内田樹という迷惑・あきはばら12

内田氏の「秋葉原事件は<コピー・キャット>現象である」という発言と出会って、僕はもうめちゃめちゃむかついている。
胸がどきどきして夜も眠れないくらいむかついている。泣きたいくらい悲しい。
平然と他人を見くびったもの言いをするこのふてぶてしさはいったいなんなのだ。
人間存在を、他者をばかにしている。
「コピー・キャット」なんて、社会学者が社会現象を分類整理するたんなる呼び方であって、その行為の本質をあらわしているのではない。
ただ目立ちたいだけのためにやっただなんて、それだけのためにあれほど凄惨な事件を起こせる人間なんて、内田さん、あなたくらいのものだ。あなたくらいスケベったらしく薄っぺらな人間なら、そりゃあできるでしょうよ。
しかし彼は、誰よりも深く激しく「この生」を見限ったのだ。まずそのことがなければ、あんなすごいことはできない、その思いを携えて彼は、ルビコン河を渡っていったのだ。
それが正しかろうと間違っていようと、彼は内田氏よりも深くビビッドに「この生」と向き合っていたのだ。
何度でも言う。ただ目立ちたいためだけで無差別殺人ができるだなんて、内田さん、あんたくらいのものだ。そんな気味の悪い薄っぺらな人間は、あんたくらいのものだ。
そんな分析は、「この生」と向き合う能力のないあんたの頭の中だけで成り立っているに過ぎない。向き合う能力もないくせに誰よりも深く向き合っているつもりになれる、そのくそあつかましい脳みその中だけで成り立っているのだ。
あんたたちがそう思いたいだけじゃないか、そういうことにして自分たちこそまっとうな人間であると再確認したいだけじゃないか。そうやって、みんなでうなずきあいたいのか。
そんなふうに考えられるなんて、まっとうな人間じゃないって。内田さん、あんたのほうがずっと気味が悪い。
俗物のインポ野郎が・・・・・・こんな気持は、内田シンパの人びとにはわからないでしょう。
いや、わかってもらえなくてもいいのだけれど、それならそれで、こちらもついこう言いたくなってしまう。「コピー・キャット」などという業界用語で悦に入っていることがどんなにふてぶてしい態度かということは、おめえらの薄っぺらな脳みそではわかるはずがないのだ、と。
事件の表層をなぞっているだけじゃないですか。
社会の動きをあれこれ分析したりすることばかりしていると、どうしても考えることが表層的になってしまいやすい。そんな分析が好きな人たちが、内田ファンになる。そりゃあもう、内田氏ほど表層的な思考に撤することのできる人間は、そうそういない。その軽薄な表層性が、彼らに尊敬されているのだ。
「表層的」というと、なにやら一面ではほめ言葉みたいだが、ようするに薄っぺらだということです。
内田さん、「コピー・キャット」というなら、まさにあなたこそ「コピー、キャット」そのものだ。オリジナリティなんか、何もない。社会のうわっつらをコピーした(なぞる)ようなことを言ってるだけじゃないか。
内田氏を先頭ランナーとして、そういう薄っぺらな俗物ばかりがのさばっていることこそ、この社会の病理なのだ。
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秋葉原の事件の前には、土浦の連続殺人事件があった。似たような事件は、いろいろ起きている。
そういう先例を真似て、自分もやってみたい、と思った・・・・・・と内田氏は分析する。
それが薄っぺらだ、というのですよ。
自分もやってみたい、と思う若者なんか、ごまんといる。しかし、彼らは、けっして実行しない。誰も実行できない。
自分もやってみたい、と思ってできることじゃないからです。
「自分もやってみたい」と思うこと、それじたいが実行の不可能性に身を置くことだからです。
自分もやってみたいと思う者は、「先例」に深く感情移入する。そうすればもう、半分やったような気になれる。だから、実行しない。実行できない。旅行の計画をあれこれ立てているうちに半分行ったような気になって、なんだかもうどうでもよくなってしまう。これと同じようなことです。
「コピー・キャット」は、実行しない。実行できない。
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秋葉原事件の彼は、「自分もやってみたい」と思ったのではない。「人を殺してみたい」と思ったのだ。
この違いが、内田氏の薄っぺらな脳みそではわからない。
「先例」を真似たのではない。「先例」と、「人を殺してみたい」という衝動を「共有」してしまったのだ。
社会学者が事後的な分析で「コピー・キャット」という言葉をもてあそぶのはしかたない。
しかし事件の本質を問おうとする「思想家」が、そんなことを言っちゃいけない。
「コピー・キャット」の衝動では、実行に移せないのだ。その衝動じたいが、決定的な実行の不可能性をはらんでいる。
人間は、猿以上に「模倣の衝動」が強い生き物です。それが、人間を人間たらしめている。
チンパンジーが威嚇行為として石を投げるフォームと、野球のピッチャーがボールを投げるフォームとのあいだには、雲泥の差がある。
チンパンジーが石を投げたって、どこに飛んでゆくかわからないし、たいしたスピードもない。彼らは、石を投げる行為そのものを模倣することはしても、投げ方を模倣してゆくということはできない。
しかし人間は、投げ方を模倣し合いながら、どんどん上達してゆく。
直立二足歩行は、胸・腹・性器等の急所(弱点)を相手の前に晒してしまう、きわめて不自然で不合理な姿勢です。それでもその姿勢を模倣し合った。それは、一頭だけでその姿勢になることはできない。なぜならその姿勢をとることによって群れの中でもっとも弱い存在になってしまうからです。
