内田樹という迷惑・あきはばら11

まったく、むかつく。殺意すらおぼる。
このふてぶてしさは、いったいなんなのだ。
内田氏によれば、秋葉原事件の若者は、そういうことをすればワイドショーを占拠できるという目的があっただけなのだそうです。世間にそういう行為の「意味」を見せびらかす、それだけが目的で動機だったのだとか。だからそのとき、殺意も人を殺しているという自覚もなかったのだそうです。以前の事件を真似た、ただの「コピー・キャット」なのだとか。ようするに、目立ちたがりのただの「愉快犯」だということです。
他人を見くびるのもいいかげんにしろ。
彼の心の世界というか、彼が見た心の闇というのは、ただ「世間を騒がせた過去の事件を真似したい」というだけのものであったのか。それだけの衝動で人間は、あんな凄惨な事件を起こすことができるのか。
良くも悪くも彼が抱いた孤立感や飢餓感や、人間や社会に対する恨みというものがあるでしょう。「コピー・キャット」といえば、それらのものがぜんぶ説明がつくのか。彼が見たそういう心の世界に肉薄しようというか寄り添って考えてみようというか、そういう思考力や想像力や文学的センスというものが、この人にはまったくない。薄っぺらな脳みそなのだ。
「コピー・キャット」といえば大向こうに受けるだろうという計算があるだけだ。舌触りのいい言葉と戯れるだけしか能のない薄っぺらなやつらは、そうやって悦に入って浮かれていろ。おめえらなんぞは、しょせんそのていどの俗物さ。
自分の他者に対するdesency(敬意)のなさ、思考力や想像力や文学的センスのなさに居直って、「コピー・キャット」という言葉で先端的な知識人のポーズをつくって見せる。あの若者がどんな人間でどんな状況を生きていたのかということなど、どうでもいいのだ。というか、あの若者に寄り添って考えてみようとする「愛」も「誠実さ」も、さらさらない。ようするに鈍感な恥知らずなのだ。
目立ちたがりは、内田さん、あなたのほうだろう。あなたほどえげつなく自慢してくるやつも、そうそういない。あなたの言説なんぞ、すべて自己PRのパフォーマンスばかりじゃないか。内容なんか、なあんもない。何より「他者」に対する「愛」が決定的に欠落している。
そして「愛」が欠落している者ほど、「愛」だ「愛」だと騒ぎたがる。
内田さん、あなたはこの事件について考える際に、ひとまず彼にひざまずいて彼の内面を生きてみようとする試みはしたか。それが、聖書の説く「愛」なんだぞ。
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殺意も人を殺しているという意識もなかったのなら、彼は「無罪」だ。だったらついでに、彼を無罪にするべきだと言えよ。
人間は、そんな動機だけであれほどの凄惨な事件を起こせるのか。彼にとってそれは、ただのお遊びだったのか。そんな動機だけで実行に移せるなら、もう無数にそんな事件が起きているだろう。そんな動機くらい、無数の若者が持っているのだ。彼よりももっと強く「ワイドショー」を占拠することに憧れている若者はいくらでもいるに違いない。彼が毎日そのことを呪文のように唱えていたのか。
彼は、ワイドショーを占拠することにとり憑かれたのではなく、人を殺すことにとり憑かれてしまったのだ。まずその体験がなければ、実行には移せない。内田さん、その心の闇をひとまず我がこととして生きてみるという試みは、あなたが愛を説く思想家を自認するのなら、あなたこそ誰よりもそれ示して見せなければならない態度だったのではないのですか。「愛」を説くなら、もっと命がけで説きなさいよ。この世のすべての「他者」にひざまずいて見せなさいよ。「コピー・キャット」と言って気取っている場合ではないのですよ。レヴィナス先生が泣いていますよ。
内田氏が言うような世間が大騒ぎするという「意味」は、「結果」として得られることであっても、じっさいの行動に移すことのできる「契機=動機」にはなりえない。なりえないことは、したくてもできない若者がごまんといるという現実が示しているじゃないか。
事件が起きたそのとき彼は、これでワイドショーを占拠できるというよろこびだけに浸っていたのか。だったら、途中で失神してしまうことなどないでしょう。途中からのことは覚えていない、と供述しているのですよ。舌なめずりして事件の「意味」に浸っているだけだったのなら、一部始終を覚えていますよ。しかしそのとき彼は、「人を殺す」というものすごいストレスと恐怖にとびこんでいったのだ。それは、途中で失神してしまうくらいのストレスと恐怖だったのだ。
人を見くびるのもいいかげんにしろ。そうやって人を見くびることは、かならず自分にはね返ってくる。そりゃあ、おめえみたいに「意味」だけを追いかけて生きているつもりのゲスな人間なら、事件の「意味」を見せびらかすためだけで人殺しだってできてしまうだろうさ。
つまり内田氏は、もし自分が彼の立場だったら、そういう「意味」を世間に見せびらかすためだけで実行してしまえる、と考えたのでしょう。もし自分なら、その「意味」のためには人を殺しているというストレスや恐怖などなんにも感じないだろう、と考えたのでしょう。
