内田樹という迷惑・他者は「私」を「承認」しない

「私のアイデンティティは、他者の<承認>によって得られる」と内田氏は言う。
しかし他者の「異質性」を根源的に問うなら、他者は「私」を「承認」しないほどに異質な存在である、ということになる。「承認」しないことが、他者の「他者性」なのだ。
われわれは、他者と出会ってときめくこともあれば、思いきり幻滅することもある。いずれにせよそれは、他者に対する違和感です。われわれにとって他者は、違和感を覚えるほどに「異質」であり、違和感としてときめいたり幻滅したりする。
われわれは、他者を「承認」していない。他者は、良くも悪くも「承認」できるほど味気ない存在ではない。
内田さん、あなたの奥さんや娘があなたのもとから去っていったのは、あなたを「承認」しなかったからだ。それはもう認めるしかない。他者は、「私」を承認しない。「私」もまた、他者を「承認」していない。われわれにとって他者は、「承認」できるほど味気ない存在ではない。
内田氏は、自分の秘書たちがよく働いてくれてとても役立つから、彼女らに対して「あなたなしでは生きてゆけない」というメッセージを送っているのだそうです。そしてこの言葉こそが「他者に対するもっとも高度で純粋な愛の表現」であるのだそうです。
まったく、何をおちゃらけたこといってやがる。自分を肯定してくれる第三者だけが「他者」だなんて、のうてんきにもほどがある。
秘書なんか、あくまで社会的な関係の「第三者」に過ぎない。それとも、秘書たちをぜんぶ「てごめ」にして愛人にしてしまっているのですか。それなら、「他者」であるといえるかもしれない。
なにはともあれ、逃げていったあなたの奥さんや娘は、あなたにとってのもっともビビッドな「他者」として、あなたを「承認」しなかったのだ。それはもう、認めるしかないのですよ。
女房子供に逃げられたことなど恥でもなんでもないし、僕からしたらうらやましいくらいのものだが、「承認」されなかったことを認めようとしないあなたの思考や言説は、しんそこ軽蔑します。
「承認」してくれる第三者が真の「他者」だなんて、あなたの考えることは卑しいのですよ。そんな関係は、ただの「共同幻想」に過ぎない。そういう共同幻想ビビットな他者性があらわれる「対なる関係」にも持ち込もうとするあなたの、そういう虫のいい得手勝手な思考態度は、ほんとに愚劣だ。「他者」とは、そういう社会的な関係を離れ、友人であれ恋人であれ夫婦であれ親子であれ、「対なる関係」として立ちあらわれている相手のことをいうのではないのですか。
あなたは、社会的な規範の枠の中でしかものを考えられない。社会的な規範の枠の中でしか他者と向き合えない。それがあなたの思考の限界であり、卑しさなのだ。そういう限界や卑しさをもったあなたのもの言いや態度が、奥さんや娘を追いつめていったのだぞ。少しは自覚して恥ずかしいと思えよ。自分には家族論を語る資格がないのかもしれないという思いは、あなたにはないのか。語ってもいいけど、少しくらいはそういうつつしみを見せろよ。えらそうに自慢たらたらで語りやがって。
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あなたが社会の人々から愛されていることなんか、あなたの美質でもなんでもないのですよ。あなたが誰よりも社会の規範を心得ているということと、そこから誰よりも効率的にうまい汁を吸っている、ということを意味しているだけです。そうやってあなたは、社会の人々から愛され尊敬されている。
しかし、家の中での奥さんや娘との「対なる関係」においては、そんな能力や美質などいっさい通用しない。社会の規範の外に立った生身の人間として向き合うほかない。そこにおいてあなたは、なんの魅力もなかったのだ。いや、ないわけではないのだけれど、ない人間なんかいないのだけれど、それでもあなたは、あくまで規範に立ったもの言いや態度だけで家庭を運用していこうとした。だから、幻滅され怖がられてしまったのでしょう。
「他者の承認を得る」というあなたの口ぶりに、すべてがあらわれている。社会の規範の外に立っているようなポーズをとることだけは勤勉でお上手だが、本心を吐露するような場面になると、とたんに馬脚をあらわす。
あなたのそんな態度や物言いはすべて「ポーズ」に過ぎないということが、奥さんや娘にはわかるのですよ。世の中の人はだませても、身内はだまされない。それが、「対なる関係」です。
内田さん、あなたの人間としての魅力は、あなたが自覚し吹聴しまくっている部分以外のところにあるのですよ。あなたが自覚し吹聴しまくっている部分なんか、なんにも魅力的じゃない。グロテスクで不細工なだけです。
たとえばあなたは、家族において、自分が奥さんや娘に愛されている人間であるという立場(前提)でものを言っていたにちがいない、とわれわれは推測する。現在のあなたが書いているものを読めば、すべてその調子です。そういうあつかましさに、われわれはうんざりしている。奥さんや娘がどう思ったかは知る由もないが。
「対なる関係」においては、「愛されている」という前提など存在しないのですよ。それなのに、そういう前提が成立している関係こそが「対なる関係」であるとあなたは主張している。そこにおいてあなたは決定的に誤謬しているし、その考えは卑しい。
あなただって、他者に「承認」されていないさびしくみじめな自分は持っているはずだし、根源的な人間性の基礎はそこにこそあるのですよ。
気取っていえば、あなたには、絶望して嘆くところから人間性の基礎を見つけてゆこうとするだけの思考力や想像力がない。あなたは、奥さんや娘に逃げられたという体験から、何も学んでいない。私は美しく清らかな人間である、という居直り(強迫観念)を強くしただけだ。
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せいぜい「未来」を「妄想」するだけの能しかない脳みそなのだ。
「対なる関係」においては、けっして「私」は「承認」されない。
すくなくともあなたのライバルである中島義道氏は、人間はけっして他者を「承認」しない、ということを自覚しておられる。それこそが人間存在の根源であると、深く思考しておられる。あなたの考えることなんか、ただ臆病でいじましいだけじゃないか。中島氏のほうがずっと潔い。彼は、あなたのように死んでゆく「未来」のことなんか考えようとしない。「いつ死んでもかまない」という覚悟を持つことを「いましめ」として持っておられる。
自分を否定するとは、他者に「承認」されていない自分を自覚することです。自分を否定することのできない観念においては、他者にときめくこともない。
内田さん、あなたは自分の「愛」がどうたらこうたらとこだわっているばかりで、自分を忘れて他者にときめいたり幻滅したりするということがないのですよ。
だから女房子供に逃げられるんだ・・・・・・と言ったら、言いすぎですかね。
われわれは、内田氏の言説を、生きてゆくための指針だとは受け取っていない。現代の病理がそのままあらわれている言説だと思っている。近代合理主義の決定的な誤謬がそこにあらわれている、と言い換えてもよい。僕がしつこく内田批判を続けるのも、その誤謬をえぐりだすことの困難さを思うからだ。
執念深い人間だと思われてもかまわない。しかし僕自身は、ひといちばい「愛」も「憎しみ」も薄い人間だとも思っている。
僕はただ、途方に暮れているだけだ。途方に暮れながらこの記事を書き続けている。
わかってくれとは言わないが、許していただきたいとは願っている。