内田樹という迷惑・言葉と主体

サッカーボールを蹴る。
蹴ったのは、「私の足」か、それとも「私」なのか。
つまり、どちらに「主体性」があるのか、という問題です。
「私の足」に決まっている。上手な選手ほど、そうやってボールを蹴っている。蹴ろうと思ったのは「私」であるが、蹴るという実際の行為は、足=身体が勝手にやってくれている。
「私」の命令で、命令どおりに足が動くのなら、練習なんかする必要ない。命令の仕方と言う知恵を覚えればいいだけの話だ。しかし実際は、「私」の命令で足=身体を動かそうとしているやつほど下手くそなのだ。
内田氏が鈍くさい運動オンチであるのは、けっきょく自分の命令で体を動かそうと習性を払拭できないからであり、彼の言葉に対する考え方も、ようするにそのようなひといちばい「自分」に対するこだわりの強い運動オンチそのままのタッチなのです。
上手な選手は、足が勝手に動いてしまう、という感覚を持っている。
ボールを蹴るという行為の「主体性」は、足=身体とボールとの関係性にある。
そのとき「私」の意識は、ボールの向こうに広がる「空間」に向けられているのであって、足=身体にではない。
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言葉との関係だって、同じです。「私」が話すとき、「私」の意識は世界と言う対象に向けられているのであって、言葉そのものではない。世界に対する意識(感慨)が言葉を話させるのであって、言葉に対する意識ではない。
内田氏が説く「発話主体」とは、「この言葉は私が言いたかったこととは少し違う」というもどかしさを不可避的に抱いてしまう「私」と「言葉」との関係にあるのだそうです。人は、言葉によって、自分を知らされる。そういう自分を知らされる体験のことを「主体」というのだそうです。「主体」は、言葉のあとに成立する、のだとか。
そうして「言葉がわれわれの主人であって、われわれが言葉の主人なのではない」と言う。
なに言ってるんだか。鈍くさい運動オンチほど、自分がきれいなフォームでボールを蹴っていると思いたがる。なぜなら自分の命令で体を動かしているからら、フォームのことがつねに頭にある。そして、これは「私が蹴りたかったフォームとは少し違う」といつも欲求不満をおぼえている。内田氏の言う「これは私のいいたかったこととは少し違う」というのは、ようするにそういうことです。
上手な選手の意識は、そのとき「身体=フォーム」にはない。この世界との出会いに向かって開かれてあるのだ。蹴ることなんか、体が勝手にしてくれる。この世界に向かって開かれてあるから、上手に蹴ることができるのだ。上手に蹴るために必要な意識は、ボールが飛んでゆく「空間」を察知することであって、上手に蹴ろうとすることではない。
そのとき上手な選手は、その「空間」との出会いのときめきに浸っている。そのときめきが、上手にボールを蹴らせる。
言葉を話すことだって同じです。世界に対する感慨から発せられているのであって、言葉=フォームに対する意識からではない。
サッカーボールを蹴ることは特殊技能だが、言葉を話すことは誰だってできるし、もっと身近な無意識的な行為であるはずです。
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まず、内田氏の「主体」についての説明を聞いてみてください。
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「主体」という語がつい誤解を招いてしまうのだが、「主体」というのは実際には「もの」ではなく、「こと」である。自分が発した言葉言語に違和感をおぼえたり、おぼえなかったりするという事況そのもののことを私たちは「発話主体」と名付けているのである。当然ながら、違和感の感知以前には、発話主体は存在しない。
・・・・・・発話主体は発話という行為の事後的効果なのである。
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つまり、言葉を発してしまうのは「自分」ではなく、言葉を発したことに気づくのが「自分」という「主体」なのだ、と言っているわけです。
言葉を発する行為は、言葉を発した「自分」に気づく行為でしょうか。「自分」をまさぐることばかりしている人にとっては、それしか能のない人にとっては、そういうことになるらしい。
そうじゃないでしょう。たとえば「あはれ」と言ったとき、「あはれ」に気づくのが普通の人間でしょう。「言葉」に気づくのではなく、「この世界のあはれ」に気づくのが、まともな人間の態度でしょう。
そのときわれわれは、言葉との関係に気づくのではなく、世界との関係に気づくのだ。
