内田樹という迷惑・品性の問題

小津安二郎の「小早川家の秋」という映画で、ある女優が「<品行>というのはあとからなんとでもなるが、その人の<品性>というのはもうどうすることもできない」というようなことを言っていました。
だから、結婚相手は「品行」がいいかわるいかではなく、「品性」を持っているかどうかで選びたい、というわけです。
「品性」を持っていないやつにかぎって、「品行」や「品格」で自分を飾ろうとする。
正しい行いをすれば「品行」がいいと言われるし、言葉づかいがよかったりいい服を着ていれば「品格」があるとも言われ、それらはあるていど努力で身につけられるが、「品性」の問題は、その人が持って生まれたどうしようもない人間性と関わっている。
「持って生まれた」ということは、いいとか悪いとかという判断ができない、ということです。それは、生まれたあとからだんだん身についてゆく知恵です。
言い換えれば、品性なんか誰でも持っている。生まれたばかりの赤ん坊の無邪気な表情、疑うことをしらない素直さ、よいわるいの判断なんかいっさいしない、そういう無邪気な素直さのまま大人になってゆければ、その人は「品性がある」と判断される。
そういう生まれたときのままに近いかたちで知性や趣味のよさや道徳を持っている人のことを、「品性がある」という。それはうまれたときのままのかたちなのだから、いいも悪いも上等も下等もない。誰の中にも、ひとつの「根源」としてそなえている人間性のことです。
したがって、「いい品性」とか「上等な品性」などというものはない。誰もそんな言い方はしない。ただ「品性がある」とだけいう。
それに対して、「品性がない」とか「下劣な品性」とか「品性が卑しい」という言い方がある。
「品性」とは、いいわるいではなく、あるかないかの問題です。
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どこかの品性下劣なおばさんが「女性の品格」とかいって大受けしているらしい。
「品性」を持っていないから、「品格」で自分を飾ろうとする。
「品性」とは、ありのままの自分のことです。飾る必要のないありのままの自分で勝負できる人のことを、「品性がある」という。
言葉遣いや礼儀作法で自分の「品格」を飾ろうとするのは、そういう「品性」を持っていない人のすることです。
「品性の卑しい」おばはんほど、そういう作為が上手なのだ。「ありのままの自分」が下劣で卑しいから「品格」で飾ろうとするのだ。
「品格」など持とうとしないのが「品性」です。「品性のある」人は、「品格」で自分を飾ろうとするようなスケベ根性など持っていない。
「品性」とは、誰の心にも底深くに流れている「地下水」のようなものです。そういう「地下水」が表面に滲み出る人と出ない人がいる。
「品格」で自分を飾ろうとする「卑しい品性」を持っていたから、あのおばはんは、高級官僚や大学の学長になったりすることができたのでしょう。
あのおばはんは、「品格」を持とうとする自分の卑しさに、少しは含羞を持ったほうがいい。含羞を持つことによって、はじめて「品性」が滲み出る。
「品性がある」という問題は、とても難しい問題です。生まれたばかりの子供のような視線で世界や他者を見つめることができるか。これは、誰もが意識の根源に持っている視線であると同時に、誰ももうそれを表立っては取り戻すことができない。そういう問題です。
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しかし、品性の卑しさは、すぐにわかるし、大いに目障りなものです。

僕が内田氏を批判し続けるのも、その言説にどうしようもない品性の卑しさを感じて、目障りでしょうがないからです。
自分の「品行」や「品格」を飾ることばかりしている。他人なんて自分を飾るための存在だとしか思っていない。その態度というか思想が、めちゃめちゃむかつく。あのおばはんと一緒です。