自分を捨ててあの若者に寄り添って考えようとなど、何もしていない。あくまで自分の物差しで計量しているだけです。「コピー・キャット」と言って、それだけの想像しか及ばない自分の内面世界の貧しさを晒しているだけです。
世の中には、こんなあつかましい分析をしてしまう品性下劣な人間がいるのですよね。気味悪いと思いませんか。
たしかに、携帯サイトに「ワイドショーを独占したい」という書き込みをしていた。しかしそんなことを思っている若者なんかいくらでもいるし、それを実行に移すためには、どうしても超えなければならないハードルがあったはずです。
「人を殺す」というハードルです。誰もが「ワイドショーを独占してみたい」という欲望を抱きながら、誰もがそのハードルを越えられないでいる。
彼だけが、けんめいにそのハードルを越えていったのだ。そのとき彼は、人が人を殺すという人間の歴史を一身に背負って見せたのだ。
大勢の若者が拍手をしたということは、そういうことなのですよ。
いったい何が彼をそこまで追いつめたのか。
人を殺そうとする衝動がなくてできるはずがないじゃないか。
だから、やりきれないのだ。
そんな目立ちたいという「意味」だけで人を殺せる人間なんて、内田さん、あなたくらいのものだ。
自分の知性の正当性と人間的魅力を主張するためなら、女房子供に逃げられたことも無効にして堂々と家族論をぶつことができる。平然と「コピー・キャット」と言って切って捨てる。それくらいの倒錯した狂気を持っている人間でなけりゃ、ただ目立ちたいというだけの理由であれだけの事件は起こせないって。
内田さん、あなたはほんとに気味悪いことを言う人だ。
女房子供に逃げられたインポ野郎が、何をふざけたこと言ってやがる。
あの若者は、内田氏と違って、自分は愛に溢れた清らかな人間だとか多くの人から愛されているとか、そんな自慢たらしいことはどうしても言えなかった。俺は不細工な嫌われ者だ、と繰り返していただけだ。
内田氏と彼では、社会的な立場もメンタリティも、まったく異質な人種なのだろう。したがって内田氏がもし彼のことを考えようとするなら、ひとまず「自分」というものを捨てなければならない。
なのに、自分の物差しを当てはめて、ただ目立ちたいだけの「コピー・キャット」だった、という。そりゃあ、あなたのようにただ目立ちたいだけで口から出任せを吹きまくっている人間なら、そういう動機だけで人殺しもできるさ。
でも彼は、そういう人間ではなかった。目立ちたいけど(誰だってそういう衝動を持っている)、内田氏のような、そういうもの言いや態度を取ることのできない人間だった。つい「俺は不細工な嫌われ者だ」と言ってしまう。そういう人間が人殺しをして目立つためには、「人殺しをする」というハードルは、どうしても越えなければならなかった。そうして、自分の人生を帳消しにして「死刑」になる、という覚悟は、どうしても引き受けねばならなかった。そういうハードルをクリアして、はじめて実行に移すことができたのだ。
誰にでもクリアできるハードルではないはずです。
他人から見てどうであろうと、主観的には、地獄の底でのたうちまわるような体験を通過してこなければ実行に移すことはできない。目立ちたい、というだけでできることじゃない。
内田氏のように人格者ぶって生きてゆきたいというスケベ根性の旺盛な人間とは、人種が違うのだ。内田氏のような人間なら、ただ目立ちたいだけで実行に移すことができる。
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けっきょく内田氏は、自分と自分を賛美してくれる人間以外は、みんな人間のくずだと思っている。秋葉原事件のあの若者にたいしてだって、あいつは人間のくずだという評価を前提にして考えているのだろう。内田氏の言いざま書きざまには、自分以外の人間はみんなくずだと言いたげな心の動きがむんむん伝わってくる。
だから、現代社会は「呪いの言説」に覆われている、などという世の中をばかにしたような、他人を見くびったようなものの言い方になる。だから私は「愛」を説いてゆかねばならない、てか。冗談じゃない。他者にときめいたりいとしいと思ったりすることは、おめえみたいなインポ野郎よりわれわれのほうがずっと深く体験している。われわれは、おめえと違って、この世の中も捨てたもんじゃない、と思っている。嘆かわしいのは、おめえみたいな品性下劣な人間がのさばっている、ということだけだ。
何が「呪いの言説」だ。他人を見下げるようなおめえのいいざま書きざまのほうがずっと恨みがましいんだよ。逃げた女房に対する当てこすりか。そんなことまでして自分を正当化したいのか。恨みがましさそのものじゃないか。自分を正当化して、女房子供に逃げられたことのぶざまさを帳消しにしたいのか。
おまえには「われながらぶざまだなあ」という思いを背負って生きていく誠実さと率直さというものがないのか。あの若者は、まさにその感慨を背負って生きていたんだぞ。おめえなんぞにさげすまれなきゃならないいわれはないんだ。
