内田樹という迷惑・うつしみ

「杉山巡」というハンドルネームの人のブログを読みました。
一日一日に点を打って生きる、と言ったのは立原正秋だが、僕がずっと気になっているこの言葉を、この人はすでに実践しているようにうかがえました。そういう思いで、その忘備録のようなひとことひとことを読ませてもらいました。
点を打てない僕も内田氏も、ろくでもない人種だ。
内田氏のよく言う「未来のことを妄想(想像)せよ」なんて、まったく、点を打てないゲスな人間の吐くせりふだ。
点を打てるか打てないかは、人間としての「格」というか「品性」の問題で、できる人はできる、できないやつは死ぬまでできない、そんなようなことだろうか、と思ったりします。
しかし、この人がただ「いい人だ」と思ったのではない。どこかしらにやくざなところがありそうにも思える。
「やくざなところ」とは、ようするに「デカダンス」です。過ぎてしまったことはもうどうでもいい、未来なんか当てにしない、という態度のことです。
二枚で七百なんぼのパンツをスーパーで買った、ということをなんの装飾もなく淡々と語ることは、できそうでできないことなのだ。そこに、照れもはにかみもない。生きてあるということの何たるかに深く気づいている人の語り口だ。その「何もない」という感慨の中にこそ、「永遠」がある。
それは、彼のオリジナリティではない。世の中にはそういう人がいる、というだけのことだ。この世の中には「今ここ」に永遠を見てしまう人がどこかにいる。いつもいる。もしかしたら、どこにだっている。誰にだって、そういう心の動きがどこかに潜んでいる。人間が存在するかぎり、そういう人がどこかにいる・・・・・・。
「今ここ」に永遠を見ようとする気持は、誰の中にもある。それが「人間」の始まりではないか。とも思う。四本足の猿が二本の足で立ち上がることは、ひとつのデカダンスではないかと思える。
デカダンスという「混沌(カオス)」、それを打ち消して二項対立の「秩序」を築いていったのが近代合理主義というものかもしれない。
しかし、人間であるかぎり、デカダンスというやくざな心から、だれも逃れられない。完璧な秩序、などというものはない。人間のつくる秩序には、どうしても「ルール」が必要になる。それは、その秩序が完璧でないことの証しなのだ。だれもがデカダンスというやくざな心を抱えていることの証しなのだ。
上手に人間性としてのデカダンスと和解し、一日一日を点を打って生きていること、それを「品性」というのかもしれない。
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そのブログに、「うつせみ・うつしみ」というやまとことばのことが語られていました。
もともとそれは「うつそみ」と言って、単純に「生きている人」のことを指した。それが転じて、「うつしみ・うつせみ」になったのだとか。
「うつせみ」と言って蝉の抜け殻をイメージし、命のはかなさをあらわすようになったのは、平安時代以降のことらしい。
しかし、「うつそみ」が生きている人のことを意味するのなら、この場合の「そ」は、不自然です。「うつそみ」が「うつせみ」になるのはわかるが、生きている人をあらわすなら、「うつしみ」といったほうが自然なのではないか。
古代には、文書を書き写す臣(おみ)=役人がいて、そのことを「うつす(し)+おみ」すなわち「うつそみ」と言っていた、という説もあるらしい。
「おみ」というからには、えらい役人だったのでしょう。「御身(おんみ)」の「おみ」です。今でも、目上の人に対して「おみ(=あなた)」と言っている地方がある。
単純に支配階級のことを「おみ」と言っていた、という説もある。
もしかしたら、「うつそみ」という役人が現れてその言葉がクオリティを持ってきたために、「うつしみ」も「うつそみ」になっていったのかもしれない。
「うつそみ」は、「現(うつ)そ身」とは書かない。「現臣」と書く。「臣」は、「人」のことではなく、「役職」や「階層」をあらわす。
万葉集には、「(死んだ弟に対して)うつそみの人なる我」という表現がある。このときの「うつそみ」は、単純に「生きている身」という以上に「生き延びて出世をしたが俗世間の垢にまみれてしまった」という意味を含んでいるのかもしれない。そういう人のことを「うつそみの人」といったのかもしれない。ただ「生きている身」というだけの意味なら、わざわざ「の人」をつける必要はないのではないか。
万葉のころの「人」という言葉は、現代のように人間一般を指したのではなく、特定の人のことだったのです。たとえば「まれなる人」とか「雲の上の人」とか「ほかいびと」とか、そんなふうに使われていた。
だけど、「うつしみ」は、人間一般のことだ。
「うつしみ」が「うつそみ」以前の言葉か、以後か、とにかく文字が生まれる以前のことを考えるなら、僕は「うつそみ」が語源だとは直ちに信じない。
「けがれ」のこともそうだけど、語源は、文字以前のところまでさかのぼって類推していかないとわからないのではないだろうか。