生まれたばかりの子供は「自分」など持っていない。ひたすら世界や他者に気づくことが彼の仕事です。厳密にいえば、「自分」に対する興味など持っていない。彼にとっての「自分」は、空腹だとか、苦しいとか、オムツにおしっこがたまって気持悪いとか、身体の危機として知らされているだけです。自分(身体)のことなど忘れて世界や他者に気づいているときこそ、彼の幸せです。
自分に興味があるなんて、ほんとに卑しいことです。少しは生まれたばかりの赤ん坊を見習ったほうがいい。
生きていれば、いやおうなく自分(身体)を知らされる。自分(身体)にわずらわされる。それだけのことだ。
鈍くさい文学・思想オンチは、自分にこだわっている。鈍くさい運動オンチは、身体に執着している。そこに、内田氏の言説の卑しさがある。
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内田氏のブログから、とうとう自由に発言できるコメント欄が消されてしまいました。申しわけ程度にそういうスペースは残されたのだけれど、もう管理人側の徹底管理とともに字数も制限され、十把ひとからげにして載せられているだけです。字数無制限のブロガーどうしの丁々発止のやり取りなんかできなくなってしまっている。
これじゃあ「イカフライ」氏も「やまと魂」氏も、もうあほらしくてコメントする気になれないでしょう。というか、出入り差し止めになったのかもしれない。
けっきょく内田氏は彼らに負けて、「言論統制」の暴挙に出た、というわけです。
彼らのいうことがあまりにくだらなくて誰も見なくなった、というのではない。大いに盛り上がって、任意の第三者はこぞって彼らの発言に注目していたのですからね。そうしてたぶん、ほとんどの人が内田氏よりも彼らの発言のほうを評価するようになってきていたのです。
あのコメント欄は、みんなが自由に好きなだけ発言できて、ひとりひとりの「思い」がちゃんと浮かび上がってきていた。そこがいいとこだったのに、こんなふうに統制管理してしまったら、もう一人一人の「顔」が見えない。
内田氏は、匿名の発言は無視することに決めている、と言っていたのに、無視することができずに、統制管理し始めた。
自分で自分に泥を塗る行為をしてしまった。
まあ、なんとでも言い訳すればいいさ。
しかしわれわれは、あらためて内田氏に対する軽蔑を深くした。
そして、こういうかたちで彼が延命し、のさばりつづけることに、さらなる悲しみと怒りをおぼえます。
このことに、僕はどう反応すればいいのだろうか。
とにかく、こんな卑しい発言がのさばりつづけるなんて、ひどすぎます。
理路が正しいとか間違っているとか、そんな水掛け論だけをするつもりはない。内田氏の発言は「卑しい」のだ。「品性」が下劣なのだ。何よりそれがいいたいのです。
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イカフライ氏が登城した最後の内田氏のエントリーは、受験生の前で公演してそれが受けた、という自慢話でした。
それでまあイカフライ氏は、こう批判した。そんな卑しいことばかり言っているからあなたは、女房子供(娘)に逃げられるのだ。べつに女房子供に逃げられることじたいは恥でもなんでもないが(そんな男はこの世にいくらでもいる)、それでいて家庭運用のことは誰よりも俺が一番よく知っているというような恥知らずな言い方をすることはないだろう。あなたには「含羞」というものがないのか、と。
イカフライ氏の言う通りです。親子の関係や夫婦の関係はこうすればうまくいく、というようなことを、あちこちで自慢たらたらに吹きまくっているのです。
個人のプライバシーをあげつらうのはアンフェアだ、という暗黙の約束事を逆手にとって、この人は家庭運用の達人かと思われそうなことをとうとうとまくし立てるなんて、ある意味でとても卑劣で姑息な行為です。そうやってナイーブな人たちがころりと騙され、本が売れているのです。売れたらこっちのものだ、ということですか。
いくらなんでもそりゃないだろう。あんたがそこまで言うのなら、われわれだってもう「女房子供に逃げられたやつが何をえらそうにほざいてやがる」と言い返すしかないじゃないか、おまえには「含羞」というものがないのか、と批判したイカフライ氏の趣旨には、僕もまったく同感です。
