内田樹という迷惑・派遣社員の恋

派遣社員」は虐げられている、なんて恨みがましいことを言ってもしょうがない。そんな制度の上にあぐらをかいている経営者を責めてみたって、せんないことだ。やつらが悪人かどうかなんて、よくわからないことだ。われわれは、そういう歴史段階を生きている、というだけじゃないの。彼らがそういう歴史段階をつくっているのではなく、そういう歴史段階が彼らをつくっているのだ。
人間が歴史をつくっているなんて、とんだ思い上がりさ。歴史が人間をつくっているのだ。
やつらだって、しょせんは歴史の作品に過ぎない。
やつらを責めたり、やつらに要求したりしたって無駄なことさ。やつらだって、そういうふうに考え、そういうふうに生きることしかできないんだもの、何を言ったって無駄なことさ。
他人に何かを要求するなんて、卑しいことなんじゃないの。
われわれにできることはただ、やつらを思いきり侮蔑すること。それだけは、こちらの勝手なのだ。やつらがやつらであることは、やつらの勝手だし、われわれもまた、やつらを侮蔑するのはわれわれの勝手なのだ。
われわれがどう生きるかは、やつらに何を要求するかということではない。
やつらを改心させようなんて、無駄なことさ。それができるのは、あんたじゃない。「歴史(あるいは時代)」という運命だけさ。
派遣社員は、派遣社員として生きるしかない。今派遣社員であるのなら、派遣社員であることがこの生のすべてなのだ。明日のことなんか、誰にもわからない。「今ここ」は、「今ここ」において充実し完結していると自覚するなら、明日のことが「今ここ」の腹のたしになるわけではない。
明日のことを当てにしながら「今ここ」を捨てて生きているなんて、あまり美しいとはいえない。
であればもう、「今ここ」の派遣社員であることそれじたいを生きるしかない。
派遣社員として、恋をし、結婚し、子育てをしていってみせなければならない。恋をし、結婚をし、子育てをしたいのなら。
そうして、派遣社員やフリーターは一生結婚できない、などと他人を見下げるようなことをいうやつらを、思いきり侮蔑してやればいい。
女房子供に逃げられた内田樹とかいう大学教授が、派遣社員やフリーターに対して「おまえらは一生結婚できない」とさげすむなんて、とんだお笑いぐさだ。
女房子供に逃げられるような人間性しか持っていないやつが、そんなえらそうなことをいうか?
借金も浮気もせずにひといちばいまっとうな夫を父親を演じてきた男が女房子供に逃げられるなんて、借金や浮気をして逃げられたのより、もっとみっともない話じゃないか。それは、夫として父親として、まるで魅力がなかったからだ。彼がイメージする夫や父親のかたちが、不健康でゆがんだものだったからだ。他人がなんと慰めようと、本人はもう、それを自覚するしかないのだ。俺は正しい夫正しい父親を演じてきたのだからおまえらに逃げてゆく権利も正当性もないのだ、というような恨みがましいことを思ってもしょうがない。他人がどう考えどう生きようと、他人の勝手なのだ。すくなくともそう考えるのなら、もう自分のみすぼらしさを自覚するほかない。
同様に、派遣社員やフリーターが、収入の少なさや将来の危うさを言い訳の材料にすることはできない。
がんばって生きていれば、「出会い」はいくらでもあるさ。いい女がどうとかこうとか、そんなしゃらくさいことさえいわなければ。
他者にときめくという感受性と、ほんの少しのセックスアピールさえ持っていえば。
内田氏のように、恨みがましい目で他人を見るというようなことさえしなければ。
「みんなと一緒にいる」、という生き方をしていれば、そういう実感を持っていれば、「出会い」はどこかにきっとあるさ。
人間なんて、誰もがどうせすぐくたばっちまうというのに、収入が少ないとか将来がないとか、そんな恨みがましいことを思っているひまなんかない。「今ここ」の自分をせいいっぱい生きるしかないじゃないか。