われわれは、世界との関係に気づきながら言葉を発しているのであって、言葉の意味や言葉を発している自分をいちいち「検証」しているのではない。
「<言いたいこと>は、<言葉>のあとに存在し始める」だってさ。われわれは、そうは思わない。言ってしまったことが、言いたかったことさ。言葉を発するとは、そういう「自分(の体験)=主体」に気づかされる体験なのだ。
モーリス・ブランショは、「作家は作品のあとに存在し始めるのである」と言ったそうだが、そうではなく「作品以前に存在していた」だけなのだ。「作品」にも、「作品のあと」にも、すでに存在していない。ただもう、「作品」が存在しているだけだ。作家は、文字を刻むその手に、あるいはキーボードを打つその指先の感触に存在しているだけだ。つまり、作品を書く、という体験に存在しているだけだ。
「作家は作品のあとに存在し始めるのである」などというせりふは、西洋人の自意識が言わせているだけでしょう。彼らは、言葉のことを、何か(世界)を説明する道具だと思っている。説明する「自分」にこだわっている。言葉とは、自分を表現する道具だと思っている。そうやって「作品」のあとに「作家という自分」が存在し始めると思っている。
内田氏もそう思っている。
「作品」にも、「作品のあと」にも、作家は存在しない。作家は、作品によって「自分」を失う。そこで生起するのは「世界」であって、「自分」ではない。作家は、「世界の存在」=「言葉」に「自分」を売り渡してしまう。作品が生まれた瞬間に、作家は消失する。
作家は、「書くという体験」の中にしか存在しない。だから、書きつづけねばならなくなる。
われわれがモーツアルトの音楽を聞くとき、「音」を聞いているのであって、「モーツアルトという作家」を聞いているのではない。その音によって、追憶に浸ったり、現在進行形で自分自身の「音を聞く体験」をしているだけだ。「作家」など存在しない。
「作者は死んだ(ロラン・バルト)」。
小林秀雄が「モーツアルト」という作品を書いたことは、いわば「墓掘り人夫」のような仕事であろうと思える。批評家とは、すでに死んでしまっている作家を埋葬したり、あるいは墓の中から掘り出してくる墓掘り人夫なのだ。
批評家は、作家がすでに死んでいることを証言する。
作家が語っているのは、世界と出会う体験であって、作家自身ではない。優れた作品ほど、そういう構造を持っている。それは、世界や自分であると同時に、世界でも自分でもないところの「世界の境界」である、とバートランド・ラッセルは言っているのだとか。
形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです」と。
言葉は、「世界」と「私」の「境界=空間」において生成している。それを取り出してきて文字にするのが、「作家」なのだ。
したがって、内田氏のいうような、言葉によって「私」が生起する、などということはない。
内田氏は、書きながら「これは自分のいいたいこととは違う」という「違和感」を覚え、何度か書き直すうちに「どうやらこんな感じかな」というかたちで落ち着き、そこで「発話主体」を体験するのだそうです。だから、自分の作品は「自分」を表現している、と思っている。
そうだろうか、自分の書いたものに「自分」など表現されていないのではないだろうか。「世界の境界」が表現されているだけだ。だから心ある人は、自分の書いたことで自分の人格をほめられても、「買いかぶらないでください」という。しかし内田氏は、「自分」を表現しているつもりだから、つい自分の清らかさや知性を言い立てようとしてくる。書いたものによって自分の人格を表現できると思っている。
そうじゃない、自分の人格を解体して「世界の境界」すなわち「あなたと私のあいだに横たわる空間」に自分を売り渡してしまうことが、書く=話すという行為なのだ。
自分の知性や人格を語ることが書く=話す行為ではない。自分の知性や人格を解体する体験として、書く=話すという行為の醍醐味があるのだ。
内田氏が、いかに自慢げに自分の知性や人格を語りつづけているか、ということに僕はうんざりしているのだけれど、それにすっかりしてやられている人や、自分も内田氏のように自分を語りたいと思っている人がたくさんいるらしい。
したがって内田氏の言説が「文学」にも「思想」にも「哲学」にもなることはないが、他人をたらしこむ機能だけは大いに持っている。
言葉を他人をたらしこむ道具だと思っている内田氏は「言葉を畏れる」と言う。しかしわれわれには、そんな誠実な人格も知性もない。われわれは、この薄汚いみずからの人格や知性を解体できる唯一の道具としての、「言葉にすがって」生きている。