「含羞」のない内田氏のこの発言態度は、まさに「品性」の卑しさそのものです。
金も社会的地位もある品行方正な男が女房子供に逃げられるなんて、本人に人間的な魅力がなかったからです。金や社会的な地位が人間的な魅力の証しになるわけではないし、品行方正なことだってその証明にはならない。ようするに、人間的な魅力としての「品性」がなかったからだ。
まわりがなんと慰めてくれようと、本人はもうそう自覚するしかない。しかし内田氏は、まわりがそうじゃないと言ってくれているのだから、俺に落ち度はなかった。俺は誰よりも家庭運用をうまくやってゆく能力も資格もあるのに、あいつらが勝手に逃げていったのだ、というりくつで家族論を吹きまくっている。
「自分の正しさ(存在証明)は他者の承認によって得られる」、内田氏お得意のせりふです。その「他者」とは、まわりの慰めてくれる人間なのか。そうじゃない、あなたが女房子供に逃げられたという事実においては、女房子供こそ「他者」だろうが。あなたは、女房子供に「承認」されなかった。あなたを承認しなかったことによって彼らは、よりビビッドに「他者性」をあなたに突きつけたのだ。それはもう、そういうことだと受け止めるしかないのですよ。受け止めて地面に頭をこすりつけるしかない。そこにおいて、あなたの「品性」が試されているのですよ。イカフライ氏が「含羞」といったのは、そういうことなのだ。第三者が慰めてくれるから俺は正しいと納得している場合じゃないのですよ、ほんとに。
内田氏によると、そういうときに「おまえはそれでいい」と言ってくれる友人こそ、真の友人なのだそうです。
そうでしょうか。僕だったら、「おまえは地面に頭をこすりつけて出直せ。逃げた女房子供を否定するより、まず自分を否定しろ」と言ってくれる友人のほうが、真の友人だと思う。そういう友人は、自分が立ち直るまでちゃんと見守っていてくれる。しかし「おまえは悪くない」と言ってくれた友人は、それでもう友人としての務めを果たしたと安心し、自分が立ち直ってゆく過程を見守ってくれることもない。つまり、友人の苦悩に付き合おうとするだけの友情を持っていない。友達がほがらかになれば自分も安心して付き合える、てか。そんなものが友情かね。
内田さん、あなたは女房子供に逃げられたことに対して、地面に頭をこすりつけるような身悶えを体験していない。だからあなたの家族論や愛についての考察は薄っぺらであり、卑しいのです。
だからイカフライ氏に「含羞がない」と言われなければならないのだ。
家族論や愛に、正しい方法なんか何もないのだ。人間的魅力だけが勝負であり、しかし家族や愛の現場においてそれを持ちつづけることは絶望的に困難なことだと、われわれはもう自覚するほかない。
家族は、「幻滅」が支配する空間である。人間的魅力だけがたよりであると同時に、人間的魅力が成り立たない空間でもある。(ここがロードス島だ、ここで飛べ)。そういうことをひといちばい骨身にしみて体験しているはずの内田氏が、とくとくと人間的魅力や方法論の有効性を吹きまくっている。こののうてんきな愚劣さは、いったいなんなのだ。
僕なんかひといちばい自分の人間的魅力に悲観し、なんの方法論も持っていないから、いつ女房子供に捨てられてもしかたないという覚悟だけはしている。
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イカフライ氏が登場した最後の内田氏のブログにおける内田氏のエントリーの内容は、次のようなものです。
内田氏は、ある予備校で受験生に講演をした。その内容は、受験勉強は、今すぐ役に立つことがなくても、いずれ何かの役に立つときがくる。たとえば、五十年前に世界ではじめて小型ヨットで太平洋を横断した堀江謙一氏の手記をもとにしてつくられた「太平洋ひとりぼっち」という映画のこと。彼は、来る日も来る日も水平線しか見えない太平洋の真っ只中で、海に浮かんでいる一枚の板切れを拾った。拾ってすぐ捨てようとしたが思いとどまって、キャビンの中に置いておいた。あるとき猛烈な暴風雨に会い、キャビンの丸窓のガラスが割れてしまったが、その板切れで水の浸入を防いで九死に一生を得た。ああそうか、と私は、そのシーンがとても印象深く記憶に残った。そのように、今どうでもいいことでも、いつか役に立つときがくると思って関わってゆくのが真の知識である。目先のことだけにとらわれていてはいけない。まあそんなようなことを話したそうです。
