内田樹という迷惑・あきはばら13

派遣社員の制度をはじめとする社会の構造が改善されれば、秋葉原事件の再発はなくなるか。
人びとがいい暮らしができるようになれば、そんな事件はもう起きないか。
いい暮らしができるようになれば何もかも解決するなんて、僕は、ぜんぜん思わない。
いまや若者たちは、「人生という時間」よりも、「この生の実存」と向き合っている。「人生」よりも「命」を考えている。
「生きてあることにどう決着をつけるか」という問題に対する思考が果てまで行ったときに、事件が起きる。生きてあることはけっして決着がつかない事態である、ということを、大人たちは教えてくれない。解答ばかり差し出してくる。内田氏をはじめとして解答を差し出すやつばかりがのさばっている世の中なのだもの、そりゃあ、果てまで行ってしまうさ。
内田氏は、解答がつかない、という解答を差し出してくる。そして、解答がつかないから素晴らしい、という。
そうじゃないんだよ、内田さん。解答がないとは、生きてあることはくだらないことだと深く思い知り、そのくだらなさを受け入れる、ということにあるんだよ。
解答がつかないから素晴らしいとか、そんな低級なレトリックをもてあそんでいる場合じゃないんだよ。解答がつかないことは、くだらないんだよ。うんざりして途方に暮れるしかないのさ。「素晴らしい」などという「解答」を差し出すなよ。あなたの考えることは、そうやっていつだって意地汚く、短絡的なんだよ。このイモが。
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いい暮らしをすることは、ほんとうに素晴らしいことなのか。
いい暮らしをすれば・・・・・・人間は「いい暮らし=素晴らしさ」を糧として生きている、と発想することそれじたいが、この社会をおかしくしているのではないだろうか。そんなことを言っているかぎり、つねに「生きてある」という事態に決着をつけようとする若者から、殺人や自殺という表現で挑戦されつづけねばならないのだ。
秋葉原事件のあの若者は、いい暮らしがしたいと望んでいたわけではない。「彼女さえいれば」と願っていただけなのだ。「彼女さえいれば」、すべてのことに耐えられる、と。
つまり彼は「生きてゆく」という「人生」ではなく、今ここの「生きてある」という事態を問うたのであり、たいていの若者がそう問うている。
「彼女さえいれば」・・・・・・「生きてさえいればそれでいい」という場所に立てる、と彼はと思った。
僕は、その思想を尊敬する。
生きてあることの充実は、いい暮らしの中にしかないのか。
そんなもの、自分の中にいい暮らしとみじめな暮らしの「二項対立」をつくっているからでしょう。そういう差別意識に過ぎない。
「彼女さえいれば」、そんな「二項対立」の思考様式から抜け出せる、と彼は思った。「いい暮らしがしたい」と思っていたわけではない。
「彼女さえいれば」、いい暮らしなんかできなくていい、と彼は思っていた。
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いい暮らしをさせてやる能力を持つことが、「彼女」をつくるための条件か。
そうとも言えない。愚かで怠け者の吉野家アルバイターだって、彼女がいるやつはいる。
世の中には、いろんな男と女がいる。「出会い」さえあれば、吉野屋のアルバイターだって、彼女を持つことができる。
世の中、捨てたものじゃない。いい暮らしをさせてくれる男じゃなきゃ付き合わない、という女ばかりではない。「出会い」があれば、何かのはずみで男と女はひかれ合ったりしてしまう。そのとき彼に必要なのは、ほんのちょっとのセックスアピールだ。お金じゃない。
つまらない男を引き受けてしまった女は、今の時代だっていくらでもいる。
だから男のほうも、つまらない女と出会ったときに、よけいな値踏みなんかしないで彼女が女であるというそのことにときめいてゆけるだけの無心な態度を持つことだ。
どんな女と出会うかなんて、運の問題だ。どんな女と出会おうと、あとでよかったと思うこともあれば、後悔することもある。たとえ美人の彼女を持っても、ほかの女のほうに目が移ってゆくこともある。たいていの男と女は、そのうちけんかをするようになる。うんざりして相手を見てしまうようにもなる。