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「コピー・キャット」と言って何かがわかったようなつもりになっているやつらなんか、みんなあほだと思う。そんなステレオタイプで安直な分析でいい気になっているなんて、頭悪いんだよ、おめえら。
たんなる模倣の衝動だけでできることじゃないだろうが。誰もがそういう衝動を抱えていながら、彼しか実行に移せなかったのだ。人が人を殺すということはなんなのかということを、もうちょっと真面目に考えてみろよ。考える誠実さも想像力もないやつらが、ただの模倣の衝動ということに問題をすりかえてしまう。
模倣の衝動は、そんな特別なものじゃないんだぞ。すべての人間が、猿以上の熱烈さでたぎらせている人間性の基礎なのだ。それによって人間は、人間たりえているのだ。赤ん坊が二本の足で立って歩こうとするのも、街でミニスカートが流行するのも、スタジアムに何万人も集まって発狂しないでいられるのも、人間が「共同体」という社会をいとなんでいるのも、すべて「模倣の衝動」の上に成り立っているのだ。
人間なんて、みんな「コピー・キャット」なんだぞ。
模倣の衝動は根源的であるがゆえに、彼らだけの特別なものではないのだ。そこのところ、おめえらの薄っぺらな脳みそではイメージできないだろう。
それはとても空恐ろしく途方もない行為であると同時に、かんたんにできてしまうことでもある。彼にルビコンを渡らせたのは、模倣の衝動でも目立ちたいという衝動でもない。彼以上にそんな衝動を抱えている若者はいくらでもいる。そんな衝動だけでルビコンを渡るのは、不可能なのだ。
たとえば、人を突き刺したときの手ごたえをありありと想像してしまうとか、そういう体験がなければ、ルビコンは渡れない。そういう体験をさせてしまう心の闇とはなんなのか。もしかしたら、どうしようもない人恋しさだったのかもしれない。
他者の身体に対する関心。生と死に対する関心。関心というより、他者の身体や生と死のほうが彼に迫ってきたのかもしれない。
そのようにして彼は、見てはいけないものを見てしまった。感じてはいけない何かを感じてしまった。想像の中で一度感じてしまった、人を突き刺したときにナイフから伝わってくる掌の感触を、どうしても確かめずにいられなかったのだろうか。
それは、生の感触であると同時に、死の感触でもあった。そうしてみずからの人生を屠り去る感触でもあった。
ワイドショーを独占することなんかどうでもいいと思えてくることもある。しかし、この「感触」を確かめてみたい、という衝動だけは一日中ついてまわって、どうしても消えなかった。そうして、日に日に募ってくる・・・・・・。
フロイト的なエロスの衝動、といってしまえばなんだか身もふたもないのだが、とにかく彼が魅入られたのは、ワイドショーを独占したいという衝動ではない。もっと実存的な何かなのだ。そこからしか、秋葉原には向かえない。
わかりますか、内田さん。あなたの薄っぺらな脳みそではわからないでしょう。
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内田さん、「愛」がどうちゃらこうちゃらとほざくなら、どうしてあの若者に対して、ひとまずひざまずくように寄り添ってゆく、ということができない。なにはともあれ彼は、時代の不幸を一身に背負ってあんなことをしてしまったんじゃないか。
このブログにおける秋葉原事件の記事は、これで11回目。なにはともあれ内田さん、僕は、たとえ幼稚な書きざまであろうと、彼を「他者」としてひざまずいてゆこうとする試みだけはしてきた。それこそが、レヴィナス先生の教えじゃなかったのですか。
事件から一ヶ月以上経って満を持して持ち出してきた決めぜりふが「コピー・キャット」だなんて、横着にもほどがある。
レヴィナス先生が、そのような他者を切って捨てるような鈍感で低能極まりない分析の仕方にうなずいてくれると思いますか。
あなたは、彼に対して、「他者」としてひざまずこうとしたか。
「愛」の思想家を自認するあなたが、そんなぶざまなことを言っていていいのですか。愛だ愛だとほざくなら、もっと命がけで他者と向き合いなさいよ。右の頬を打たれたら左の頬を差し出すぐらいの誠実さで、この事件を分析してみせなさいよ。
ヒットラーの例を持ち出すまでもなく、舌先三寸で世の中をたらしこんでしまうことなんか簡単なことだけど、歴史やレヴィナス先生はだませませんよ。そんなことを言っていたら、レヴィナス先生に見限られますよ。レヴィナス先生をよいしょするだけが弟子のつとめではないし、それだけで弟子と認められようなんて、レヴィナス先生を見くびっていますよ。
レヴィナス先生の弟子にふさわしい誠実さと敬虔な態度でこの事件と向き合ってみせなさいよ。「コピー・キャット」ということのどこに、そんな態度があるのか。
これは、われわれの社会が遭遇した「受難」なのですよ。「コピー・キャット」ということが、あなたにとっての「受難」を引き受ける態度なのですか。それが、「愛の伝道師」であるあなたの、人間の根源を見つめる態度なのですか。
笑わせるんじゃないよ、この低能が。
われわれは、あなたのように他人を見くびるようなことはしない。他人を見くびるあなたを、しんそこ侮蔑しているだけだ。