできないのです。「私」は、根源的に他者に「遅れて」存在している。他者が先行して私の前にたちあらわれる。意識は、すでに他者にとらわれてしまっている。
内田先生、あなたの言う「始原の遅れ」など、口先だけなのですよ。
男は、ともすれば「自分を罰する」ことを回避したがる。それは、卑しい態度です。あなたは、それを自覚していない。だから、自分を忘れて他者に気づく、という体験を記述できない。男なんて後生大事に「自分」を抱えこんで生きているだけだということ、その卑しさにに気づかないあなたの言説は、他者を喪失している。