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しかし気になるのは、「うつす」という言葉です。
「打つ」「討つ」「棄(う)つ」「全(う)つ」「鬱(うつ)」「空(うつ)」「虚(うつ)」「写す」「移ろふ」「美(うつく)し」「現(うつつ)」、これらの「うつ」という音韻に共通する古代人の感慨とは、どういうものだったのだろうか。
「写(うつ)す」は「現(うつ)す」でもあった。古代人は「現(うつ)す」と表記していたらしい。「うつそみ」は「現臣」と書く。
「うつ」とは、この世界の現象のこと。この世界の現象に対して古代人は、「うつ」と発声してしまうような感慨を持っていたらしい。
すべてという意味の「全(う)つ」と、何もないことの「空・虚(う)つ」が同じ感慨だった。このへんが、やまとことばの真骨頂だろうと思えます。
「うつ」の対語は「他(ほか)」。「うつ」は「内(うち)」でもあり、ようするに「内部」と「外部」のこと。
古代人は、旅芸人のことを「ほかひびと」といった。「ほかひ」とは、もともと「よその土地(に住んでいる)」という意味であり、「ほかいびと=旅芸人」とは、よその土地から来た人のこと。そこから「他界」という意味も含みながら、ついには「祝う」とか死者の霊を「弔う」というような儀礼的な言葉になっていった。
「現(うつつ)」とは、生きてある「今ここ」のこと。目覚めている状態。正気のこと。
「夢うつつ」というニュアンスは、現代人による誤用らしい。
「うつ」とは、これが世界のすべてだ、という感慨のこと。
「う」は、「うっ」と息が詰まるというか、息を吸い込むような発声です。そして「つ」と発声すれば、その息が吐き出される。なんだかみもふたもない解釈だが、息を吸って吐くことのもっともプリミティブなかたちが、「うつ」という発声であろうと思えます。「う」と言って吸い込んだ息をそのまま吐き出せば、しぜんに「つ」という発声になる。
「生きる」とは、「息をする」ことだ。古代人のそういう無意識の感慨から、「うつ」という言葉が生まれてきた。
上に書いたさまざまな「うつ」にまつわる言葉は、すべて、生きてある「今ここ」に立ってこの世界の現象に反応してゆくときの感慨から生まれてきたのではないだろうか。
「打つ」は、息を吸い込んで吐き出すことともになされる行為です。「討つ」は、内にためこんだ恨みを晴らす行為だ。「うつろふ」とは、中のものが外に出てゆくこと。「現(うつ)す」とは、隠れているものが現れてくること。
われわれのこの身体もまた、どこかからこの世に現れてきたものだ。というか、いったん母親の胎内のおさまり、そこから現れてきたのだ。だから、「現(うつ)し身(身)」という言葉は古代からあったかもしれない。
「現臣(うつそみ)」が本当に語源かどうかわからない。
ともあれ、生きることは息をすることだ、という感慨。そこに立てば、空気という空虚それじたいが何よりも確かなものであるし、それがすべてだという思いにもなる。
「うつ」とは、空気のことなのだ。
「うつくし」とは、もともと子供に対するいとしさを表現する言葉であったのが、やがて「竹取物語」のように小さいものやきらきら光るものをあらわすようになり、そののちに現在のような「美」という概念を持つようになってきた。つまり最初は、生きていることそれじたいに対する感動をあらわす言葉だったのだ。子供というこんなにも危なっかしくてあやふやな生きものが生きているという感動、それが「うつくし」だった。
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現代人の「鬱(うつ)」だって、つまりは息を吸って吐くということがうまくできなくなることかもしれない。
息を吸って吐くということを、ばかにしちゃいけない。かんたんなようで、あんがいかんたんでもないのです。
この世界に対するわれわれの感じ方は、あんがい呼吸に仕方によって決定されているのかもしれない。
うまく呼吸ができないと、この世界がゆがんで見える。
「うつくし」の「うつ」と、「鬱」の「うつ」とでは、イントネーションが違う。スムーズな呼吸と停滞した呼吸くらいに違う。どちらも呼吸に違いないのだが。
鬱になったら、まず、生きることは息をすることだ、というところから世界の見方をトレーニングしていけばいいのかもしれない。
こんなことを言うと、すぐ座禅とか武道の呼吸法を持ち出してくる俗物が現れてくるに決まっているのだが、僕が言いたいのはそういうことじゃない。
そんなものはくだらない。
そんなゲスなテクニックの問題ではない。世界に対する反応の仕方の問題なのだ。
空の青さが目にしみるような、目の前のあなたにときめくような、そんな「うつ」という言葉の発し方があるに違いない。
「うつくし」とか「うつろふ」とか「うつつ」とか、そんな感慨と発声がちゃんと身についている人間でありたいものだ、と願っている。しかし今のところ僕にとっては、それらのどの言葉もうまく口から出てこないわけで、なんとも情けない話です。