「人に見られて恥ずかしくないていどの彼女を持ちたい」とたいていの男が思っているが、たいていの女も思っているが、そんなことで自分の人生に体裁をつけようなんて、あまりい心がけとは言えない。そんな自分を正当化したがるのは品性のないことだ、と自覚したほうがいい。
腹が減ってりゃ、何食ってもうまい。それくらいのさびしさと率直さを携えて異性と出会える者、そういう孤立性こそを「品性」というのだ。
女をあれこれ比べていっぱしのことが言えるからといって、そんなことはなんの自慢にもならない。そういう率直さを欠いた自分の卑しさを恥じるべきだ。
目の前にいるあなたが「女(男)」のすべてだ、と思える率直さを、われわれはなぜもてないのだろう。この生において、確かなことは「今ここ」しかないのだから、目の前にいる「あなた」こそ男(女)のすべてだ、と思うしかないではないか。そうやって生きてある一瞬一瞬、一刻一刻に点を打って生きていれば、誰かと出会うって。
世の中は、そのようにできている。われわれは、どれほどたくさんの「出会い」を無駄にして生きてきただろう。生きているだろう。
そうやって無駄に生きたあげくに淋しい老人になってゆくんだぜ。資本家に搾取される派遣社員であることを言い訳の材料に使うなよ。世の中にはもっと恵まれない立場で、彼女がいる男はいくらでもいる。君よりぶさいくな男も君より給料の少ない男も、いくらでもいるんだぜ。
結婚したくてもできないのは、お金がないからでも、将来に夢がないからでもない。自分にセックスアピールがないからであり、つまらない品定めをしてしまう卑しい根性を持ってしまっているからだ、と思い知ったほうがいい。それは、意識の持ち方というか、思想の問題なのだ。自分がつまらない男だからだ。それだけのことさ。それだけのことだと自覚したほうがいい。そういうやせ我慢をして生きていなければ、人との出会いにときめくという感受性は育たない。お金がないとか将来の夢がないとか、そんな恨みがましい目をしていたら、セックスアピールを失う。
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いい暮らしがしたいとか、人生がどうとかこうとか、そんなこと言っているから淋しい老人になってしまうのだ。派遣社員であることなんか、言い訳の材料にならない。女なら誰でもいいと思って生きていれば、そのうち誰かと出会うって。心が通い合うことなんか、どうでもいい。抱きしめてセックスすればいいだけさ。それで、すべてが報われる。
いい女じゃなきゃセックすする気にならないなんて、君の心のどこかがゆがんでいるからだ。おまんこがありゃ、セックスはできるさ。それだけのことだ。「いい女」なんかいない。「女」がいるだけだ。秋葉原に向かったあの若者に、そう言ってやりたかった。
内田氏は、自分の未来の人生の時間をいつも考えて生きてゆきなさない、という。くだらない。こんな品性下劣な言いざまにだまされてはいけない。われわれに与えられた確かな時間は、「今ここ」しかないのだ。「今ここ」がすべてなのだ。
「今ここ」の目の前にいる「あなた」が、「女(男)」のすべてなのだ。
内田大先生のいう「愛」がどうとかこうとか、そんなものはどうでもいいのだ。心なんか通い合わなくてもいい。「愛しています」と言って、相手を支配しようとなんかするなよ。「愛されている」という自己満足なんか欲しがるなよ。相手の存在にときめく心さえ持っていればいい。女が女の体をしているということ、それじたいにときめくことができればいいのだ。そこにおまんこがあるという、そのことにときめくことができればいいのだ。それは、驚きときめくほどに、興味の尽きないこの世界の不思議なのだ。
「愛」も「人生」もどうでもいいのだ。目の前の「あなた」を抱きしめることができれば、それですべてが報われる。
この世界を侮蔑しきること、みずからの卑小さに絶望しきること、そこではじめてわれわれは、目の前の「あなた」の存在がこの世界のすべてだというときめきを体験する。秋葉原事件は、そういうことをわれわれに教えてくれている。
生きてあることにくだらない意味なんかくっつける必要なんかない。「コピー・キャット」などいうジャルゴン(業界用語)をもて遊んでいい気になるのは、もうよそうよ。そんな低脳で品性下劣なことは、内田大先生に勝手にやらせておくさ。