しかしねえ、勉強(学問)とは、何かの役に立てるためにすることでしょうか。この人は「効率」とか「役に立つ」とか、そんな損得勘定のことばかり言っている。ふだんは、私は「金」のことなんかどうでもいいと思っている、とかっこつけたことを言っておきながら、けっきょくこういうところですぐ馬脚をあらわす。
金なんかどうでもいいと自慢したがる卑しさがある。だって、そんなことはあたりまえのことだから、自慢になりえないのだ。金に興味がないことが自慢になると思っている、そのスケベ根性が卑しいのだ。興味がないということは、興味がないという自覚がない、ということです。興味がないと自慢することじたい、大いに興味を持っている証拠なのだ。
ほんとに目先の利益なんかどうでもいいのなら、遠い先の利益のことも当てにするなよ。愛なんかどうでもいいといってみせろよ。愛だって、自分の利益、他人の利益の話だろうが。愛する喜びも愛される喜びも、ただの「利益」の話だろうが。金なんかどうでもいいと見得を切るなら、そこまで「利益」を否定してみせろよ。このゲス野郎が。
「品性」が下劣なのですよ。こればっかりは、どうしようもない。東大を出て少々頭がいいくらいでは、隠しようもない。
目先のことだろうが遠い未来だろうが、学問なんか、役立つ利益のためだけにするものでもないでしょう。
生きていれば誰もが何かしらの「問い」を持ってしまうから、学問があるのでしょう。「問いを学ぶ」と書いて、学問という。それは、「答え」という利益を得ることではない。「問い」の中に入ってゆくのが学問だ。
他者や世界に向かって問いを発することは、答えを求めることではない。問わずにいられない謎を感じるからだ。問うとは、他者や世界に気づくことだ。
謎に気づくことが学問のセンスであって、答えを導き出すことではない。そうやって答えという利益を得ようとすることではない。
たとえばマスコミのどんな質問にも即答してみせるとか、内田氏は、「答え」を見つけることが特技だと自慢しているのだが、それじたい「利益」ばかり追いかけているみずからの「品性」の卑しさをさらけ出していることにほかならない。
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太平洋ひとりぼっち」の映画の話に戻りますが、そのとき堀江青年がなぜ「板切れ」を捨てられなかったかというと、いつか何かの役に立つかもしれないと思ったからではない。来る日も来る日も水平線しか見えない日々が続けば、もうこの世に人間なんか存在していないのではないかと思えてくる。自分がもう、世界の外に紛れ込んでしまったのではないかという不安が募ってくる。そんな中で、一枚の「板切れ」と出会ったのです。それは、この世に人間が存在することの痕跡なのだ。その希望ゆえに、彼は捨てることができなくなってしまった。そのうち何かの役に立つかもしれないと思ったからじゃない。それは、この世に人間が存在することの証しだったのだ。その板切れが、自分はまだ人間の住む世界に存在しているという希望や慰めになった。その板切れが希望であったことの象徴として、暴風雨のシーンが挿入されている。
「人間はどこまで孤独に耐えられるか」、そういう問題として世界の人びとが彼の冒険に注目し、そういうテーマでこの映画がつくられたはずです。
「そのうち何かの役に立つかもしれないと思ったからとっておいた」だなんて、なんと卑しい視線であろうか。「品性」の問題です。こんな卑しい視線でこの冒険をとらえている人間がいただなんて、ちょっとした驚きです。こんな文学的想像力のかけらもないゲス野郎が大学で文学を教えているというのだから、ぞっとする話です。