内田樹という迷惑・イエス!

このごろ、涙が出るほどうれしいコメントと、つまらない横槍が交互にやってくるようになった。
つまらない横槍を入れられると、悲しくなって、生きてあることの絶望や幻滅をしみじみ語りたくなってくる。
しかし僕には、しみじみ語れるような人格も文才もない。
とうぶんは、この空騒ぎを続けてゆくしかない。
つまらない横槍は、空騒ぎするしかない身が引き受けるほかない代償かもしれない。
そういう代償を支払って、はじめてありがたいコメントに出会える。そのありがたさが、深く身にしみる。
そんなとき、この世界に対して「イエス」と申告したくなってしまう。
フランス語なら、「ウイ」。
時代劇で「ういやつじゃ」というせりふがときどき出てくるが、このときの「うい」も、「イエス」という意味を含んでいる。
フランス語は、どこかやまとことばに似ているのかもしれない。
やまとことばの「うい」は、「よう」とも発声される。「よう来てくれた」の「よう」は、現代語の「よく」。「・・・・・・しよう」といえば、同意を求めている。つまり「イエス」という答えを求めている。
早い話が「ええそうです」の「ええ」は、「イエス」という意味そのもの。
「ええ」「うい」「よう」・・・・・・基本となる音韻は、「え」。「え」が、やまと言葉の「イエス」なのだ。たぶん。
「えっ?」と驚きいぶかる。それは、驚きいぶかるほどにその世界との出会いの体験を肯定している態度にほかならない。その不思議をそのまま受け入れているときに、「えっ?」という言葉が洩れる。
「えもいわれぬ」といえば、「わけがわからない」という感慨。わけがわからないことをそのまま肯定している。イエスという以上にイエスだ、という感慨。「えもいわれぬ美しさ」とは、美しさ以上の美しさ、ということ。「えもいわれぬ」は、究極の「イエス」。
「出会い」のことを「会(え)」という。それは。出会いを肯定している感慨なのだ。
やまとことばの「え」は、肯定の感慨。
世界との出会いにおいて、「え」という言葉が発せられる。
やまとことばは、世界との出会いを肯定する。そうやって言葉を発する体験を肯定する。
それに対して西洋の言葉は、世界を構築しようとしている。それは、世界を否定している態度だ。そうやって彼らは、言葉を「検証」しつつ構築してきた。
しかしやまとことばにおいては、世界との出会い、すなわち言葉を発するという体験が、そのまま信じられている。
このへんの違いが、西洋の言語論の受け売りだけで済ませている内田氏は、わかっていない。
西洋の言葉は、人をたらしこむ道具だが、やまとことばは、ただみずからの世界との出会いを表現しているだけだ。世界との出会いを「イエス」といっているだけだ。
内田氏は、言葉は人をたらしこむ道具だ、といっているのですよ。だから彼は、「言葉をおそれる」という。そういう人にとっては、きっと西洋のそうした言語論は心地よいことだろう。自分の中の人をたらしこもうとする衝動を肯定してくれているのだもの。
やまとことばは、言葉を「検証」しない。みずからが言葉それ自体として発せられている。
ジョン・レノンオノ・ヨーコと出会って惚れたきっかけは、日本の女が持つ、世界に対する「イエス」という感慨の深さに感激したことにあるのだそうです。
彼女の「イエス」という心身の身振りが、ひといちばい不安神経症の傾向の強いジョンの魂を救った。
オノ・ヨーコは、ときどきしゃらくさいこともいう人だけど、彼女の中には、やまとことばにおける「え=イエス」という感慨が深く宿っているのではないかということも、なんとなくわからなくもない気もします。
やまとことばを深く身体化している日本の女の「すごみ」は、そこにある。
とりとめもない話になってしまいました。