内田氏のように、自分が正しい夫や正しい父親を演じてきたと自覚している人間は、相手にも正しい妻や正しい娘を演じることを要求する。
援助交際をしてはいけない」と娘に教えていたんだってさ。
しようとするまいと、娘の勝手だろうが。
思想家のくせして、そういう通俗的なことを言うのが気に食わない。
言っちゃなんだけど、僕は、娘にそんなことを言ったことは一度もない。親の財布から金をくすねようが、援助交際しようが、キャバクラに勤めようが、ぜんぶ君の勝手だと言っている。それでも君を肯定する、と言っている。
もしも娘がフーゾク嬢になったのなら、「大変だろうな」と思うだけだし、それ以外の何が言えよう。自分の娘だろうと他人の娘だろうと、「やめなさい」なんて、よう言わない。
われわれ生きものは、「今ここ」で「悔いる」ことはできるが、「悔い改める」未来なんか与えられていないのだ。
同じように、派遣社員制度で潤っている経営者に「悔い改めよ」という権利なんか誰にもない。侮蔑することができるだけだし、派遣社員派遣社員として勝手に生きてゆくしかしょうがないのだ。
こちらが、いい暮らしがしたい、と金のあるやつをうらやましがっているかぎり、派遣社員制度はなくならない。だって、金のあるやつになるためには、派遣社員制度にすることがいちばん有効なのだもの。
そしてこちらだって、自分が金のあるやつになりたがっているくせに、金のあるやつでいるのはよせ、というのは、お門違いというものだろう。
こちらが金が欲しいと思うこと、いい暮らしがしたいと思うこと、それじたいが「搾取の構造」を助長しているのだ。
われわれが、プチ・ブルになんかなりたがらないこと。プチ・ブルなんかろくでもない人種だと思うこと。それによってしか、状況を超えてゆくすべはない。
プチ・ブルになんかならなくても恋をし、結婚してみせなければならない。派遣社員だから恋も結婚もできないなんて、そんな甘ったれたことを言っているひまはない。それこそが、やつらの思うつぼなのだから。
そうして、内田氏の例のように、現在、プチ・ブルの恋や結婚がどんどん無残になっていっているのだとしたら、それは決してわるいことじゃない。
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また、思想や哲学においても、内田氏のごときプチ・インテリのぶざまさをえぐり出してみせなければならない。
僕は、知識において内田氏の万分の1も持っていないが、僕の考える思想や哲学は内田氏よりもずっと高度だという自信だけはある。
思想や哲学は、知識なんかなくても、たったひとりでもできるのだ。
「プチ・インテリ」の半端な学者なんぞには負けない。
先日、「ばべを」というハンドルネームの人から、とんでもないほめ言葉をたまわってしまった。そのときは、ちょいとからわれているだけなのかな、とも思ったのだが、いまにして、もしかしたらこれは僕の生涯で二度と得られないであろう最高のほめ言葉かもしれない、という気にもなっている。そういうわけで、天にも昇るうれしさといささかの戸惑いが相なかばしている。
それがどんなほめ言葉であったかは、うれしすぎていえない。
とにかく、自慢たらたらに自己PRする内田氏がいちばん欲しがっているその言葉を、くれとも言っていない僕がもらってしまったのだ。その前に「近傍と確からしさ」さんから「雪かき仕事だ」と言ってもらえたのも同じで、地道に書きつづけていると、たまにはこういう体験をさせてもらえる。ささやかながら僕はいま、「ざまあみやがれ」と胸の中で叫んでいる。
つまり、内田氏のように自慢してしまうと、どんなほめ言葉も自分が相手にそう思わせたというだけで、相手が勝手に気づいてくれたという「ときめき」の体験は永久に得られない。それは、「ほめさせている」だけで、「ほめてもらった」ことにはならないのだ。
それくらい彼は、「他者」を信じていないし、見くびってもいる。あの自慢たらしさは、もう病気だ。