たぶん、みんないっせいに立ち上がった。でなければ成り立たたない姿勢なのです。
みんなが、他者の姿勢を模倣し合った。
そこに、人間性の根源がある。というか、そこから「人間」の歴史がはじまっている。
「模倣の衝動」こそ、人間の本性なのだ。それによって、猿の世界から決定的に訣別した。
「先例としての殺人事件」に深く感情移入してゆくことによって、すでにもう自分が犯人になったような気になってしまう。それくらい人間の「模倣の衝動」は強くダイナミックであり、だから、模倣する者たちは実行に移せなくなってしまうのだ。
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内田氏は、「日本のレヴィナス」になったようなつもりで、「愛」がどうちゃらこうちゃらとほざきまくっている。それだって「模倣の衝動」そのものであり、立派に「コピー・キャット」を演じている。
そうしてすでに「日本のレヴィナス」になったつもりでいるから、レヴィナス先生のように「他者にひざまずいてゆく」というような思考態度はもう実行できない。
秋葉原事件の若者を「他者」としてひざまずいてゆくという思考態度がとれない。平然と「コピー・キャット」だと言い放つ。
おまえこそが、どうしようもない「コピー・キャット」なんだぞ。
すでにその気になってしまっている。すでに清らかな人間になっているつもりでいる。だから、清らかな人間になれない。
まわりの人間が一流の思想家だともてはやすから、本人もすっかりその気になって、自慢たらたらのことばかり言っている。
すでに「愛」に溢れた人間のつもりでいるから、これが愛だとほざくばかりで、愛とは何かと問うような視線はもう、とっくに消え失せている。
「コピー・キャット」の面目躍如である。
ほんとにレヴィナス先生の弟子であるのなら、よいしょすることばかりやってないで、レヴィナス先生に対抗するような思想を構築してみせろよ。
よいしょすることなんぞは、他人に任せておけばいい。レヴィナス先生の屍を踏みつけてゆくくらいの気概を持った思想を提出してみせろよ。それでこそ弟子だ。
内田さん、あなたの考えることは、卑しく薄っぺらなのですよ。
「コピー・キャット」であることそれじたいが、同じような事件を起こすことの不可能性をはらんでいる。そのことだけは言っておく。
起こさなくても起こした気分になれるのが「コピー・キャット」だ。
一流の思想家を自認するなら、それくらいのパラドックスは考えてみろよ。「コピー・キャット」であるからあなたは、レヴィナス先生を超えることができないのだ。
せいぜい「日本のレヴィナス」を自画自賛するのが関の山さ。
そうやって、社会のうわっつらを意地汚くまさぐってばかりいるだけじゃないか。
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僕だって、吉本隆明という人を、若いころは父のように慕い憧れたものさ。
でも今は、あんなくそじじい、さっさとくたばっちまえ、と思っている。
僕が考える「家族論」は、あの人の「対幻想論」と真っ向から対立している。あの人は「家族」は「エロス」の上に成り立った関係である、という。しかし僕は、家族こそ「エロス」を喪失した空間である、と思っている。人は、家族の外に出て、はじめて他者にときめく。家族という概念に淫してしまうと、ちんちんが勃起しなくなる。「家族」という概念に淫してしまった男(夫)と女(妻)は、だんだんセックスしなくなってゆく。人は、「家族」の中で「エロス」を見失う。
吉本隆明だって、内田氏と同様に、けっきょくは自分をまさぐるしか能のないただのナルシストだと思っている。ただのトリックスターだ。ただのジャーナリストだ。思想家だとは、僕は認めない。
しかし僕は今、たったひとりで、全世界を敵にまわす覚悟で、この拙い思想の鉱脈を素手で掘り進んでいる。それは、吉本氏から学んだ態度だ。
僕なんか、思想や哲学に関する読書歴なんか、ほとんどない。このみじめでみっともない人生と人格だけが、僕のカードです。なのにこんなことを今ごろになってはじめるのは、吉本さんの本と出会ったからかもしれない。そして、吉本さんより僕のほうがずっと孤立無援のところに立ってものを考えているという自覚がある。吉本さんは、「大衆の原像」といったが、僕は、大衆よりももっと底に沈んだ、この世のもっとも低いところに立っている人に寄り添って考えたいと願っている。
だから内田氏の「プチブル」の「プチインテリ」づらした垢抜けない物言いが、めちゃめちゃむかつく。イモだ、と思う。
まあいい。
先日、おそらく内田氏のファンの人から「何が批判したいのかよくわからない」というようなコメントでからかわれ、ちょっと傷ついただけです。
その人には、自分の品性のなさに恥じる、という問題意識がない。いや、その人に対してというより、こんな姑息なことをする人たちの支持を受けて内田人気が成り立っているのかと思うと、ますます内田氏に腹が立ってきた。
僕はもう、原稿用紙にして1000枚分くらい内田批判を書きつづけている。実名もちゃんと出している。内田氏に対するそれなりの敬意は払っている。けちつけたかったら、正面からかかってこいよ。
こっちだって、助けてくれる人など誰もいないところで書きつづけているのだ。
じぶんはろくでもない人間だと自覚しているから、いつ炎上してもかまわない覚悟で書いている。
きちんと批判してくれないことには、反論のしようがないじゃないか。
そういえば内田ブログにおける「イカフライ」氏に対する攻撃も、品性下劣なものばかりだった。